霍去病(かくきょへい、前140年頃-前117年)は、
前漢の武帝に仕えた将軍で、匈奴との戦争で大きな戦果を挙げた人物である。
大将軍・衛青の甥、皇后・衛子夫の姉の子にあたり、
十代で武帝の側近となると、18歳頃に初めて匈奴遠征に参加した。
その軍歴は驚くほど短い。
元朔6年(前123)の初陣から元狩4年(前119)の漠北遠征まで、
主要な戦歴はわずか数年間に集中している。
その間に冠軍侯、驃騎将軍へ昇り、河西方面では渾邪王・休屠王の勢力を崩し、
漠北遠征では匈奴領深くまで進撃した。
元狩6年(前117)に20代前半で死去したため、その軍歴は最盛期のまま途絶えている。
『史記』と『漢書』は霍去病の華々しい戦功だけでなく、武帝から特別に寵愛されたこと、
精鋭を与えられていたこと、兵士への配慮に欠ける面があったこと、
李広の子・李敢を射殺したことなども伝える。後世の英雄像だけでは捉えきれない人物である。
霍去病の出自と武帝への接近
霍去病の母・衛少児は、武帝の皇后となった衛子夫の姉であり、
大将軍・衛青の姉でもあった。父は平陽県の役人だった霍仲孺である。
霍仲孺は平陽侯家に出入りしていた時期に衛少児と関係を持ち、霍去病が生まれた。
しかし二人は正式な夫婦ではなく、霍仲孺は任地から帰ると別の女性と結婚した。
衛少児はその後、陳平の曾孫にあたる陳掌と関係を持った。
したがって霍去病は、父の霍氏一族のもとで育った人物ではない。
霍去病の境遇を大きく変えたのは母方の一族だった。
衛子夫が武帝の寵愛を受け、やがて皇后となり、
衛青も対匈奴戦争で軍功を重ねて大将軍へ昇ったことで、衛氏一族は武帝朝を代表する外戚となった。
霍去病もその一員として宮廷へ入り、若くして侍中となった。
『史記』は霍去病が騎射に巧みだったと記している。
武帝はこの若者を気に入り、衛青の軍に従わせることになった。
外戚という出自が霍去病に早い出世の機会を与えたことは否定できないが、
その後の地位を決定したのは実際の戦果だった。
↓↓伯母・衛子夫、叔父・衛青についての個別記事は、こちら


異母弟・霍光との出会い
霍去病には父を同じくする異母弟がいた。
後に武帝の遺詔を受けて昭帝を補佐し、前漢中期の政局を左右する霍光である。
霍去病は成長するまで父・霍仲孺が誰なのか知らなかったという。
驃騎将軍となった後、出征の途中で河東を通った際、役人に命じて霍仲孺を迎えさせた。
霍仲孺は息子に会うと恐縮して拝礼したが、
霍去病は跪いて「去病は早く父君の子であることを知らなかった」と応じたと『史記』は伝える。
霍去病は霍仲孺のために田地や屋敷、奴婢などを大量に購入し、凱旋の途中に再び立ち寄ると、
異母弟の霍光を長安へ連れ帰った。
霍光はまだ十代で、霍去病の働きかけによって郎となり、やがて諸曹侍中へ進んだ。
後世の霍氏一族を考えるうえで、この行動は大きな意味を持つ。
霍去病自身は若くして死んだが、彼が長安へ連れてきた霍光は武帝・昭帝・宣帝の三代に仕え、
霍去病の死後も霍氏を前漢政治の中心に残すことになる。
18歳頃の初陣と冠軍侯への封爵
元朔6年(前123)、武帝は衛青に大軍を率いさせ、匈奴を攻撃させた。
霍去病はこの遠征に参加し、剽姚校尉に任じられた。『史記』はこのときの霍去病を18歳としている。
衛青は霍去病に「軽勇騎」800騎を与えた。
霍去病は本隊を離れ、数百里にわたって敵地へ入り込んだ。この初陣で得た戦果が異例だった。
漢側の損害を上回る匈奴兵を斬首・捕虜とし、単于の祖父にあたる籍若侯産を斬り、
単于の叔父・羅姑比を捕らえた。『史記』では斬首・捕虜2028人とされる。
衛青の軍に属した若い校尉が、わずか800騎で本隊を離れてこれだけの戦果を挙げたことになる。
武帝はその功績を軍中第一と評価し、霍去病を冠軍侯に封じ、1600戸を与えた。
「冠軍」という封号自体が、その軍功を象徴するものだった。
この遠征では衛青配下のすべての将が成功したわけではない。
趙信は匈奴に降り、蘇建は軍を失って単身帰還している。
そのなかで初陣の霍去病が突出した戦果を挙げたことは、
武帝が彼を独立した将軍として用いる契機となった。
驃騎将軍となり河西へ進出
元狩2年(前121)、武帝は20歳前後の霍去病を驃騎将軍に任命した。
ここから霍去病は衛青の一部将ではなく、自ら軍を率いる将軍として匈奴と戦う。
この年の河西方面への攻撃は、霍去病の軍歴でも特に重要である。
現在の甘粛省西部にあたる河西回廊は、匈奴の渾邪王・休屠王らが勢力を持つ地域だった。
漢にとっては西域へ通じる交通路でもあり、
この地域の確保はその後の対外政策にも大きな意味を持った。
春の河西遠征――焉支山を越える
春、霍去病は1万騎を率いて隴西から出撃した。
『史記』によれば、匈奴領を進むこと千余里、焉支山を越えて戦い、
折蘭王・盧胡王を破り、渾邪王の子や相国・都尉らを捕らえた。
さらに休屠王が祭天に用いていた金人を獲得し、斬首・捕虜は8000余に達した。
漢軍にも損害は出ており、霍去病の遠征を「ほぼ無傷の電撃戦」と見るべきではない。
それでも武帝は戦果を高く評価し、霍去病の封邑を加増した。
夏の遠征――祁連山まで進撃
同年夏、武帝は再び霍去病を河西へ送った。
霍去病は北地から出て居延を越え、小月氏方面を経由して祁連山へ進んだ。
『漢書』によれば、この戦いでは酋涂王を降し、斬首・捕虜3万200余、
五王、王母、単于の閼氏、王子59人、相国・将軍・当戸・都尉63人などを捕らえた。
一方、漢軍もおよそ10分の3を失ったとされる。武帝は霍去病に5000戸を加封した。
霍去病だけが順調だったわけではない。
共同作戦に参加するはずだった公孫敖は霍去病と合流できず、張騫も李広への合流が遅れた。
広大な草原・砂漠地帯で複数軍を予定どおり動かすこと自体が困難だったなか、
霍去病の軍は単独で深く進み、大きな戦果を挙げて帰還した。
後世、匈奴側の歌として
「我が祁連山を失い、我が六畜を息わせることができなくなった。
我が焉支山を失い、我が婦女をして色をなくさせた」という趣旨の歌が伝えられている。
ただし、これは『史記』『漢書』の霍去病本伝そのものに記されたものではなく、
後代の史料に見える伝承として区別する必要がある。
渾邪王の降伏を受け入れる
河西で相次いで敗れたことに単于は激怒し、渾邪王と休屠王を召し出して処罰しようとした。
危機を感じた両王は漢への降伏を相談し、使者を送った。
武帝はこれが偽装降伏ではないかと疑い、霍去病に軍を率いさせて受け入れに向かわせた。
漢軍を目にすると、渾邪王の配下には降伏を恐れて逃げようとする者が現れた。
霍去病は渾邪王の陣営へ入り、逃亡しようとした者8000人を斬って混乱を抑え、
渾邪王を先に長安へ送った。
降伏者は数万人に達し、史書では「号して十万」とも記される。
武帝は渾邪王らを列侯に封じた。
河西の匈奴勢力が大きく後退したことで、漢はこの地域への支配を拡大していく。
のちに武威・酒泉・張掖・敦煌の河西四郡が整備され、西域へ向かう漢の交通路が形成された。
霍去病の河西遠征は単なる大量斬首ではなく、漢と匈奴の勢力圏そのものを変化させた戦役だった。
元狩4年の漠北遠征と「封狼居胥」
元狩4年(前119)、武帝は対匈奴戦争でも最大級となる遠征を実施した。
大将軍衛青と驃騎将軍霍去病にそれぞれ5万騎を与え、
さらに歩兵・輸送部隊を伴わせて漠北へ進ませた。
当初、霍去病には単于を攻撃させる構想があったが、
捕虜から得た情報によって単于の位置が想定と異なることが判明し、出撃方面が変更された。
衛青は定襄、霍去病は代郡から北へ進んだ。
左賢王軍を破り、2000余里を進む
霍去病軍は匈奴の左賢王軍と遭遇した。
戦闘の結果、左賢王は逃走したが、漢軍はその配下を大破した。
『史記』では斬首・捕虜7万443級、匈奴の屯頭王・韓王ら三人、将軍・相国・当戸・都尉ら
83人を捕らえたとされる。
霍去病はそこで停止せず、さらに北へ進んだ。
『史記』はその行程を2000余里とし、弓閭河を渡り、狼居胥山で天を祭る儀礼を行い、
姑衍山で地を祭り、瀚海にまで達したと記す。
これが後世「封狼居胥」と呼ばれる故事である。
敵地の奥深くまで進んで祭天の儀礼を行った霍去病の戦功を象徴する言葉となり、
後世には武将にとって最高級の軍功を表す典故として使われるようになった。
ただし、「霍去病が匈奴を完全に滅ぼした」という意味ではない。
単于自身を攻撃したのは衛青軍であり、衛青は伊稚斜単于の本隊と激戦を行っている。
霍去病が戦ったのは左賢王方面だった。
漠北遠征によって匈奴は大打撃を受けたが、その国家・政治勢力が消滅したわけでもない。
大司馬となり衛青と並ぶ
漠北遠征後、武帝は衛青と霍去病をともに大司馬とし、驃騎将軍の秩禄を大将軍と同等にした。
ここで二人の政治的な位置にも変化が生じた。
『史記』は、衛青の旧知や門客の多くが霍去病のもとへ移り、官爵を得ようとしたと記している。
衛青のもとに残ったのは任安ら少数だったという。
これは衛青の軍事能力が失われたという意味ではない。
武帝の寵愛と期待が、若い霍去病へ急速に傾いていたことを示している。
霍去病の戦い方は本当に「常識外れ」だったのか
霍去病の用兵で際立つのは、精鋭騎兵の機動力を生かして匈奴領深くまで進み、
王侯や部族集団を直接攻撃したことである。
本隊から離れて長距離を進む戦い方は初陣から見られ、
河西・漠北への遠征でも、迅速な進軍によって匈奴側の中枢に大きな打撃を与えた。
こうした長距離進攻を支えた方法の一つが、携行物資を抑え、敵地でも食糧を確保することだった。
漠北遠征について『史記』『漢書』は「約軽齎」「取食於敵」と記しており、
荷を軽くして進み、敵から食糧を得たため、遠くまで進んでも兵糧が尽きなかったとしている。
ただし、霍去病が補給を無視し、現地調達だけで軍を動かしたわけではない。
漠北遠征は多数の騎兵・軍馬と物資を投入した国家規模の遠征であり、
『漢書』には霍去病軍にも車重が伴っていたことが記されている。
漢側の兵站を備えたうえで、進撃時の荷を軽くし、
敵地での食糧確保を組み合わせることで騎兵の機動力を維持していたのである。
また、この戦い方を霍去病個人の才能だけから説明することもできない。
『史記』は武帝が霍去病のために勇敢な兵を選んで与えたことを記しており、
彼は精鋭を率いることのできる立場にあった。
漢が長年の対匈奴戦争を通じて蓄積した軍事力と、
衛青らによるそれ以前の遠征の経験も、霍去病がさらに遠方へ攻勢を拡大できた背景にあった。
霍去病の戦い方は、兵站を顧みない無謀な突進だったのではない。
漢の国力と武帝の支援を背景に精鋭騎兵を率い、携行物資を抑えながら敵地でも食糧を確保し、
機動力を保ったまま匈奴の王侯・部族集団を直接攻撃するものだった。
その大胆さは確かだが、「常識を無視したから勝った」とするより、
利用できる軍事資源を長距離の騎兵戦に適した形で運用したと見る方が実態に近い。
武帝の寵愛と霍去病の人物像
霍去病の軍功は突出していたが、『史記』が描く人物像は単純な英雄ではない。
霍去病は若くして侍中となり、武帝の身近で育った。
『史記』は、彼が若くして高貴な身分となったため、
兵士をいたわることに疎かったという趣旨の記述を残している。
武帝は霍去病の出征時に太官から大量の食糧を与えたが、
帰還時には余った米や肉が捨てられている一方、兵士の中には飢えていた者もいたという。
また塞外で兵士が食糧不足に陥っていたときにも、霍去病は蹴鞠の場所を設けて遊んだと記される。
衛青は兵士への配慮で知られ、謙抑的な態度を取った。
それに対して霍去病は、皇帝の寵愛を当然の環境として成長した人物だった。
司馬遷は両者の違いをかなり意識して記述している。
「匈奴未滅、無以家為也」
一方、霍去病には私生活の贅沢に執着しなかったことを示す有名な逸話もある。
武帝は霍去病のために立派な邸宅を建て、その出来栄えを見せようとした。
これに対し霍去病は、匈奴がまだ滅びていないのに家のことを考えてはいられない、
という趣旨の言葉を述べた。
この「匈奴未滅、無以家為也」は、
国家の戦いを自らの生活より優先する武将を象徴する言葉として後世まで伝えられた。
武帝から兵法を学ぶよう勧められる
武帝は霍去病に孫子・呉起の兵法を学ばせようとしたこともあった。
しかし霍去病は、戦いではその時々の方略を見るべきで、
古い兵法を学ぶ必要はないという趣旨の返答をしたと伝えられる。
これは「兵法を知らなくても直感だけで勝てた」という意味にまで広げるべきではない。
霍去病は騎射に優れ、実際の軍隊を率いて複雑な長距離遠征を成功させている。
史書が伝えるのは、既成の兵法書をそのまま学ぶことより実戦での状況判断を重視する姿勢である。
李敢を射殺する
霍去病の人物像で無視できないのが李敢殺害事件である。
名将・李広は元狩4年の漠北遠征に参加したが、衛青の命令によって東道を迂回することになり、
道に迷って本隊との合流に遅れた。
帰還後、軍法上の取り調べを受けることになった李広は、それを恥じて自殺した。
李広の子・李敢は、父の死は衛青の責任だと考え、衛青を殴って負傷させた。
衛青はこの事件を隠して李敢を処罰しなかった。
しかし衛青の甥である霍去病は許さなかった。
元狩5年(前118)、甘泉宮で行われた狩猟の際、霍去病は李敢を射殺した。
武帝は寵愛する霍去病を処罰せず、「李敢は鹿に角で突かれて死んだ」として事件を処理した。
霍去病が皇帝からどれほど特別な扱いを受けていたかを示す事件でもある。
24歳前後での死と葬送
元狩6年(前117)、霍去病は死去した。
『史記』と『漢書』の本伝は死因を記していないが、
後に異母弟の霍光が武帝に上奏した文には、霍去病が「病死」したとある。
初陣の元朔6年(前123)に18歳と記されていることから、没年齢は24歳前後だったと考えられる。
武帝は霍去病の死を悼み、属国の玄甲軍を長安から茂陵まで並べて葬送した。
墓は武帝の茂陵の近くに築かれ、匈奴との戦いで大勝した祁連山をかたどったという。
また、その武功と領土を広げた功績にちなみ、「景桓侯」と諡された。
冠軍侯は子の霍嬗が継いだ。
霍嬗も武帝に寵愛され、奉車都尉となって元封元年(前110)の泰山封禅にも従ったが、
その後まもなく死去した。
子がいなかったため、ここで冠軍侯国はいったん断絶した。
霍去病の墓と「病が去る」伝承
霍去病の名にある「去病」は、文字通り読めば「病を去らせる」という意味になる。
しかし、『史記』『漢書』には、この意味に基づいて名づけられたとする説明はなく、
命名の由来は明らかではない。
一方、若くして死んだ名将の名と「去病」という字義は、後世に病気平癒と結びつけられた。
茂陵近くの霍去病墓では、墓碑や「霍去病」の文字に触れると病が治る、
あるいは病気を遠ざけられるという俗信が伝えられている。
これは前漢当時の逸話ではなく、霍去病の名に「病を去る」という意味を読み込んで成立した
後世の民間伝承として区別する必要がある。
霍去病の人物評・評価
霍去病の軍功そのものは、『史記』『漢書』の記録から見ても極めて大きい。
18歳頃の初陣で軍功第一となり、20歳前後で驃騎将軍として河西へ進出し、
元狩4年には漠北で左賢王軍を破って狼居胥山まで達した。
20代前半で死去したため、これらの戦果はごく短期間に集中している。
ただし、霍去病を「それまでの戦争の常識を一人で変えた天才」と評価すると、史料から離れすぎる。
武帝期の対匈奴攻勢は霍去病一人によって始まったものではなく、
衛青はすでに河南の地を奪回し、朔方を漢の支配下に置き、
右賢王を破るなど大きな戦果を挙げていた。
霍去病はその軍事的蓄積と武帝による大規模な国力投入の上に登場した将軍である。
また、霍去病の軍には選抜された兵士が与えられていたことを史書自身が認めている。
司馬遷はその大胆な深入りを評価する一方、「天幸」に恵まれて窮地に陥らなかったとも記しており、
無条件に称賛しているわけではない。
人物としても同様である。
私邸より匈奴との戦いを優先する発言を残す一方、兵士が飢えていても十分に顧みなかったとされ、
叔父を傷つけた李敢を私的な報復によって射殺している。
武帝はその殺人すら処罰しなかった。
霍去病の実像は、苦難の末に一兵卒から成り上がった将軍ではない。
衛氏という有力外戚の一員として若くから武帝の近くに入り、皇帝から精鋭と大きな権限を与えられ、
その機会に実際の戦場で応えて急速に軍功を積み重ねた人物である。
恵まれた出発点と武帝の寵愛だけでは説明できない戦果を残した一方、
その特権的な立場から生じた傲慢さや苛烈さも正史には記録されている。
まとめ
霍去病が後世まで特別な存在として記憶されたのは、
若くして大きな戦果を挙げたというだけではない。
武帝が匈奴に対して攻勢を強めた時期に、その期待に応えて従来より遠方まで漢軍の攻撃範囲を広げ、
河西や漠北における軍事的優位の確立に重要な役割を果たしたことにある。
一方、『史記』が描く霍去病は、後世の「悲劇の天才将軍」というイメージだけでは捉えられない。
武帝から格別の待遇を受ける一方で、兵卒への配慮を欠く面を記され、
李敢を射殺するという事件も起こしている。
司馬遷もその成功を無条件に称賛しているわけではなく、
恵まれた立場や「天幸」にも目を向けている。
霍去病は、若さや華々しい戦果だけを切り取って評価するより、
武帝期の対匈奴政策が生み出した将軍であり、
その条件を実際の軍功へ結びつけた人物として見る必要がある。
そうすることで、伝説化された「天才将軍」とは異なる、史書に記された霍去病の姿が見えてくる。
史書・参考文献
・司馬遷『史記』巻一百十一「衛将軍驃騎列伝」
・班固『漢書』巻五十五「衛青霍去病伝」
・司馬遷『史記』巻二十「建元以来侯者年表」
・司馬光『資治通鑑』漢紀
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