万貴妃(ばんきひ、1428〜1487年)は、
明の第9代皇帝・成化帝(朱見深)から寵愛を受けた妃嬪である。
万貞児の名でも知られ、幼少期から宮中で育ち、土木の変と皇太子廃位を経験した朱見深に仕えた。
成化帝が即位したとき、万氏は皇帝より19歳年上の35歳だったが、
後宮で最も強い寵愛を受け、呉皇后の廃位や皇位継承をめぐる争いに深く関わった。
唯一の皇子を失った後は、ほかの妃嬪に堕胎を強いたと『明史』に記され、
のちの弘治帝・朱祐樘が宮中で密かに育てられた事件とも結びつけられている。
宦官や外戚を通じた権勢の拡大、皇貴妃への昇格、成化帝の死に先立つ最期まで、
史料に残る事績と後世の伝承を区別してたどる。
出自と宮廷生活の始まり
4歳で入宮し、孫太后に仕える
万貴妃は宣徳3年(1428年)、山東省諸城の出身とされる家に生まれた。
『明史』巻113「万貴妃伝」は、万氏が4歳で宮中に選ばれ、孫太后の宮女となったと記している。
万貞児という名で広く知られるが、『明史』の本伝では個人名を記さず、
「恭粛貴妃万氏」としている。
孫氏は宣徳帝・朱瞻基の皇后で、英宗・朱祁鎮の生母である。
宣徳帝の死後、英宗が即位すると皇太后となり、宮廷で強い発言力を持った。
万氏はこの孫氏のもとで成長し、のちに皇太子・朱見深の身辺に仕えるようになった。
明代の後宮には、皇后や妃嬪のほかに多数の宮女が置かれ、
衣服、飲食、儀礼、宮殿内の雑務などを担当していた。
幼くして宮中に入った万氏も、当初から皇帝の妃として選ばれたわけではなく、
皇太后に仕える宮女の一人だった。
朱見深は正統12年(1447年)に生まれたため、万氏は彼より19歳年上である。
万氏がいつ朱見深の身辺に配属されたのかは明らかでないが、
『明史』には、成長した万氏が東宮で憲宗に仕えたと記されている。
↓↓朱見深の祖父・宣徳帝についての個別記事は、こちら

土木の変と朱見深の皇太子廃位
正統14年(1449年)、英宗はオイラトのエセンとの戦いで捕虜となった。土木の変である。
皇帝が敵の手に落ちたことで明朝は深刻な危機に陥り、北京では兵部尚書の于謙らが防衛を進めた。
英宗の異母弟・朱祁鈺が景泰帝として即位したが、
英宗の子である朱見深は引き続き皇太子の地位に置かれた。
しかし景泰3年(1452年)、景泰帝は実子の朱見済を皇太子に立て、朱見深を廃して沂王とした。
朱見深は皇位継承者の地位を失い、政治的に不安定な境遇に置かれた。
万氏はこの時期にも朱見深に仕え続けたと伝えられる。
幼少期から身辺にいた万氏は、朱見深が皇太子の地位を失った時期を知る宮廷の人物だった。
景泰8年(1457年)、奪門の変によって英宗が復位すると、朱見深も皇太子に復帰した。
万氏はその後も東宮に仕え、朱見深が成長するまで宮廷生活をともにした。
万氏と成化帝の関係については、
幼少期に受けた保護が後年の寵愛につながったという説明が広く知られている。
ただし、皇太子廃位中の二人の具体的な会話や、万氏が朱見深をどのように守ったのかについて、
『明史』は詳しく記していない。
母親代わりとして献身的に育てたという描写には、後世の人物伝で補われた部分がある。
↓↓朱見深の父・英宗、叔父・景泰帝についての個別記事は、こちら


成化帝即位と後宮での地位
19歳年上の万氏への寵愛
天順8年(1464年)、英宗が崩御し、16歳の朱見深が成化帝として即位した。
このとき万氏は35歳であり、年齢差は19歳だった。
『明史』は万氏について、機転が利き、皇帝の意向をよく理解していたと記す。
成化帝は万氏を強く寵愛し、ほかの妃嬪が皇帝に接する機会は少なくなったという。
万氏は皇帝が遊幸する際、軍装を身につけて先導したとも記されている。
『明史』の「帝毎遊幸、妃戎服前駆」という記述である。
軍装で皇帝の前を進む姿は、一般的な後宮の妃嬪とは異なる万氏の行動として伝えられた。
ただし、軍装を身につけたことをもって、
万氏が軍隊を指揮したり、武官の職務を担当したりしたと解釈することはできない。
史料が記しているのは、皇帝の遊幸に際して万氏が軍装姿で先導したという事実である。
成化帝の寵愛を受けた万氏は、後宮の正式な序列では皇后の下に置かれていたものの、
皇帝への接近という点ではほかの女性を上回る立場にあった。
↓↓成化帝として即位した朱見深についての個別記事は、こちら

呉皇后への杖打ちと即位直後の廃后
成化帝の即位後、最初に皇后となったのは呉氏だった。
呉皇后は天順8年7月に冊立されたが、その地位はわずか一か月余りで失われた。
『明史』巻113「憲宗呉皇后伝」によれば、万氏は成化帝が東宮にいた頃から寵愛を受けていた。
皇后となった呉氏は万氏の過失を摘発し、杖で打つ処罰を加えた。
これに激怒した成化帝は、呉皇后の廃位を決定した。
皇帝は廃后の詔書で、先帝が当初選んだ女性は王氏だったにもかかわらず、
太監の牛玉が孫太后の前で呉氏を再選させたと説明した。
また、呉氏の振る舞いが軽薄で礼法に欠け、皇后にふさわしくないとも述べている。
しかし、呉氏が万氏を処罰した直後に廃位された経緯から、
『明史』は万氏への寵愛と廃后を結びつけて記述している。
万氏自身が皇后の廃位を進言したとする記述もあるが、実際に廃位の詔書を出したのは成化帝である。
廃后に伴い、呉氏の父・呉俊は投獄されて辺境へ流され、牛玉は南京孝陵での労役に処された。
牛玉の親族や関係者も官職を失い、処分は宮廷の外にまで及んだ。
呉氏に代わって皇后となったのは王氏だった。
王皇后は万氏の寵愛を争わず、後宮で目立った対立を起こさなかったと『明史』に記されている。
皇后にならなかった万氏
万氏は皇帝から最も寵愛されながら、皇后には冊立されなかった。
呉氏の廃位後、成化帝は王氏を皇后に立て、万氏は妃嬪として後宮に残った。
皇后は皇帝の正妻であり、後宮の儀礼と序列の頂点に位置する。
これに対して貴妃や皇貴妃は、皇帝の寵愛が厚くても、制度上は皇后より下位に置かれた。
万氏が皇后に立てられなかった理由について、『明史』は明確に説明していない。
万氏の年齢や出自だけを理由として断定することはできず、
王皇后の冊立には宮廷の婚姻制度や皇后選定の経緯も関係していた。
一方、王皇后は万氏の強い寵愛を受け入れ、後宮内で対立を深めなかった。
『明史』は王皇后が万氏の寵愛を平然と受け止めたと記しており、
皇后の正式な地位と万氏の実際の影響力が並存していたことがわかる。
皇子の誕生と皇位継承をめぐる争い
成化2年の出産と皇長子の夭折
成化2年(1466年)正月、万氏は成化帝の最初の皇子を出産した。
皇帝は大いに喜び、宦官を派遣して各地の山川に祭祀を行わせ、万氏を貴妃に冊立した。
しかし皇子は一歳になる前に夭折し、その後、再び子を産むことがなかった。
成化帝にとって、皇長子の死は皇位継承に関わる重大な問題だった。
明朝では皇帝の男子が皇位を継承することを基本としており、
後継者がいない状態が続けば、朝廷の政治的安定にも影響する。
『明史』によれば、給事中の李森や魏元、御史の康永韶らは、
皇帝に対して後宮の女性に広く接するよう進言した。
成化4年(1468年)には彗星の出現を受け、
大学士の彭時や尚書の姚夔も皇嗣の問題について諫言した。
成化帝は、これは宮中のことであり自分が処理すると答えたが、進言を受け入れなかったという。
皇帝に後継者がいない状態は、すでに宮廷内部だけでなく、
朝廷の官僚たちにとっても重大な懸念となっていた。
妃嬪への堕胎強要をめぐる記録
『明史』巻113「万貴妃伝」は、
万氏が寵愛を背景に横暴になり、自分の意に従わない宦官を追放したと記している。
さらに、後宮の妃嬪が妊娠すると、薬を飲ませて堕胎させたという記述がある。
この記録では、堕胎を強いられた女性が多数に及んだとされており、
万氏に対する『明史』の評価はきわめて厳しい。
ただし、『明史』は清代に完成した正史であり、成化年間の出来事を後世に編纂したものである。
堕胎の具体的な件数、被害を受けた女性の名前、
命令が伝えられた経路まで明らかにしているわけではない。
万氏による堕胎強要は、単なる近代の創作ではなく、『明史』に明記された非難である。
一方で、個々の妊娠や流産がすべて万氏の命令によるものだったと確認できるわけでもない。
また、万氏がほかの皇子を次々と殺害したという話も広まったが、
皇子の夭折を一律に万氏による暗殺とすることはできない。
史料上の非難と、後世に拡大した殺害伝説を区別する必要がある。
紀氏の懐妊と朱祐樘の誕生
成化帝には、万氏の知らないところで生まれた皇子がいた。
のちの弘治帝・朱祐樘である。
朱祐樘の生母・紀氏は、広西方面の出身で、宮中に入って女史となった女性だった。
成化帝の寵愛を受けて懐妊したが、万氏に知られると身の危険が及ぶと考えられた。
『明史』巻113「孝穆紀太后伝」によれば、万氏は紀氏の懐妊を知ると、宮女を派遣して調べさせた。しかし派遣された宮女は、紀氏の腹が病気で膨らんでいるだけだと偽って報告した。
万氏は紀氏を安楽堂へ移したという。
成化6年(1470年)、紀氏は朱祐樘を出産した。
万氏は宦官の張敏に赤子を溺死させるよう命じたが、
張敏は命令に従わず、密かに赤子を隠して養育したと『明史』は伝えている。
廃后となった呉氏も皇子の養育に関わり、食事などを与えていたという。
呉氏は万氏への杖打ちによって皇后を廃された人物だったが、
後年には朱祐樘を保護する側に回ったことになる。
この逸話では、張敏や呉氏らが万氏の命令に逆らい、皇子の生命を守った人物として描かれている。
ただし、皇子をどの場所に隠し、何人が養育に関わったのかについては、史料によって細部が異なる。
張敏による告白と父子の対面
成化11年(1475年)、朱祐樘が五歳になった頃、成化帝は後継者がいないことを嘆いていた。
『明史』によれば、宦官の張敏は皇帝に対し、実はすでに皇子がいることを告げた。
成化帝は驚き、皇子を連れてくるよう命じた。
朱祐樘は長い間髪を切らずに育てられていたため、髪が地面に届くほど伸びていたと記されている。
皇帝は初めて対面した息子を抱き、喜びのあまり涙を流したという。
朱祐樘の存在が公になったことで、長く続いた皇位継承問題は大きく動いた。
朱祐樘は宮廷に迎えられ、のちに皇太子に冊立された。
成化帝の生母である周太后も、皇子の安全を守るために養育に関わったと伝えられる。
『明史』には、周太后が朱祐樘を自分の宮中に置き、
万氏が差し出した飲食物を口にしないよう警戒したという逸話も見える。
万氏による皇子への危害が恐れられていたことを伝える記述である。
↓↓密かに養育された朱祐樘についての個別記事は、こちら

紀氏の急死と張敏の自殺
朱祐樘の存在が明らかになった後、生母の紀氏はまもなく死亡した。
『明史』は、紀氏の死について、万氏が害したとする説があったことを記している。
また、皇子を守った張敏も、その後に自殺したと伝えられる。
『明史』では、張敏が万氏を恐れて命を絶ったとする記述が見える。
紀氏の死と張敏の自殺は、朱祐樘の発見に続いて起きた出来事として記録されている。
ただし、紀氏が毒殺されたことや、張敏が万氏から直接殺害を命じられたことまで、
確定した事実として記されているわけではない。
朱祐樘は周太后の庇護を受けて成長し、皇太子の地位を維持した。
成化帝の死後には弘治帝として即位することになる。
皇太子の廃位をめぐる動き
朱祐樘が皇太子に立てられた後も、万氏を取り巻く宦官たちは皇位継承に介入しようとした。
『明史』巻113「万貴妃伝」によれば、銭能、覃勤、汪直、梁芳、韋興らは
皇帝への献上品を口実として民衆から財物を取り立て、国庫を浪費しながら万氏の歓心を買っていた。
珍奇な工芸品や宮観での祈祷などにも多額の費用が投じられたという。
成化帝の後宮では、その後、ほかの妃嬪からも皇子が生まれるようになった。
万氏と結びついていた梁芳らは、朱祐樘が成長して皇帝になれば、
自分たちの不正を追及されることを恐れた。
そこで梁芳らは万氏とともに、成化帝へ皇太子の交代を勧めたと記されている。
万氏の意向だけでなく、宦官たち自身の保身が皇位継承問題に関係していた。
その頃、泰山で地震が発生し、占いを行った者が東宮に災いが及ぶ兆候だと述べた。
成化帝はこれを恐れ、皇太子の交代は実行されなかったという。
『明史』が伝えるこの事件では、万氏の寵愛を利用して利益を得ていた宦官たちが、
次の皇帝の即位によって地位を失うことを警戒していた。
皇太子を廃そうとした動きは、後宮内の対立にとどまらず、
宮廷で権勢を振るう宦官たちの利害とも結びついていた。
宦官・外戚との関係と権勢の拡大
汪直・梁芳らとの関係
成化年間には、皇帝に近侍する宦官たちが政治や財政に大きな影響力を持つようになった。
その一人が汪直である。
汪直は成化13年(1477年)に設置された西廠の長官となり、
官僚や軍人の動向を調査する権限を与えられた。
西廠は東廠や錦衣衛と並んで情報収集や取り締まりを担い、
汪直は皇帝の信任を背景に権勢を振るった。
『明史』は汪直を万氏の歓心を買った宦官の一人として挙げている。
ただし、汪直が西廠で行ったすべての捜査や人事を万氏が指示したという記録はない。
西廠の設置や汪直の権限拡大には、成化帝自身の政治判断が関わっていた。
梁芳や韋興らも、珍奇な品物の献上や宮中への財物の供給を通じて万氏との関係を深めた。
『明史』は、これらの宦官が民衆から財物を取り立て、宮廷の財政を浪費したと厳しく批判している。
万氏は正式な官職を持たず、外廷の政策を直接執行する立場にはなかった。
しかし、皇帝の寵愛を受ける万氏に接近することで、
宦官たちは皇帝への取り次ぎや宮中での立場を有利にできた。
↓↓成化帝に重用され西廠を率いた宦官・汪直についての個別記事は、こちら

父・万貴と兄弟たちの出世
万氏の寵愛は、実家の万氏一族にも利益をもたらした。
『明史』巻300「万貴伝」によれば、父の万貴は錦衣衛指揮使となり、
息子の万喜、万通、万達らも官職を得た。
万貴はもともと下級の役人から出世した人物で、
皇帝から過分な恩恵を受けていることを恐れていたという。
万貴は息子たちに対し、皇帝から与えられた品物には記録が残っており、
後に返還を求められた際に失っていれば罪に問われると戒めた。
しかし息子たちは父の警告を聞き入れず、奢侈や利殖に走ったと記されている。
とりわけ万通は、以前は商売を営んでいたが、姉妹である万氏の寵愛によって急速に富と地位を得た。
宦官の韋興や梁芳らと結び、珍奇な品物を宮中に献上しては、内庫から多額の代金を受け取った。
万通の妻・王氏も宮中へ出入りし、大学士の万安は同姓であることを利用して万通に接近した。
万安の使用人が王氏のもとへ日常的に出入りしたと『明史』は伝える。
こうした関係を通じて、万氏一族は宮廷と外廷の双方に影響力を持つようになった。
万氏の寵愛は親族への官職授与だけでなく、献上品の取引、宦官との結びつき、
官僚の接近によって経済的な利益にもつながっていた。
李孜省ら方術家の進出
成化帝の宮廷では、道教の儀礼や祈祷、方術に関わる人物も重用された。
その一人が李孜省である。
李孜省は方術を用いて皇帝に接近し、宮廷で地位を得た人物として知られる。
『明史』巻300「万貴伝」は、李孜省らも万氏一族との関係を通じて出世したと記している。
万氏の寵愛を背景に、宦官、外戚、方術家がそれぞれ利益を求めて接近していたことは、
成化年間の宮廷政治を特徴づける動きだった。
ただし、これらの人物の行動をすべて万氏一人の指示によるものとすることはできない。
成化帝は汪直や李孜省らを自ら登用しており、宮廷内の権力拡大には皇帝自身の意向も関わっていた。
晩年と死
皇貴妃への昇格と成化23年の死
万氏は成化年間を通じて皇帝の寵愛を受け、最終的には皇貴妃の称号を得た。
皇貴妃は皇后に次ぐ高位の妃嬪であり、万氏の地位を示すものだった。
成化23年(1487年)春、万氏は急病によって死亡した。
『明史』には「暴疾薨」とあり、突然の病死だったことが記されている。
1428年生まれとすれば、数え年で60歳にあたる。
成化帝は万氏の死を深く悲しみ、七日間にわたって朝廷の政務を停止した。
万氏には「恭粛端慎栄靖皇貴妃」の諡号が贈られ、天寿山に葬られた。
万氏の死から数か月後、成化帝も崩御した。
二人が同じ年に相次いで亡くなったことは、後世の伝記でもしばしば取り上げられている。
ただし、万氏の死による悲嘆が成化帝の直接の死因だったとすることはできない。
弘治帝即位後の万氏一族への処分
成化帝の死後、皇太子の朱祐樘が弘治帝として即位した。
弘治帝は万氏による危害を恐れられ、幼少期に宮中で密かに育てられた人物だった。
弘治年間の初め、御史の曹璘は万氏の諡号を削るよう求めた。
また、魚台県丞の徐頊は、弘治帝の生母・紀氏を診察した医師を取り調べ、
万氏の親族を逮捕して紀氏の死の真相を調査するよう上奏した。
しかし弘治帝は、先帝の意向に背くことを重く受け止め、これらの要求を認めなかった。
万氏の死後にその称号を奪い、紀氏の死をめぐる疑惑を追及することは避けたのである。
一方、万氏一族の官職や財産については別の対応が取られた。
『明史』巻300「万貴伝」によれば、成化帝の死後、言官たちは万氏一族の不正を弾劾した。
弘治帝は万喜らの官職を奪い、与えられていた封誥や内庫からの賜与品を取り戻した。
つまり、弘治帝は万氏本人の諡号を剥奪せず、紀氏の死についても追及を見送ったが、
万氏一族の特権をそのまま維持したわけではなかった。
父の万貴が生前に恐れていた、過分な恩恵が後に災いを招くという事態が、
成化帝の死後に現実となった。
万貴妃の人物像と史料上の問題
万氏については、呉皇后の廃位、皇子の夭折、妃嬪への堕胎強要、紀氏の死、朱祐樘の養育、
宦官との結託など、多くの出来事が伝えられている。
これらはすべて同じ程度に確認できる事実ではない。
呉皇后が万氏を杖打ちし、その後まもなく廃位されたこと、
万氏が成化2年に皇子を産み、その子が夭折したこと、万氏の一族が官職を得たこと、
1487年に万氏が死亡したことは、正史や関連記録によって確認できる。
一方、妃嬪への堕胎強要や紀氏の死への関与については、
『明史』に明確な非難が記されているものの、個々の事件を裏づける詳細な記録には限界がある。
とりわけ紀氏の死については、万氏による殺害説が伝わる一方、
具体的な犯行の経緯が確定しているわけではない。
また、朱祐樘を密かに育てた張敏や呉氏の逸話は、後世の人物伝や歴史物語でも広く語られた。
髪を伸ばした皇子が初めて父と対面し、成化帝が涙を流したという場面は、
皇位継承の危機を描く象徴的な逸話となっている。
万氏は成化帝の寵愛を通じて強い影響力を持ったが、
皇帝の政策決定をすべて支配した人物ではなかった。
呉皇后の廃位を命じたのは成化帝であり、汪直を重用し、西廠を設置したのも皇帝の政治判断だった。
万氏の周囲に集まった宦官や外戚たちも、それぞれ自分たちの地位や利益を求めて行動していた。
『明史』は万氏を後宮の秩序を乱した女性として厳しく描いている。
その記述を検討する際には、万氏本人の行動、皇帝による決定、宦官や親族の不正、
そして後世に広まった伝承を分けて読む必要がある。
まとめ
万貴妃は、4歳で宮中に入り、孫太后に仕えた後、皇太子・朱見深の身辺で長く過ごした。
成化帝の即位後は19歳の年齢差を超えて寵愛を受け、
呉皇后の廃位や皇子の誕生をめぐる事件に関わった。
万氏が産んだ皇長子は夭折し、
のちに弘治帝となる朱祐樘は、紀氏から生まれて宮中で密かに育てられた。
万氏による堕胎強要や紀氏の死への関与は『明史』に記されているが、
その詳細には史料上の問題が残る。
万氏の寵愛によって、父の万貴や兄弟たちは官職を得て、宦官や方術家も万氏との関係を利用した。
1487年に万氏が死亡すると、成化帝は七日間政務を停止し、その年のうちに崩御した。
弘治帝は万氏の諡号剥奪を認めなかった一方、万氏一族の官職や特権を取り消した。

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史書・参考文献
・『明史』后妃伝
・『明実録』成化朝
・『明史紀事本末』
・『万暦野獲編』
・『二十二史箚記』
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