【南朝宋】劉昱(後廃帝)|少年皇帝の暴走と蕭道成による政権掌握までを徹底解説

後廃帝・劉昱(南朝宋・皇帝) 031.皇帝

後廃帝・劉昱は、南朝宋第7代皇帝である。
父の明帝劉彧が死去した472年に幼くして即位し、477年に殺害されるまで皇帝の座にあった。

『宋書』『南史』『資治通鑑』には、自ら武器を持って市中を徘徊し、
通行人や動物を無差別に殺害したこと、人体を切り裂くことを楽しんだこと
一日も殺人をしなければ不機嫌になったことなど、
南朝宋の歴代皇帝の中でも際立って異常な逸話が数多く記録されている。

しかし後廃帝の治世を、残虐な少年皇帝が暴走しただけの時代として理解することはできない。
父の明帝は皇位を守るため孝武帝系の皇族を大量に殺害し、さらに自らの兄弟まで排除していた。
その結果、後廃帝が即位した時点で皇帝を支え得る有力な劉氏皇族は大幅に減少していた。

幼い皇帝に代わって袁粲・褚淵ら重臣が朝政を補佐したが、
宮廷では阮佃夫・楊運長ら近臣も権力を持ち、
地方には桂陽王劉休範、建平王劉景素、荊州刺史沈攸之ら強力な軍事勢力が存在した。

474年の劉休範の乱と476年の劉景素の乱を通じて急速に台頭したのが、
のちに南朝宋を滅ぼして南斉を建国する蕭道成だった。

後廃帝は成長すると次第に重臣や近臣の統制から離れ、
自ら宮城を抜け出して市中や郊外を徘徊するようになった。

その暴力はやがて蕭道成にも向けられ、蕭道成自身が殺されかねない状況となる。
477年、蕭道成は王敬則らを通じて宮廷内部の後廃帝側近を取り込み、後廃帝を殺害させた。

後廃帝の死は、一人の暴君の排除だけを意味しなかった。
弟の順帝劉準が擁立されたものの、実権は蕭道成へ移り、
わずか二年後の479年には南朝宋そのものが滅亡する。

後廃帝の治世は、劉宋皇帝権力の崩壊と蕭道成による王朝交代が直接結びついた時代だった。

明帝の長男として生まれ、幼くして皇帝となる

劉昱は463年、当時まだ湘東王だった劉彧、のちの明帝の長男として衛尉府で生まれた。
字は徳融、小字は慧震という。
『宋書』によれば、明帝の皇子たちは母が妊娠すると『周易』による占いを行い、
得られた卦をもとに小字を付けられており、劉昱の「慧震」もこの慣例によるものだった。

466年、父の明帝が皇帝となった翌年に皇太子へ立てられた。
470年には東宮へ移り、皇位継承者として育てられている。

しかし幼少期から学問を怠って遊びを好み、成長すると喜怒の感情が激しくなり、
意に沿わない側近を自ら殴ることがあった
と『宋書』は記している。
父の明帝もこれを問題視し、生母に厳しく教育するよう命じていた。

472年4月、明帝が崩御すると、劉昱が皇帝として即位した。
『宋書』では即位時は数え10歳にあたる。
幼帝であるため、尚書令袁粲と護軍将軍褚淵が朝政を補佐した。
即位後には江簡珪を皇后とし、明帝の皇后だった王貞風を皇太后、生母の陳妙登を皇太妃としている。

即位直後から政治が完全に放棄されていたわけでもない。
地方へ使者を派遣して民衆の苦しみや地方官の不正を調査させ、
人材を広く推薦させる詔が出され、建康周辺の水害では貧民への救済も命じられた。

473年には流刑者の帰還を認め、旱魃や重い税役に対する救済策も出されている。
これらを幼い劉昱本人の政策思想とみなすことはできないが、
少なくとも後廃帝期の朝廷そのものが最初から統治機能を失っていたわけではない。

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生父は李道児だったという噂

劉昱の出生には、後世まで伝えられた疑惑がある。

生母の陳妙登はもともと明帝の後宮に入った女性だったが、
いったん明帝の側近である李道児のもとへ与えられ、その後再び宮中へ戻されたと伝えられる。
このため劉昱は明帝の実子ではなく、李道児の子ではないかという噂が広がった

『南史』は、陳妙登が李道児の妾だったため人々が劉昱を「李氏の子」と呼び、
劉昱自身も「李将軍」を自称したと記している。
『宋書』にも、劉昱が外出する際に「劉統」と名乗ったり、
「李将軍」を自称したりしたという記事がある。

ただし、これは血統を確定できる記録ではない。
父の明帝自身についても性的不能や皇子の父親をめぐる醜聞が史書に残されており、
南朝宋末期の皇室に対する否定的な伝承が混じっている可能性には注意が必要である。
劉昱の正式な系譜上の父は明帝劉彧であり、「実父は李道児だった」と断定することはできない。

皇族粛清の後に残された幼帝と蕭道成の台頭

後廃帝が幼くして即位したこと以上に重要なのが、父の明帝が残した政治状況だった。

明帝は前廃帝を殺害して即位したのち、孝武帝の男子を大量に粛清した。
さらに晩年には、自らの即位を支えた弟の建安王劉休仁、山陽王劉休祐、
巴陵王劉休若まで殺害している。

その結果、472年に明帝が死去した時点で、
幼い後廃帝を補佐しながら皇室を支えられる有力な成人皇族は大きく減少していた。

袁粲・褚淵らが輔政を担う一方、
明帝晩年から近臣として勢力を伸ばしていた阮佃夫・楊運長らも宮廷政治に強い影響を持った。
地方には明帝の弟である桂陽王劉休範、文帝の孫である建平王劉景素、荊州を握る沈攸之らが存在し、
中央政府が彼らの軍事力を完全に統制していたわけではなかった。

この不安定な政治構造の中から急速に力を伸ばしたのが蕭道成である。

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桂陽王劉休範の乱

474年5月、江州刺史だった桂陽王劉休範が挙兵した。
劉休範は文帝の第十八子で、後廃帝にとっては大叔父にあたる。

明帝が兄弟を相次いで排除する中で生き残った有力皇族の一人であり、
明帝の死後には自らが宰相として朝政を担うことを期待していたとされる。

しかし幼い後廃帝の政権で十分な権力を与えられなかったことへの不満を強め、
ついに江州から建康へ向けて兵を進めた。

劉休範軍の進撃は速く、建康側は大きな危機に陥った。
中領軍劉勔、張永らが防衛にあたり、蕭道成も新亭へ出陣した。
劉休範軍は新亭を攻撃したが、蕭道成側がこれを破り、張敬児が劉休範を斬った。

しかし劉休範本人が死んでも戦闘は終わらず、反乱軍は建康内部へ侵入した。
劉勔は戦死し、王道隆も殺害され、張永の軍も敗走するなど、朝廷側は大きな損害を受けた。
最終的には陳顕達・張敬児らが反乱軍を破り、建康は守られた。

この戦いで蕭道成は皇帝と首都を守った軍事的功労者となった
乱後には中領軍・鎮軍将軍などへ進み、禁軍に対する影響力を強めていく。

後廃帝期に蕭道成が急速に台頭した最大の契機の一つが、この桂陽王劉休範の乱だった。

建平王劉景素の乱

476年には、南徐州刺史・建平王劉景素が京口で挙兵した。
劉景素は文帝の子・建平王劉宏の子で、皇族の中でも名望があった。

後廃帝の乱行と近臣政治への不満が高まる中、皇帝に代わる存在として劉景素に期待する者も現れ、
軍人や不満分子が周囲へ集まっていった。

一方、阮佃夫・楊運長らは劉景素を警戒し、両者の対立は深まった。
劉景素自身は当初から積極的に皇帝を倒そうとしていたとは言い切れず、
周囲の動きに押される形で476年7月に京口を占拠して挙兵した。

朝廷は任農夫・黄回・李安民らを派遣し、蕭道成が諸軍を統率した
劉景素軍は短期間で敗れ、京口は陥落する。
劉景素は捕らえられて殺害され、その三人の子供も処刑された。

桂陽王劉休範に続いて建平王劉景素まで消えたことで、
劉氏皇族の中から中央政権へ対抗できる有力者はさらに減少した。
その一方で、二度の皇族反乱への対応を通じて蕭道成は軍事的地位を高め、
476年には尚書左僕射を兼ねるまでになった。

つまり、皇族反乱を鎮圧して皇帝を守るたびに、
皮肉にも劉宋皇室ではなく蕭道成の権力が強くなっていった
のである。

成長とともに制御を失った後廃帝

後廃帝の暴虐な行動について、『宋書』は即位直後から同じ状態だったとは記していない。

幼い頃から遊びを好み、感情の起伏が激しい傾向はあったものの、
即位後しばらくは内では皇太后を恐れ、外では大臣たちを憚っていたため、
自由に振る舞うことができなかったという。

大きな転換点となったのが474年11月の元服だった。
『宋書』は、元服後から性格や行動の異常さが次第に表面化し、
475年秋から冬ごろには外出を好むようになったと記している。

当初は生母の陳太妃が後を追って行動を監督していたが、やがて母にも止められなくなった。
後廃帝は正式な行列や護衛を置き去りにして少数の側近だけを連れ、
市街や軍営、郊外へ勝手に出歩くようになる。

476年に劉景素の乱が鎮圧されると、その行動はさらに激しくなった。
『宋書』は「無日不出」、つまり外出しない日はないほどになったと記す。

解僧智・張五児ら側近とともに昼夜を問わず出歩き、
夜に承明門を開けて外へ出て翌朝戻ることもあれば、朝出て夕方まで戻らないこともあった。
正式な皇帝の儀仗は後を追うことすらできず、
護衛たちも皇帝に近づけば何をされるか分からないため、離れた場所から見守るしかなかったという。

この段階になると、「重臣が政治を行い皇帝は名目的存在だった」というだけでは説明できない。
皇帝本人は政治機構とは別のところで自由に行動し、
重臣も皇帝の行動を制止できない状態になっていたのである。

『宋書』に残る殺戮と異常な逸話

後廃帝が中国史上でも特に残虐な少年皇帝として知られるのは、
『宋書』巻9に異常な行動が極めて具体的に記録されているためである。

市中を徘徊して人や動物を殺す

後廃帝は短い軍装のような服を好み、武器を持った側近たちと市中を徘徊した。
彼らの前を通った男女だけでなく、犬・馬・牛・驢馬まで無事では済まなかった
と『宋書』は記している。

住民は皇帝一行に遭遇することを恐れ、昼間でも家の門を閉じ、
道路から人影がほとんど消えるほどだったという。

宮中でも数十本の白い棍棒を用意してそれぞれに名前を付け、
針・錐・鑿・鋸などの道具を常に側に置いた。
気に入らない者がいれば苛酷な刑罰を加え、自ら槍を振るって人を殺害することもあった。

『宋書』は後廃帝を「天性好殺」と評し、
殺人を楽しみ、一日何も起こらなければ沈んだ気分になったと記している。

宮廷の官僚たちはいつ殺されるか分からず、
「夕不及旦」、夕方になっても翌朝まで生きていられる保証がないような恐怖の中に置かれていた。

人体への異常な興味

後廃帝の逸話には、人体そのものへの異常な関心を示すものも残されている。

ニンニクを多く食べる人物について、
腹の中がどうなっているのか確かめようとして腹を切り裂いたという話が伝わる。

また妊婦を見た際には、胎児の性別を確認するため腹を開こうとしたという。
これに対して医師の徐文伯が、腹を切らなくても分かるとして鍼を用い、
妊婦を早産させて母子を救ったとされる。

こうした話は後廃帝の異常性を象徴する逸話として後世に繰り返し語られてきた。

ただし、これらの個々の逸話については史料批判が必要である。
後廃帝を殺害した側にいた蕭道成は、その二年後に南朝宋そのものを滅ぼして南斉を建国する。
南朝斉以後に形成された歴史叙述には、
殺害された後廃帝を「除かれて当然の暴君」と描く政治的な背景が存在した可能性がある。

一方で、だからといって後廃帝の暴虐記事をすべて後世の創作とする根拠もない。
『宋書』には彼の外出方法、武器、側近、被害者、最期まで極めて具体的な記事が連続しており、
『南史』『資治通鑑』にもその人物像が継承されている。

史料に誇張や道徳的脚色が含まれる可能性と、
実際に皇帝の行動が異常な水準に達していた可能性は、分けて考える必要がある。

意外なほど器用だったという記録

残虐性とは別に、『宋書』には後廃帝の意外な能力も記されている。

身分の低い者が行うような作業でも、一度見ればやり方を覚え、
金銀の加工や衣服の裁断、帽子作りなどを非常に巧みにこなしたという。
また、それまで篪という笛を吹いた経験がなかったにもかかわらず、
手に取るとすぐに調子を合わせて演奏できたとも記されている。

これは後廃帝が知的能力そのものを欠いていたことを意味しない。
物事を観察して再現する器用さを持ちながら、
その能力が皇帝としての政治や学問へ向けられなかった人物として史書は描いている。

皇帝の暴力が蕭道成へ向かう

後廃帝の暴力は、やがて最大の軍事実力者となった蕭道成にも向けられた。

蕭道成は桂陽王劉休範の乱を鎮圧して頭角を現し、建平王劉景素の乱でも軍事的な中心人物となった。
476年には尚書左僕射を兼ね、中央政界でも無視できない存在になっていた。

後廃帝も蕭道成の力を理解していたらしく、次第に彼を警戒するようになる。

有名なのが、蕭道成の腹を弓の的にしようとした逸話である。
蕭道成は大柄で腹が出ていたため、後廃帝はその腹に的を描かせて弓を射ようとした。
側近が「一発で殺してしまっては面白くない」と説得し、
鏃を外した矢に替えたため蕭道成は命を拾ったと伝えられる。

後廃帝にとっては残虐な遊びの一つだったとしても、
蕭道成にとっては皇帝の気分一つで自分が殺され得ることを意味した。

さらに477年になると宮廷内の緊張は一段と高まった。
4月には阮佃夫・申伯宗・朱幼らが皇帝廃立を企てたとして処刑され、
6月には沈勃・杜幼文・孫超之・杜叔文らが後廃帝によって殺害された。

『宋書』はこの四人について罪がなかったにもかかわらず一日に殺されたとして、
後廃帝廃位後の皇太后令でもその暴虐を示す事件として挙げている。

かつて後廃帝を支えていた近臣勢力も崩れ、
皇帝自身の行動も制御できず、蕭道成も生命を脅かされる。

この状況で蕭道成は、皇帝を排除する方向へ動いた。

477年、側近に殺された後廃帝

蕭道成は直閤将軍王敬則と後廃帝排除を計画した。

王敬則は後廃帝の身近に仕える楊玉夫・楊万年・呂欣之らを密かに取り込み、
最終的に25人が計画へ加わったと『宋書』は記している。

477年7月7日、後廃帝は簡素な車に乗り、約200人を連れて青園尼寺へ出かけた。
その後、新安寺で僧の曇度と酒を飲み、泥酔して仁寿殿へ戻った。

当時の後廃帝は日常的に勝手な外出を繰り返していたため、
宮中の門も夜間に閉じられない状態になっていた。
宿衛の兵たちも皇帝に遭遇して殺されることを恐れて逃げており、
本来皇帝を守るはずの宮廷警備そのものが機能していなかった。

後廃帝が仁寿殿東側の氈帳で泥酔して眠ると、楊玉夫と楊万年が中へ入った。
楊玉夫は後廃帝自身が護身用に持っていた刀を取り、その刀で皇帝を斬り殺した

陳奉伯が首を持ち出し、王敬則のもとへ届けた。
王敬則はその首を蕭道成の領軍府へ運び、後廃帝が確実に死んだことを示した。

蕭道成は武装して宮城へ入り、翌朝、皇太后の命令という形式を整えて安成王劉準を迎えた。
これが南朝宋最後の皇帝となる順帝である。

後廃帝は『宋書』では数え15歳。現在の満年齢では14歳だった。

死後、皇太后王貞風の令によって皇帝位を廃され、蒼梧郡王に追封された。
そのため史書では「後廃帝」のほか、「蒼梧王」とも呼ばれる。

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【南朝宋】劉準(順帝)|「帝王の家に生まれたくない」と泣いた少年皇帝の結末
劉準(りゅうじゅん/順帝)の生涯を解説。10歳で擁立されるも実権は蕭道成に握られ、禅譲により南朝宋は滅亡。名言とともに語られる最期と処刑までを史料に基づいて詳述。

後廃帝殺害は蕭道成の「簒奪」そのものではない

後廃帝が殺された477年の時点で、蕭道成がただちに皇帝になったわけではない。

この区別は重要である。
蕭道成は後廃帝の弟である劉準を順帝として擁立し、形式上は劉宋皇室を存続させた。
しかし実際には後廃帝殺害を成功させた蕭道成が中央の軍事力を握り、
皇帝を擁立できる立場に立った。

この後、袁粲・劉秉らは蕭道成を排除しようとして失敗し、荊州の沈攸之も挙兵するが敗北する。
こうした反対勢力を次々と倒した蕭道成は相国・斉王へ進み、
479年、順帝から禅譲を受ける形で皇帝となった。
南朝宋はここに滅亡し、南朝斉が成立する。

したがって、後廃帝の死をそのまま「南朝宋滅亡」とするのは正確ではない。
しかし後廃帝殺害によって、皇帝を殺し次の皇帝を選ぶ実力を蕭道成が握ったことは、
その後の王朝交代を考えるうえで決定的だった。

後廃帝をどう評価するか

後廃帝劉昱は、正史に残された記録だけを見ても、
通常の「暴君」という言葉では収まりにくい皇帝である。

市中を武装して徘徊し、人や動物を無差別に殺害したこと、自ら槍や刀を使って臣下を傷つけたこと、
殺害を娯楽としていたことなどが『宋書』に具体的に記録されている。

しかし、その治世が南朝宋滅亡へ向かった原因を劉昱一人の人格だけに求めることもできない。

劉昱が生まれる以前から、南朝宋では皇族同士の殺害が繰り返されていた。
父の明帝は、甥の前廃帝を殺して皇帝となり、
即位後には孝武帝の子供たちと自らの兄弟を大量に排除した。
その結果、後廃帝の時代には劉氏皇族内部で皇帝を支える力が著しく弱くなっていた。

その空白を埋めたのが軍事実力者だった。

桂陽王劉休範の乱を蕭道成が鎮圧し、建平王劉景素の乱でも蕭道成が軍事指揮の中心となった。
皇族が反乱を起こして消えるたびに、
皇帝を守った蕭道成の力が強くなるという逆説的な状況が生まれていた。

そして成長した後廃帝自身が、最後に残った最大の実力者である蕭道成の生命まで脅かした。

後廃帝の最期には、この治世の構造が象徴的に表れている。
皇帝が日常的に宮城を抜け出すため門は閉じられず、宿衛兵は皇帝を恐れて逃げ、
身近な側近25人が暗殺計画に加わり、最後には皇帝自身の護身刀で殺された。

皇帝を守る制度が外部の敵によって破られたのではない。
皇帝自身の行動によって内部から機能しなくなっていたのである。

一方、後廃帝を殺した蕭道成は、その後に順帝を擁立し、反対勢力を排除して、
最終的に南朝宋を滅ぼした。
そのため、後廃帝の悪行を記す史料には、
蕭道成による皇帝殺害や王朝交代を正当化する政治的文脈が存在することも忘れてはならない。

後廃帝は確かに異常な暴力を繰り返した皇帝として記録されている。
しかし歴史的により重要なのは、その暴走を止める劉氏皇族も、
皇帝を統制する重臣も、皇帝を守る宿衛も次第に機能しなくなり、
代わって蕭道成が軍事力と皇帝廃立の主導権を握ったことである。

後廃帝の治世は、南朝宋の皇帝権力が自壊し、
その空白を埋めた権臣が新王朝の皇帝へ変わっていく過程そのものだった。

史書・参考文献

・沈約『宋書』巻九「後廃帝紀」
・沈約『宋書』巻七十九「文五王伝」
・李延寿『南史』巻三「宋本紀下」
・蕭子顕『南斉書』「高帝紀」
・司馬光『資治通鑑』巻133~134「宋紀」
・『通鑑紀事本末』

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