緑珠(りょくしゅ)は、西晋の富豪・石崇(せきすう)のもとにいた女性で、
正史『晋書』には「美しく艶やかで、笛をよくした」と記される。
生年や年齢、本来の姓、両親などは同時代に近い史料からは分からない。
史料上で確認できるのは石崇の妓となって以降であり、その生涯の大部分は記録に残されていない。
一方、唐・宋以降になると緑珠をめぐる記録は大きく増えた。
現在の広西チワン族自治区博白県付近の出身で姓を梁氏とする話、
石崇が真珠を代価として迎えた話、
笛だけでなく舞にも優れていたという話、楽曲を作ったという伝承などが現れる。
さらに故郷には緑珠井や緑珠江の伝承が残り、
死後には緑珠の弟子が宮廷に入ったとする記録も見える。
永康元年(300)、趙王司馬倫の側近として権力を握った孫秀が緑珠を求めた。
石崇は後房の女性数十人を並べて好きな者を選ばせようとしたが、緑珠だけは渡さなかった。
やがて石崇は司馬倫・孫秀に敵対する人物として逮捕される。
兵が邸宅に到着すると、緑珠は石崇に「死をもって報いる」と告げ、楼から身を投じた。
正史における緑珠の記述は短い。
しかしその死は長く記憶され、後世には「緑珠楼」「墜楼人」「金谷妓」などの典故が生まれた。
緑珠の出自と故郷
緑珠の生年と家族は不明
緑珠の生年は分かっておらず、西晋当時に近い記録にも年齢は記されていない。
両親や兄弟などの家族についても記録がなく、
石崇のもとへ入る以前にどのような生活を送っていたのかは不明である。
正史『晋書』石崇伝では、緑珠は石崇の「妓」として登場する。
現在では石崇の「妾」と説明されることも多いが、
『晋書』本文で用いられているのは「妓」であり、
正式な妻妾としての身分や立場について詳しい記述はない。
緑珠の出自と故郷にまつわる伝承
梁氏の娘だったという伝承
正史には記されない緑珠の出身地について、唐代以降になると具体的な伝承が現れる。
唐末の劉恂が嶺南地方の風物を記した『嶺表録異』には、
白州の双角山の麓に「緑珠井」があり、
かつてそこに梁氏の美しい娘がいたという話が収められていた。
『嶺表録異』は後世に散逸した部分があるものの、この記述は北宋の『太平広記』に引用されている。
さらに北宋の楽史に帰される『緑珠伝』では、
緑珠を白州博白県の人とし、双角山の麓に生まれたと伝えている。
白州博白県は、現在の広西チワン族自治区博白県付近にあたる。
『緑珠伝』は博白山、博白江、盤龍洞、房山、双角山、大荒山など周辺の地名も挙げており、
緑珠の故郷を具体的な土地として描いている。
こうして唐・宋以降の記録では、緑珠は博白に生まれた梁氏の娘とされるようになった。
ただし、姓を梁氏とすることも、博白県出身とすることも『晋書』には記されておらず、
後世に伝えられた出自である。
「緑珠」という名の由来
『緑珠伝』は、「緑珠」という名の由来についても説明している。
同書によれば、南方の越の地域では真珠を貴重な宝として尊び、
女児が生まれると「珠娘」、男児が生まれると「珠児」と呼ぶ習俗があり、
緑珠という名もこれに由来するという。
ただし、この説明が記されたのは北宋時代であり、
緑珠が実際にどのような経緯でその名を得たのかは分からない。
本名だったのか、石崇のもとに入ってから呼ばれた名なのか、
あるいは芸名に近いものだったのかも不明である。
『晋書』には「緑珠」の名で登場するが、その由来についての記述はない。
故郷に残る緑珠井と緑珠江
『太平広記』に引用された『嶺表録異』には、
緑珠の故郷とされた双角山に「緑珠井」と呼ばれる古井があったという伝承が残されている。
この井戸は梁氏の旧居にあったとされ、
土地の老人たちは、その水を汲んで飲んだ家には美しい娘が多く生まれると語り伝えていた。
やがて、ある人物が「美色は世の中の役には立たない」と考えて大きな石を投じ、
井戸を塞いだところ、その後も美しい娘は生まれたものの、身体に欠損のある者が多くなったという。
『嶺表録異』系統の伝承には、緑珠の名を冠した川も登場する。
双角山から流れ出た水が容州方面の川と合流し、その流れは「緑珠江」と呼ばれた。
『太平広記』はこの地名について、王昭君の故郷に「昭君村」があることを引き合いに出し、
名高い美女を生んだ土地がその女性の名で呼ばれるようになった例として説明している。
緑珠井と緑珠江の伝承からは、唐代には緑珠が博白地方の出身者として語られ、
その美貌と土地そのものが結びつけられていたことがうかがえる。
石崇が真珠三斛で迎えたという話
緑珠がどのような経緯で石崇のもとへ入ったのかについて、
『晋書』は何も記していないが、後世には石崇が南方で緑珠を見いだし、
多量の真珠を代価として迎えたという逸話が伝えられている。
『嶺表録異』系統の記録では、石崇が「交趾採訪使」となった際に緑珠を見いだしたとされ、
『太平広記』には「円珠三斛をもって買った」と記される。
『緑珠伝』でも、石崇が真珠三斛によって緑珠を得たという話が受け継がれている。
斛は容量を表す単位であり、真珠三斛を文字どおりに受け取れば莫大な量となる。
後世には「明珠十斛」とさらに量を増やして詠んだ詩もあり、
真珠の量は伝承によって一定していない。
こうした表現には、
石崇の財力と、それほどの代価を払って迎えられた緑珠の価値を強調する意味があったと考えられる。
ただし、この逸話に登場する「採訪使」は唐代に用いられた官名であり、西晋当時には存在しない。
『晋書』によれば、石崇は荊州刺史・南蛮校尉などとして南方に赴任した経験を持っている。
そのため、石崇が南方に赴任した史実と緑珠の南方出身伝承が後世に結びつき、
「交趾採訪使として赴任した際に緑珠を得た」という話が形成された可能性がある。
石崇が南方で緑珠と出会い、
真珠三斛を代価として迎えたという逸話は唐・宋以降の記録に伝わるが、『晋書』には見えない。
石崇と金谷園
石崇とはどのような人物だったのか
石崇は字を季倫といい、西晋建国の功臣・石苞の子として生まれた。
父の石苞は曹魏から西晋に仕え、司馬氏の政権樹立を支えた有力者で、
石崇も官僚として若くから仕官した。
石崇は修武県令を皮切りに、
城陽太守、散騎常侍、荊州刺史、大司農、太僕、衛尉などを歴任し、
呉の征服にも参加して功績を挙げた。
しかし後世にその名を広く知らしめたのは官歴よりも、
莫大な財産と、それを背景とした豪奢な生活だった。
『晋書』によれば、石崇は荊州刺史であったころ、
遠方から来る商人を襲って財物を奪うなどして巨額の富を築いたという。
邸宅や別荘は壮麗を極め、食事には水陸の珍味が並び、後房には多くの女性を抱えていた。
女性たちは絹織物をまとい、金や翡翠などの装飾品を身につけていたと伝えられる。
王愷との富比べ
石崇の莫大な財力を伝える逸話として知られるのが、外戚の王愷との富比べである。
王愷は晋の武帝司馬炎の母方の親族にあたり、
皇帝からも珍品を与えられるほどの富裕な人物だったが、
石崇はその王愷を相手にたびたび財力を競った。
『晋書』によれば、王愷が紫糸の歩障を四十里にわたって張ると、
石崇は錦の歩障を五十里にわたって張り、王愷が砂糖で鍋を洗うと、
石崇は蝋を薪の代わりに燃やしたという。
珊瑚樹をめぐる逸話も残されている。
武帝は王愷に高さ二尺ほどの珊瑚樹を与えたが、
王愷がこれを石崇に見せると、石崇は鉄の如意で叩き壊した。
王愷が怒ると、石崇は弁償すると告げ、自邸にあった珊瑚樹を運ばせた。
そのなかには高さ三、四尺に達するものが六、七本あり、
王愷が持っていたものと同程度のものも多数あったため、
王愷はすっかり気落ちしたと伝えられる。
金谷の別荘
緑珠と強く結びつけられる場所が、石崇が洛陽近郊の河南県金谷澗に所有していた別荘である。
後世には一般に「金谷園」と呼ばれるようになった。
石崇自身が元康六年(296)に記した「金谷詩序」が残っており、
当時の金谷の様子をある程度知ることができる。
それによれば、敷地には清泉や茂った林、多くの果樹、竹、柏、薬草などがあり、
水碓、魚池、土窟なども設けられていた。
また田地十頃を有し、羊二百頭のほか、鶏・豚・鵞鳥・鴨なども飼育されていたという。
石崇はこの別荘について、
「目を楽しませ、心を喜ばせるものがすべて備わっていた」という趣旨で記している。
金谷は庭園や邸宅だけで構成された場所ではなく、
豊かな自然に農地や水利施設などを備えた広大な別荘だった。
金谷集会
元康六年(296)、征西大将軍祭酒の王詡が長安へ帰ることになり、
石崇は多数の名士を金谷に招いて送別の宴を開いた。
石崇の「金谷詩序」によれば、一行は昼夜にわたって宴を続け、
場所を移しながら高所に登ったり、水辺に並んで座ったりした。
琴・瑟・笙・筑などの楽器を車に載せ、移動中にも演奏させるなど、
金谷の各所を巡りながら宴を楽しんでいたことが記されている。
参加者にはそれぞれ詩を作らせ、作ることのできない者には罰として酒三斗を飲ませた。
この集会には石崇を含め三十人が参加し、作られた詩は一巻にまとめられたという。
この金谷集会は、
賈謐の周囲に集まった石崇・潘岳・陸機らの「二十四友」と結びつけて語られることもあるが、
石崇の「金谷詩序」が記す送別宴の参加者は三十人である。
なお、緑珠が元康六年の金谷集会に参加していたことを直接示す史料はない。
笛を得意としたことから宴席で演奏した姿を想像されることもあるが、
少なくとも「金谷詩序」には緑珠の名は記されていない。
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緑珠の美貌と芸能
美貌と笛
緑珠について比較的早い史料から確認できる特徴が、その美貌と笛の技量である。
『晋書』石崇伝は緑珠を「美而艶、善吹笛」と記しており、
美しく艶やかな容貌を持ち、笛を得意としていたことを伝えている。
同様の記述は、『世説新語』「仇隙」篇の劉孝標注に引用された干宝『晋紀』にも見える。
そこでは緑珠を「美而工笛」としており、やはり美貌と笛の技量が特徴として挙げられている。
干宝は西晋末から東晋初期にかけて活動した人物で、
『晋紀』そのものは現存しないが、その文章の一部は後世の文献に逸文として残されている。
このように、美貌と笛を得意としたことは比較的早い史料に共通して見える一方、
「教養豊かな女性だった」とする直接の記録は残されていない。
「明君」の舞
北宋の『緑珠伝』では、緑珠は笛だけでなく、
「明君」と呼ばれる王昭君を題材とした舞にも優れていたと伝えられている。
晋では文帝司馬昭の名を避諱したため、「昭君」を「明君」と呼んだ。
『緑珠伝』によれば、石崇は緑珠に「明君」の曲を教え、自ら新しい歌詞を作ったという。
その歌詞では、前漢から匈奴へ嫁いだ王昭君の立場から、
故郷を離れて異民族の地で暮らすことになった境遇が歌われている。
石崇が王昭君の故事を題材として作った「王明君辞」は『楽府詩集』などにも収録されており、
石崇自身がこの題材で作品を残したことは確認できる。
一方、緑珠が「明君」を舞ったという記述は『晋書』などの早い史料には見えず、
後世の『緑珠伝』に伝えられた逸話である。
↓↓↓↓司馬昭の「昭」を避けた王昭君についての個別記事、
避諱についての解説記事は、こちら


緑珠作とされる「懊儂歌」
緑珠には、自ら楽曲を作ったという伝承も残されている。
唐の杜佑が編纂した『通典』では、「懊壟歌」について石崇と緑珠に関係する曲とし、
「絲布澀難縫」で始まる一曲だけが緑珠の時代のものだったと記している。
宋代の郭茂倩が編纂した『楽府詩集』も、
『古今楽録』を引用して「懊儂歌」を晋の石崇・緑珠の作とし、
そのうち「絲布澀難縫」の一曲だけが当時のものだったと伝えている。
歌詞は「絲布澀難縫、今儂十指穿」という短いもので、
縫いにくい布に針を通すうち、十本の指を痛めるという内容である。
「懊儂歌」と呼ばれる歌は後世にも多数作られたが、
『楽府詩集』によれば、それらの多くは東晋安帝の隆安年間(397~401)に民間で生まれたもので、
石崇・緑珠の時代に属するとされたのはこの一曲のみだった。
一方、『緑珠伝』には、石崇自身が「懊惱曲」を作って緑珠に贈ったという別の話も伝えられている。
これは石崇・緑珠の作とされる「懊儂歌」とは別のものであり、
後世の文献では両者が混同されることもある。
ただし、『通典』や『楽府詩集』はいずれも緑珠の生きた西晋より後に成立した文献であり、
「懊儂歌」を緑珠本人が作ったことを同時代史料から確認することはできない。
数十人の美女を佩玉の音で見分けたという逸話
『緑珠伝』には、石崇の後房に美しい女性が千人余りいたという伝承が記されている。
そのなかから容姿の似た女性数十人を選び、服装や装飾まで同じように整え、
玉で龍をかたどった佩や、金で鳳凰をかたどった簪を身につけさせた。
女性たちは袖を結んで柱の周囲を舞い、石崇は名前を呼ぶことなく、
佩玉の音や簪の色によってそれぞれを識別したという。
一方、『緑珠伝』に付された「翾風伝」では、この逸話に翾風という別の女性が登場する。
翾風も石崇が寵愛した女性とされ、玉の音や金の色を聞き分けることに優れていたため、
石崇は彼女に玉佩や簪を分類させたという。
佩玉の音や簪の色によって後房の女性を見分けるという逸話は共通するものの、
伝承によって細部や翾風の役割に違いが見られる。
司馬倫・孫秀の台頭と緑珠をめぐる争い
賈氏の失脚と司馬倫・孫秀の台頭
太熙元年(290)、晋の武帝司馬炎が死去すると、皇太子の司馬衷が即位して恵帝となった。
恵帝の治世では皇后賈南風や司馬氏の諸王を中心とする権力争いが続き、
のちに「八王の乱」と総称される大規模な内乱へ発展していった。
石崇は賈南風の甥である賈謐と親しく、その周辺に集まった文人や官僚たちと交流していた。
賈謐のもとには石崇のほか、潘岳、陸機、陸雲ら多くの文人が集まり、「二十四友」と呼ばれた。
石崇は単に賈氏と交際していただけでなく、その政治的・文化的な人脈のなかに位置していた。
永康元年(300)、趙王司馬倫とその腹心である孫秀が政変を起こすと、
賈南風は廃され、やがて殺害された。賈氏一派も粛清され、賈謐は殺害される。
石崇もこの政変によって官職を免ぜられ、それまで結びついていた賈氏の勢力は失われた。
司馬倫のもとで実際の政務を担い、急速に権力を拡大したのが孫秀だった。
孫秀はもともと高い家格を持つ人物ではなかったが、
司馬倫の腹心として政権の中枢に入り、政変後には大きな影響力を持つようになった。
↓↓恵帝司馬衷の皇后 賈南風についての個別記事は、こちら

孫秀が緑珠を求める
孫秀は石崇のもとに緑珠という美しい女性がいることを知り、使者を送って彼女を要求した。
このときのやり取りは『晋書』に記されているほか、
『世説新語』「仇隙」篇の劉孝標注に引用された干宝『晋紀』にも詳しく残されている。
『晋紀』によれば、このとき石崇は別館におり、涼台に登って清流を眺めていた。
孫秀の使者が訪れると、石崇は後房から数十人の女性を呼び出して使者の前に並べた。
女性たちは蘭や麝香の香りをまとい、美しい羅の衣服を着ており、
石崇はそのなかから好きな者を選ぶよう使者に告げた。
しかし使者は、並べられた女性たちが皆美しいことは認めながらも、
自分が命じられているのは緑珠を求めることであり、どの女性が緑珠なのか分からないと答えた。
これに対して石崇は、「緑珠は私が愛する者であり、渡すことはできない」という意味の言葉を返し、
孫秀の要求を拒絶した。
使者は、石崇ほどの人物であれば世情を理解し、
孫秀がどれほどの権力を持っているかも分かっているはずだとして、改めて考えるよう求めた。
それでも石崇は応じず、使者がいったん退いてから再び戻って説得しても、その意向を変えなかった。
数十人の女性から代わりの者を選ばせようとしながら、
緑珠については「吾所愛」として拒んだことから、
彼女が石崇の後房でも特に寵愛された女性だったことが分かる。
『世説新語』に残る孫秀の恨み
『世説新語』「仇隙」篇には、孫秀が石崇から緑珠を与えられなかったことを恨み、
潘岳に対しても以前から恨みを抱いていたことが記されている。
孫秀がまだ潘岳の下役だったころ、潘岳はたびたび彼を鞭打つなどして侮辱しており、
孫秀はその仕打ちを忘れていなかったという。
孫秀が中書令となった後、潘岳は宮中で彼に会い、昔の付き合いを覚えているかと声をかけた。
これに対して孫秀は、『詩経』の「中心藏之、何日忘之」という句を引き、
心の中にしまっており、いつの日に忘れることがあろうかという意味の言葉を返した。
潘岳はこの返答を聞き、自分が孫秀から逃れられないことを悟ったという。
淮南王司馬允の挙兵
永康元年(300)八月、淮南王司馬允は趙王司馬倫と孫秀に対して挙兵した。
司馬允は宮廷の宿衛兵から人望を得ていたため、司馬倫と孫秀から警戒されており、
両者が司馬允の兵権を奪おうとしたことから対立が表面化した。
司馬允は兵を率いて司馬倫の相府を攻撃し、戦いは激しく、司馬倫側に多数の死者が出た。
司馬允は一時優勢となったが、陳準の命令を受けた伏胤が援軍を装って近づき、
司馬允に詔書を読むよう求めた隙に殺害した。
司馬允の死によって挙兵は鎮圧され、その一族や関係者も処罰された。
緑珠を渡さなかったことだけが処刑理由ではない
司馬允の挙兵が鎮圧されると、
孫秀は石崇・潘岳・欧陽建らが司馬允に加担しようとしたとして逮捕した。
『資治通鑑』も、
孫秀が緑珠を求めて石崇に拒絶された経緯を記したうえで、
司馬允が敗れると、その機会を利用して
石崇・潘岳・欧陽建らが司馬允を奉じて乱を起こそうとしたとして捕らえたと記している。
石崇らが処刑に至った背景には、緑珠をめぐる孫秀の私怨だけでなく、
複数の政治的・個人的対立が存在していた。
石崇の甥である欧陽建は以前から司馬倫と不仲であり、潘岳と孫秀の間にも旧怨があった。
石崇自身も政変で粛清された賈謐と親しく、賈氏の人脈に属していたうえ、
司馬允の挙兵に加担しようとしたという罪を着せられた。
そのため、石崇が「緑珠を渡さなかったために処刑された」とだけ説明するのは、
史料が伝える政治的背景を省略した理解となる。
緑珠の投身と石崇の最期
緑珠の投身
孫秀は石崇らを逮捕するために兵を送り、『晋書』によれば、このとき石崇は楼上で宴を開いていた。
武装した兵が門に到着すると、石崇は傍らにいた緑珠に「我今為爾得罪」と告げた。
「私は今、お前のために罪を得た」という意味であり、
石崇自身も緑珠をめぐる孫秀との対立が自らの逮捕に関係していると認識していたことが分かる。
これを聞いた緑珠は涙を流し、「当効死於官前」と答えた。
「あなたの前で死をもって報いましょう」というほどの意味で、
干宝『晋紀』系統にも同様の発言が伝えられている。
後世の『緑珠伝』では「願効死於君前」とやや異なる形になっているが、
石崇の前で死をもって報いるという内容は共通している。
緑珠はこの言葉を残すと楼から身を投げた。
『晋書』は「因自投於楼下而死」と簡潔に記しており、
自ら楼下へ身を投じて死亡したことを伝えている。
『緑珠伝』では石崇が緑珠を止めようとしたという描写も加えられているが、
『晋書』本文には見えない。
緑珠が死亡したときの年齢は分かっておらず、投身を選んだ理由についても、
史料は「孫秀のもとへ連れて行かれることを拒んだ」「石崇の破滅に責任を感じた」
といった内面まで説明していない。
比較的早い史料から確認できるのは、
逮捕の兵が到着した際、石崇の言葉に対して死をもって報いる旨を答え、
その直後に楼から身を投じたことまでである。
石崇の逮捕と処刑
緑珠が投身した後、石崇は逮捕された。
『晋書』によれば、石崇は捕らえられた当初、
自分に下される処分は交州か広州への流刑程度だと考えていたが、
実際には死刑に処されることになった。
洛陽の東市へ護送される途中、
石崇は「奴らは私の家の財産を狙っているのだ」という趣旨の言葉を口にした。
これを聞いた逮捕者から、財産が災いを招くと分かっていたのであれば、
なぜもっと早く散じなかったのかと問われると、石崇は答えることができなかったという。
石崇と一族の処刑
石崇は潘岳、欧陽建らとともに処刑され、『晋書』によれば、このとき五十二歳だった。
処刑は石崇本人だけにとどまらず、母、兄、妻、子らも老幼を問わず殺害され、
死者は十五人に達したとされる。
石崇の財産も没収され、調査すると水碓だけで三十余か所、奴僕は八百余人にのぼり、
そのほかの珍宝や財貨、田宅も莫大な規模だったという。
『資治通鑑』にも、石崇・潘岳・欧陽建らが族誅され、石崇の財産が没収されたことが記されている。
一方、石崇に先立って投身した緑珠の遺体がその後どのように扱われたのかは分かっていない。
正史には埋葬場所や墓、祭祀についての記述がなく、
石崇やその一族とともに葬られたかどうかも確認できない。
後世には各地で「緑珠墓」と称される場所も現れたが、
それらを西晋当時まで遡って確認できる史料は残されていない。
緑珠の死後と後世の伝承
緑珠楼と投身場所
緑珠が身を投げた楼は、後世「緑珠楼」と呼ばれるようになった。
北宋の『緑珠伝』では、緑珠の投身後、人々がその楼を緑珠楼と呼ぶようになったとし、
その場所を歩広里付近、狄泉の近くとしている。
緑珠楼に関する記録は、それ以前の北魏時代にも見える。
楊衒之の『洛陽伽藍記』には、洛陽の昭儀寺付近にあった池を見た隠士の趙逸が、
「ここは晋の侍中石崇の家の池であり、池の南には緑珠楼があった」
と語ったという逸話が収められている。
これを聞いた洛陽の学生たちはその由来を知り、
以後、その場所を通る者は緑珠の姿を思い浮かべたという。
緑珠の死から二百年以上を経た北魏時代の洛陽でも、
石崇の旧宅と緑珠の投身を結びつける伝承が存在していたことになる。
一方、緑珠が実際にどこで投身したのかについては、史料の記述を分けて考える必要がある。
現在では「金谷園の楼から身を投げた」と説明されることが多く、
『晋書』にも、孫秀の使者が緑珠を求めて訪れた際、石崇が金谷の別館にいたことが記されている。
しかし逮捕時の記述では、石崇が「楼上」で宴をしていたとされるだけで、
その楼が金谷の別館にあったとは明記されていない。
さらに『洛陽伽藍記』では、緑珠楼が洛陽城内の石崇の旧宅と結びつけられている。
このため、早い史料に従うなら、緑珠は「石崇の楼から身を投げた」とするところまでが確実であり、
その場所を金谷園と断定することは難しい。
後世には金谷が石崇を代表する場所として知られ、緑珠とも強く結びついたことから、
投身場所についても金谷とする説明が広まったと考えられる。
緑珠の弟子・宋瑋
『緑珠伝』には、緑珠の弟子として「宋瑋」という女性が登場する。
宋瑋も容貌が美しく、笛を得意としたとされ、のちに東晋の明帝司馬紹の宮廷に入ったという。
明帝の在位は太寧元年(323)から太寧三年(325)で、
緑珠が死亡した永康元年(300)から二十年以上が経過している。
『緑珠伝』の記述に従えば、緑珠の弟子とされた女性がその後も生き、
東晋の宮廷に仕えたことになる。
ただし、宋瑋を緑珠の弟子とする記述は『晋書』には見えず、
後世に成立した『緑珠伝』に伝えられたものである。
司馬倫と孫秀の末路
石崇と緑珠が死亡した翌永寧元年(301)、趙王司馬倫は恵帝から帝位を奪って皇帝を称した。
しかし斉王司馬冏、成都王司馬穎、河間王司馬顒らが各地で挙兵すると司馬倫の政権は崩壊し、
孫秀は殺害された。司馬倫も捕らえられて恵帝を復位させたのち、自害を命じられた。
後世の『緑珠伝』は、石崇と緑珠の死からほどなく司馬倫・孫秀が滅びたことを取り上げ、
その末路を二人の恨みに対する天の報いであるかのように記している。
司馬倫政権の崩壊そのものは八王の乱における諸王の政治・軍事的対立によるものだが、
『緑珠伝』では一連の出来事が因果応報の物語として結びつけられている。
『周秦行紀』に現れる死後の緑珠
唐代には、緑珠を死後の世界に登場させた文学作品も作られた。
牛僧孺の名に仮託された『周秦行紀』では、
主人公が薄太后の廟に泊まり、そこで戚夫人、王昭君、楊貴妃、潘淑妃ら歴史上の女性たちと出会う。
その席に笛を持った美しい女性が現れ、薄太后から「石家の緑珠」と紹介される。
緑珠は一同の前で笛を吹き、さらに詩を作ったとされ、その詩には、かつての人物はすでに去り、
残された笛の音が司馬倫を恨み、金谷には千年を経ても春が戻らないという趣旨が詠まれている。
『周秦行紀』に描かれた緑珠は歴史上の本人について新たな事実を伝えるものではないが、
唐代には緑珠が笛と金谷の故事を伴う女性として知られ、
王昭君や楊貴妃らとともに過去の著名な美女を集めた物語に登場するまでになっていたことが分かる。
↓↓歴史上の美女、戚夫人、楊貴妃、潘淑妃についての個別記事は、こちら



喬知之と窈娘――唐代に用いられた緑珠の故事
唐代の詩人・喬知之と窈娘をめぐる逸話にも、緑珠の故事が用いられている。
窈娘は喬知之のもとにいた女性で、
容貌が美しく、歌舞だけでなく文章にも優れ、喬知之から深く愛されていたという。
ところが、武則天の甥である武承嗣が窈娘を求め、自邸へ連れ去った。
喬知之は、寵愛する女性を権力者に奪われた自らの境遇を石崇と緑珠の故事になぞらえ、
「緑珠篇」を作って密かに窈娘へ届けたとされる。
詩を読んだ窈娘は悲しみ、井戸に身を投じて死亡したという。
この逸話では、権力者に寵愛する女性を求められた石崇と、その後に投身した緑珠の故事が、
喬知之と窈娘の境遇を説明する先例として用いられている。
緑珠の死から数百年を経た唐代には、
その故事が同様の境遇に置かれた男女を表現する典故として利用されるようになっていた。
杜牧の「金谷園」と「墜楼人」
緑珠を題材にした作品として特に知られるのが、晩唐の杜牧による七言絶句「金谷園」である。
杜牧が金谷の旧跡を詠んだころには、石崇と緑珠の死から五百年以上が経過しており、
かつての繁栄を誇った場所もすでに過去のものとなっていた。
詩では、繁華を極めた金谷の面影が失われ、水と草だけが変わらず残る情景が描かれ、
最後には東風に吹かれて散る花が「墜楼人」に重ねられている。
ここで緑珠の名は直接出されていないが、
楼から身を投げた石崇の妓という故事を踏まえた表現であり、「墜楼人」は緑珠を指している。
後世の詩文でも、
緑珠は「墜楼人」と表現されるようになり、「金谷妓」「石家妓」などの呼称も用いられた。
こうして緑珠の投身は金谷や楼、落花などの表現と結びつき、
それらの語によって石崇と緑珠の故事を想起させる文学上の典故として用いられていった。
後世に「貞節」の女性とされた緑珠
緑珠の投身は、後世になると単なる死の記録ではなく、
石崇から受けた恩に報いた行為として道徳的な意味を与えられるようになった。
北宋の『緑珠伝』では、緑珠は石崇の恩を忘れず、
自らの命を顧みなかった「貞節」のある女性として評価されている。
同書はさらに、地位や俸禄を受けながら恩義に背く者を引き合いに出し、
それらの人々よりも緑珠の方が節操を守ったと論じている。
ここでは緑珠の投身が「報恩」や「貞節」という価値観によって解釈され、
その行動自体が人物評価の中心に置かれている。
こうした評価は『晋書』や干宝『晋紀』に記された西晋当時の人物評ではなく、
緑珠の死から数百年後に形成されたものである。
早い史料が緑珠の言葉と投身という出来事を記録したのに対し、
『緑珠伝』ではその行動に倫理的な意味づけが加えられている。
緑珠の人物評・評価
正史『晋書』は緑珠について独立した人物評を残しておらず、
その記録も石崇伝のなかに限られている。
そのため、政治的能力や学識、性格などを具体的に評価できる材料はほとんどない。
比較的早い史料から確認できる特徴としては、美しく艶やかな容貌と笛の技量が挙げられる。
また、石崇が後房の女性数十人を孫秀の使者の前に並べながら、
緑珠については「吾所愛」として引き渡しを拒んだことから、
多くの女性のなかでも特に寵愛されていたことが分かる。
緑珠自身の言動として記録されているのは、
石崇の逮捕に際して「死をもって報いる」という趣旨の言葉を述べ、
その直後に楼から身を投じたことが中心となる。
この行動の動機について史料は詳しく説明しておらず、
後世に形成された「貞節」「報恩」といった評価をそのまま本人の内面とみなすことはできない。
緑珠について史料から読み取れる人物像は限られているが、
美貌や芸能だけでなく、自ら言葉を発して行動を選んだ女性として記録されている点に特徴がある。
まとめ
緑珠は西晋の富豪・石崇のもとにいた女性で、
『晋書』には美しく艶やかで、笛を得意としていたと記される。
生年や家族、石崇のもとへ入る以前の経歴は分かっていない。
永康元年(300)、孫秀が緑珠を要求すると、石崇は「吾所愛」として引き渡しを拒んだ。
その後、石崇が逮捕される際、緑珠は「死をもって報いる」と告げて楼から身を投じた。
後世には出身地や芸能にまつわる多くの伝承が加わり、
詩文では「墜楼人」「金谷妓」などとして詠まれた。
さらに「報恩」「貞節」の女性として評価され、
正史の短い記録を超えて長く語り継がれる人物となった。
史書・参考文献
・『晋書』巻33「石苞伝附石崇伝」
・『晋書』巻59「趙王倫伝」
・『世説新語』仇隙篇
・『資治通鑑』巻83
・『太平広記』
・杜牧「金谷園」
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