南朝陳とは?陳氏家系図と南朝最後の小王朝の実態

南朝陳(皇帝一覧・家系図) 皇帝一覧・家系図

南北朝時代の南朝の国。首都は建康。
春秋時代に存在した陳と区別して、南陳(なんちん)とも呼ばれる。
南朝の最後の国。

魏晋南北朝は、王朝の分裂・推移が激しいため、以下略図にて補足する。

魏晋南北朝の王朝分裂・推移図
王朝の分裂・推移図

南朝陳:略家系図

南朝陳 陳氏略家系図
南朝陳 陳氏略家系図

南朝陳(557-589):皇帝一覧

   廟号  諡号  名前(諱)生年-没年
(没年齢)
在位ー退位
(年齢)
 在位期間 
高祖武帝陳霸先ちん はせん503-559
(57歳)
557-559
(54歳-57歳)
約2年
世祖文帝陳蒨ちん せん522-566
(45歳)
559-566
(37歳-45歳)
約7年
廃帝
(臨海王)
陳伯宗ちん はくそう554-570
(17歳)
566-568
(12歳-14歳)
約2年
高宗宣帝陳頊ちん きょく530-582
(53歳)
568-582
(38歳-53歳)
約14年
後主陳叔宝ちん しゅくほう553-604
(52歳)
582-589
(29歳-36歳)
約7年

①武帝(陳覇先)|建国者

侯景の乱が起こると挙兵して北上し、王僧弁と合流して552年に建康を奪還。
 侯景を滅ぼした後は、王僧弁とともに南朝梁の再建を担った。
・554年に西魏が江陵を攻略して元帝を殺害すると、の皇位継承をめぐって王僧弁と対立した。
 王僧弁が北斉の圧力を受けて蕭淵明を皇帝に擁立すると、
 陳覇先は555年に王僧弁を襲撃して殺害し、敬帝・蕭方智を復位させて政権の実権を握った。
・その後は王僧弁の旧勢力や北斉の介入に対抗し、建康へ侵攻した北斉軍を撃退。
 各地の反対勢力も抑え、政権内での地位を固めた。
・557年、敬帝・蕭方智から禅譲を受けて陳を建国した。
 しかし長江中流域には王琳ら反対勢力が残り、旧梁領を統一するには至らなかった。
 在位約2年の559年に死去し、息子の陳昌が北周に抑留されていたため、
 甥の陳蒨が文帝として即位した。

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②文帝(陳蒨)|南朝陳の安定期を築いた皇帝

・陳蒨(522~566年)は①武帝(陳覇先)の甥。
 ①武帝(陳覇先)の子・陳昌が北周に抑留されていたため、
 559年に①武帝(陳覇先)が死去すると皇帝に即位した。
・即位当初は湘州を拠点とする王琳が蕭荘を皇帝に擁立し、の再興を掲げて対抗していた。
 560年、侯瑱らが王琳軍を破ると王琳は北斉へ逃れ、蕭荘の政権も崩壊。
 長江中流域まで陳の支配が広がった。
・国内では周迪・熊曇朗・留異ら地方勢力の反乱が相次いだが、
 文帝は軍を派遣してこれらを鎮圧し、建国直後の不安定な国内情勢を収拾した。
 北斉の介入にも対抗し、北周との関係を安定させた。
・内政では戦乱で疲弊した民衆の負担軽減を重視し、節倹に努めて賦役を軽減した。
 地方官の統制や農業生産の回復にも取り組み、
 武帝(陳覇先)の建国直後には安定していなかった陳の統治基盤を固めた。
・566年、45歳で死去した。在位約7年。

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③廃帝(陳伯宗)|若くして即位し、叔父に廃された皇帝

・陳伯宗(554~570年)は②文帝(陳蒨)の長男。566年、父の死によって13歳で即位した。
 若年だったため、②文帝(陳蒨)の遺命を受けた叔父の陳頊(のちの④宣帝(陳頊))らが
 政務を補佐し、次第に陳頊が実権を掌握した。
568年、陳頊によって廃位され、臨海王に降格された。
 在位約2年と短く、皇帝として独自に政治を主導する機会はほとんどなかった。

・570年、17歳で死去した。

④宣帝(陳頊)|陳の中興を担った皇帝

・陳頊(530~582年)は②文帝(陳蒨)の弟。
 ②文帝(陳蒨)の遺命を受け、
 劉師知・到仲挙らとともに若くして即位した③廃帝(陳伯宗)を補佐したが、
 567年には劉師知・到仲挙らを排除して実権を掌握。
 568年に陳伯宗を廃して臨海王とし、569年に自ら皇帝に即位した。
・内政では節倹を重視して民衆の負担軽減を図り、
 水路の整備や農地の開墾、流民への対応などを進めた。
 ②文帝(陳蒨)期に安定した国内統治を引き継ぎながら、国力の回復と軍事力の強化を進めた。
・573年、名将・呉明徹に北斉への北伐を命じた。
 陳軍は淮水流域へ進出して寿陽などを攻略し、淮南の広い地域を獲得した。
・577年に北周北斉を滅ぼすと、陳は新たに北周と対峙した。
 578年、呉明徹率いる陳軍は北周軍に敗れ、呉明徹も捕虜となった。
 その後、陳は淮南で獲得していた領土の多くを失い、北伐による勢力拡大は後退した。
・582年、宣帝は53歳で死去した。在位約13年。

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⑤後主(陳叔宝)|陳を滅亡へ導いた最後の皇帝

・陳叔宝(553~604年)は④宣帝(陳頊)の長男。582年、④宣帝(陳頊)が死去した直後、
 弟の陳叔陵に襲撃されて負傷したが、陳叔陵は討たれ、陳叔宝が皇帝に即位した。
・即位後は政務を側近に委ねることが多く、宮廷では施文慶・沈客卿らが権勢を強めた。
 また皇太子・陳胤を廃して寵姫・張麗華の子である陳深を皇太子とするなど、
 後継者をめぐる混乱も生じた。
・589年、の文帝・楊堅は晋王・楊広らに大軍を率いさせて陳への南征を開始した。
 軍は各地で長江を渡り、陳軍の防衛線を突破して首都・建康へ迫った。
・建康が陥落すると、⑤後主(陳叔宝)は寵姫の張麗華らと宮中の井戸に隠れたが、
 将・韓擒虎らに発見されて捕らえられた。
 これによって南朝陳は建国から32年で滅亡し、による中国統一が完成した。
・⑤後主(陳叔宝)は捕虜となった後も処刑されず、長安へ移されてから待遇を受けた。
 604年、52歳(数え年)で死去した。
・政治面では陳最後の皇帝となった一方、文学を好み、
 自ら詩を作るとともに多くの文人を宮廷に集めた。
 とくに「玉樹後庭花」が知られ、後世には亡国を象徴する楽曲として語られるようになった。

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王朝らしさ:

「南朝最後の小王朝」

キーワード

・南朝最後の王朝
・弱小国家の奮闘
・節倹政治(②文帝・④宣帝)
・江北争奪戦
・文化の爛熟、享楽政治(⑤陳叔宝
の南征
・長江防衛線の崩壊

空気感

・小国ゆえの緊張感
・②文帝・④宣帝期は質素で実務的、しかし余裕はない
・文化は華やかだが、国力は常にギリギリ
・北方の強国(北周)に追い詰められる圧迫感

物語性

・①武帝末の混乱を収拾し、南朝最後の王朝建国
・②文帝が反乱鎮圧・減税・節倹で国家を安定化
・③廃帝は若年で傀儡、叔父(④宣帝)に廃される
・④宣帝が軍事強化し江北を奪うが、北周に押し返される
・⑤後主(陳叔宝)が享楽に溺れ、政治は完全に麻痺
の大軍が南下し、抵抗らしい抵抗もできずに滅亡

崩壊パターン

「努力と節倹で延命 → 暗君 → 強国に呑まれた小王朝」

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