【十国】花蕊夫人|後蜀滅亡のなかで詩を残した美貌の才女の生涯

花蕊夫人(後蜀の才女) 05.才女

五代十国時代の女性詩人として、「花蕊夫人」の名は広く知られている。
とりわけ有名なのが、後蜀が宋に降伏した後に詠んだと伝わる『述国亡詩』である。

君王城上竪降旗、妾在深宮那得知。
十四万人斉解甲、寧無一箇是男児。

「君王は城上に降伏の旗を掲げたが、深宮にいた私はどうしてそれを知ることができただろう。
十四万もの兵がそろって武器を捨てたというのに、男と呼べる者が一人もいなかったのか」

亡国の責任を宮中の女性へ帰すのではなく、
戦わずして降伏した君主や将兵へ突き返すような内容で、
この一首によって花蕊夫人は後世まで名を残した。
『全唐詩』にも花蕊夫人徐氏の作として収録されている。

しかし、その生涯を調べると話はそれほど単純ではない。

そもそも五代十国時代には「花蕊夫人」と呼ばれた女性が複数存在し、
前蜀の徐氏と後蜀の孟昶の妃の記事が混同されてきた。
後蜀の花蕊夫人についてさえ、姓を徐氏とする史料と費氏とする説があり、出生年も分からない。

さらに、花蕊夫人の代表作として知られる多数の『宮詞』についても、
本当に後蜀の花蕊夫人が作者なのかという大きな問題が残る。

美貌の寵妃、宮廷詩人、亡国の女性、宋太祖趙匡胤に召された旧後蜀の妃――
花蕊夫人の実像は、史実と後世の伝承を分けながら追う必要がある。

「花蕊夫人」は一人ではない

花蕊夫人について最初に注意しなければならないのは、
この名が一人の女性だけを指しているわけではないことである。

とくに混同されやすいのが、
前蜀の皇帝・王建に仕えた徐氏と、後蜀の皇帝・孟昶に仕えた女性である。

前蜀の徐氏は姉妹で王建の後宮に入り、姉は賢妃、妹は淑妃となった。
妹の徐氏は王建の子・王衍の生母であり、王衍が即位すると皇太妃となっている。
この徐氏も花蕊夫人と呼ばれたと伝わる。

一方、本記事で扱うのは、それより後の時代に成都を支配した後蜀の皇帝・孟昶の妃である
後蜀の花蕊夫人も詩才と美貌で知られ、後蜀滅亡後には宋へ連行されたと伝えられる。

ところが、二人とも蜀の宮廷に属し、ともに「花蕊夫人」と呼ばれ、
さらに詩をよくしたと伝えられたため、後世には両者の作品や逸話が入り混じった。

その典型が『花蕊夫人宮詞』である。
『全唐詩』では多数の宮詞を後蜀の孟昶妃の名下に置いているが、
後世の研究では前蜀の徐氏の作品とする説が有力となり、
さらに別人の詩まで混入していると考えられている。

したがって、「花蕊夫人が百数十首の宮詞を残した」とだけ説明すると、
前蜀と後蜀の二人を一人の女性として扱うことになりかねない。

出自――徐氏か費氏か

後蜀の花蕊夫人の出生について、確実なことは少ない。

一般には青城、現在の四川省都江堰市付近の出身とされる。
姓については「徐氏」とする記録が広く知られている一方、「費氏」とする説もあり、一定しない。
後世には「費貴妃」「徐貴妃」などさまざまな呼称が用いられているが、
これらをすべて同時代史料によって確定できるわけではない。
生年も不明である。

「花蕊」という呼称については、
その美貌が花そのものではなく花蕊になぞらえられたためなどと説明されることがある。
しかし、この種の由来も後世の説話的説明を含むため、そのまま史実とすることはできない。

確かなのは、
後蜀の皇帝孟昶の後宮に入り、その寵愛を受けた女性として後世に名を残したことである。

後蜀と孟昶

花蕊夫人が生きた後蜀は、五代十国時代に四川を中心として存在した政権である。
建国者は孟知祥で、後唐の西川節度使として成都を支配した後、934年に皇帝を称した。
しかし同年に死去し、子の孟昶が即位した。孟昶の治世は30年余りに及ぶ。

中原では後唐、後晋、後漢、後周と短期間に王朝が交替したのに対し、
四川盆地は山地によって外部と隔てられており、後蜀は比較的安定した時期を経験した。

孟昶は文化を好んだ君主としても知られ、成都では宮廷文化が栄えた。
花蕊夫人が後世に宮廷詩人として語られるようになった背景には、この後蜀宮廷の文化的環境がある。

一方、長い安定は軍事力の弛緩にもつながったとされる。
中原を統一しつつあった宋が四川へ侵攻すると、後蜀は短期間で崩壊することになる。

孟昶の寵愛を受ける

花蕊夫人がいつ孟昶の後宮へ入ったのかは分からない。
しかし後世の記録では、
容貌に優れただけでなく、文章や詩をよくする女性として孟昶の寵愛を受けたとされる。
「花蕊夫人」という呼称そのものも、彼女の美貌を象徴する名として伝えられた。

後世の花蕊夫人像では、
孟昶とともに華美な宮廷生活を送った女性という側面が強調されることも多い。
ただし、後蜀滅亡後に成立した史書や説話には、
亡国の原因を君主の奢侈や後宮の女性へ結びつける典型的な亡国譚の影響もある。

後蜀が実際に滅亡した直接の原因は、宋の軍事的膨張と後蜀側の防衛失敗である。
花蕊夫人個人が政治を左右して後蜀を滅亡へ導いたことを示す確実な史料はない。

『宮詞』が描く宮廷世界

花蕊夫人の名とともに伝わってきた文学作品として、大量の『宮詞』がある。

『全唐詩』巻798には「花蕊夫人」の名下に多数の宮詞が収録されており、
宮殿、庭園、池、舟遊び、宴会、舞楽、宮女、遊戯、季節行事など、
宮廷内部の生活が細かく描かれている。

たとえば、龍池を行き交う画船、宮中で魚を取らせて料理を作る様子、
立春の日に花を宮女へ賜る行事、夜の庭園で演奏される音楽などが詩の題材となっている。

政治や戦争を正面から扱う作品ではない。
むしろ宮廷の内部にいる者だからこそ目にする日常的な光景が連続して描かれるところに特徴がある。

宮女たちが遊びに興じる場面も多い。
投壺や双陸を楽しみ、桜桃を賭け、舞を終えた女性が汗に濡れた衣をまとって楼閣から降りる。
こうした描写によって、宮廷は単なる豪華な建築物ではなく、
そこで生活する女性たちの具体的な空間として現れる。

そのため『宮詞』は文学作品であると同時に、
五代の宮廷生活をうかがう資料としても注目されてきた。

『花蕊夫人宮詞』は本当に彼女の作品なのか

ただし、この『宮詞』をそのまま後蜀の花蕊夫人の作品とすることには問題がある。

最大の手掛かりとなったのが、宮詞のなかに見える皇帝の誕生日に関する記述である。
作品中には法元寺で中元節を祝い、それが「官家」の誕生日であることを示す内容がある。
ところが旧暦7月15日に生まれた蜀の皇帝として当てはまるのは後蜀の孟昶ではなく、
前蜀の王衍である。

このことなどから、伝世する『花蕊夫人宮詞』の主要部分を、
王衍の母である前蜀の徐氏の作とする考証が行われてきた。
さらに現存する作品群には、唐の王建や宋の王珪など、別の詩人の作品が混入している可能性もある。

つまり現在伝わる「花蕊夫人宮詞」は、一人の作者が一時期にまとめて作った作品集というより、
長い伝承の過程で複数の作品が一つにまとめられた可能性が高い。

したがって、後蜀の花蕊夫人を「百数十首の宮詞を残した詩人」と断定することは避けるべきである。

『全唐詩』が後蜀の孟昶妃の名下に収録したという文学史上の事実と、
その作者が実際に誰だったのかという問題は分けて考える必要がある。

宋による後蜀征服

960年、後周から禅譲を受けた趙匡胤がを建国した。
太祖となった趙匡胤は各地の割拠政権を次々と併合し、中国統一を進める。
四川を支配していた後蜀も、その対象となった。

乾徳2年(964)末、宋は後蜀への本格的な侵攻を開始した。

軍は複数の方面から四川へ入り、後蜀軍を破った。
山岳に囲まれた四川は本来なら防衛に適した地域だったが、後蜀側は十分な抵抗を組織できず、
翌乾徳3年(965)、孟昶はに降伏した。

長期間四川を支配した後蜀は、軍の侵攻開始からわずかな期間で滅亡した。
後世に花蕊夫人の『述国亡詩』が強烈な印象を残した背景には、このあまりにも早い崩壊がある。

後蜀滅亡と「十四万人」

『述国亡詩』で最も有名なのが、

十四万人斉解甲、寧無一箇是男児

という末尾の二句である。

ここでいう「十四万人」は、後蜀軍の兵力を文学的に表現したものと考えるべきで、
実際に14万人全員が同時に武装解除したという意味に取る必要はない。
重要なのは人数の正確さではなく、
多数の兵士が存在したにもかかわらず国を守れなかった、という対比である。

「男児が一人もいなかったのか」という言葉も、現代的な男女の優劣を論じたものではない。
当時、戦争と国家防衛を担うべき男性の君主・将軍・兵士が責任を果たさず、
戦闘に参加できない深宮の女性だけが亡国を嘆いているという逆転によって、
後蜀の支配層を批判する表現となっている。

ただし、この有名な詩にも複雑な問題がある。

『述国亡詩』にも原型があった

『述国亡詩』は花蕊夫人の完全な創作ではなく、
前蜀滅亡時に作られたとされる詩を踏まえている可能性がある。

宋代の呉曾『能改斎漫録』には、前蜀の王衍が後唐に降伏した際、王承旨という人物が、
「二十万人斉拱手、更無一箇是男児」という趣旨の詩を作ったことが記されている。

花蕊夫人の、「十四万人斉解甲、寧無一箇是男児」はこれと極めてよく似ている。
『全唐詩』自体も『述国亡詩』に王承旨の詩を注記している。

したがって、『述国亡詩』も何の前例もなく生まれた作品とは考えにくい。

しかし、単なる盗用と見るのも適切ではない。
前蜀滅亡を歌った表現を、再び蜀の国が滅びた場面に重ね合わせ、
「妾在深宮那得知」という女性自身の視点を加えたことで、
まったく異なる状況を持つ詩として伝わった。

二度にわたって四川の王朝が中原の王朝へ降伏したという歴史そのものが、
この類似した二つの詩を結びつけている。

孟昶とともに開封へ

降伏した孟昶は、一族や官僚らとともに後蜀の都成都を離れ、の都開封へ送られた。
花蕊夫人もその一行に加わったと伝えられている。

孟昶は宋太祖から処刑されることなく、秦国公に封じられた。
しかし開封到着後ほどなくして死去した。享年47。
その死について正史は病死として扱うが、後世には側による毒殺を疑う説話も生まれた。

花蕊夫人に関する物語も、この孟昶の死後から急激に増えていく。

宋太祖の前で詩を求められる

後世の説話で最も有名なのが、太祖趙匡胤の前で花蕊夫人が詩を詠んだという逸話である。

太祖は以前から彼女の詩才を聞いており、
の宮廷へ入った花蕊夫人に詩を作るよう命じたとされる。

そこで詠んだのが『述国亡詩』だったという。
目の前にいる趙匡胤こそ後蜀を滅ぼしたの皇帝だったにもかかわらず、
花蕊夫人はの勝利を称えるのではなく、後蜀の君臣が戦わずして国を失ったことを批判した。

そのものを非難しているわけでもない。
敗北した理由を軍の強大さではなく、後蜀の男たちの不甲斐なさに求めているため、
勝者である趙匡胤にも受け入れられる内容になっている。

太祖がこの詩を高く評価したという逸話は、
花蕊夫人を亡国後も気概を失わなかった才女として後世に定着させた。

もっとも、詩を詠んだ状況の細部については後世の筆記・説話によるところが大きく、
どこまでが実際の出来事だったのかは慎重に見る必要がある。

宋太祖の後宮に入ったのか

孟昶の死後、花蕊夫人は太祖趙匡胤の寵愛を受けたとする説が広く伝わっている。
この部分も正史より、代以降の筆記や説話によって膨らんだところが大きい。

よく知られる伝承では、趙匡胤は以前から花蕊夫人の美貌を聞いており、
孟昶の死後に彼女を後宮へ入れたという。
こうして花蕊夫人は、滅ぼされた後蜀皇帝の寵妃から、
後蜀を滅ぼした皇帝に仕える女性になったと語られるようになった。

この構図は非常に物語性が強いため、後世の文学や説話でも好んで取り上げられた。

しかし、太祖の正式な妃嬪としてどのような位を与えられたのかを示す確実な記録は乏しく、
後世の「太祖の寵妃」というイメージをそのまま正史上の事実として扱うことはできない。

孟昶をひそかに祀ったという伝承

さらに後世には、太祖のもとに入った花蕊夫人が、
亡き孟昶を忘れず、孟昶の肖像をひそかに祀っていたという逸話が生まれた

やがてその人物像が誰なのか問われると、孟昶とは言えないため別の神であるかのように説明し、
それが後世の神仙信仰へ結びついたという伝承まで存在する。

こうした逸話は花蕊夫人の「故国への忠節」を強調するために形成された可能性が高く、
同時代の確実な記録として扱うことはできない。

『述国亡詩』によって「亡国を忘れない女性」という人物像が定着したことで、
それにふさわしい逸話が後世に付加されていったと考える方が自然である。

花蕊夫人の死

花蕊夫人の最期については、さらに史料が錯綜している。

その後の消息が分からなくなったと見るのが最も慎重だが、
後世には太祖の弟・趙光義、後の太宗によって射殺されたという有名な説話が伝わる。

代の蔡絛『鉄囲山叢談』に見える話では、
趙匡胤が花蕊夫人を寵愛していたのに対し、弟の趙光義はこれを快く思っていなかった。

あるとき兄弟が狩猟に出た際、花蕊夫人も同行していた。
趙光義は獲物を狙うように弓を構えながら、突然向きを変えて花蕊夫人を射殺したとされる。

非常に劇的な最期だが、これは花蕊夫人の死から近い時期の公的記録ではない。
蔡絛は北宋末から南宋初にかけての人物であり、
『鉄囲山叢談』に記された内容には宮廷秘話や伝聞も多い。

そのため、「趙光義が花蕊夫人を射殺した」と確定的な史実として書くことはできない。
現在確認できるのは、そうした伝承が代に存在したということまでである。
後世にはこの説話を事実として採用し、976年ごろを没年とする説明も広まった。

一方で、確実な没年、享年、墓所はいずれも明らかではない

なぜ花蕊夫人の生涯には異説が多いのか

花蕊夫人について調べると、姓から作品、へ入った後の生活、死因まで異説ばかりが現れる。

最大の理由は、彼女が正史に詳細な伝を持つ人物ではないことにある。
さらに「花蕊夫人」と呼ばれた女性が複数存在したため、
前蜀の徐氏と後蜀の孟昶妃の記事が混同された。

文学作品の伝承も混乱を大きくした。
『全唐詩』は大量の『宮詞』を孟昶妃の名下に収め、
『述国亡詩』も花蕊夫人徐氏の作品として採録した。
しかし『宮詞』には前蜀の王衍の時代を示す内容が含まれ、別人の作品も混入している。

そのうえ後世には、美貌の亡国妃が征服王朝の皇帝に寵愛されるという物語が加わり、
孟昶への追慕や趙光義による射殺など、史実として確認しにくい逸話が積み重なった。

花蕊夫人の場合、
「有名な逸話が多い」ことと「生涯が詳しく分かっている」ことはまったく同じではない。
むしろ名声の大きさに比べ、確実に分かる個人情報が非常に少ない人物である。

花蕊夫人の文学史上の位置

花蕊夫人の文学的評価を考える際にも、『宮詞』と『述国亡詩』は分ける必要がある。

『宮詞』は宮廷内部の日常を細密に描いた作品群として高く評価されてきた。
建築、庭園、宴、音楽、遊戯、宮女の生活までを連作のように描き出す点では、
五代宮廷文化を伝える独特の文学世界を形成している。
しかし作者問題がある以上、その成果をすべて後蜀の花蕊夫人個人へ帰すことは難しい。

それに対して『述国亡詩』は、後蜀の花蕊夫人の名と強固に結びついて伝承された作品である。
しかもこの詩には、華麗な宮廷生活を描く『宮詞』とは正反対の世界がある。
宮殿も宴も音楽も消え、残っているのは降伏した君主と武器を捨てた兵士、
そして深宮に取り残された女性だけである。
だからこそ、花蕊夫人という人物は単なる「美貌の寵妃」としては残らなかった。

後蜀という国そのものは滅び、孟昶もへの降伏後まもなく世を去った。
それでも「十四万人斉解甲、寧無一箇是男児」という言葉は残り、
亡国の場面で支配者や将兵の責任を問う詩として繰り返し読まれてきたのである。

まとめ

花蕊夫人ほど、「史料に残る人物」と「後世に作られた人物像」の境界が曖昧になった女性も珍しい。

後世の花蕊夫人像からは、美貌の寵妃、優れた宮廷詩人、亡国を嘆く気丈な女性、
太祖に愛された美女、故主孟昶を忘れなかった貞節な女性、
そして宋太宗に射殺された悲劇の女性という、いくつもの顔が現れる。
しかし、そのすべてを一人の女性の確実な経歴としてつなげることはできない。

むしろ興味深いのは、
なぜこれほど多くの物語が「花蕊夫人」という名に集まったのかという点にある。

五代十国の蜀では二つの王朝が興っては滅び、前蜀と後蜀の双方に花蕊夫人と呼ばれる女性が現れた。
二人の記憶は文学作品の伝承過程で交錯し、やがて作者さえ判然としない多数の『宮詞』と、
後蜀滅亡を象徴する『述国亡詩』が同じ名のもとに伝えられた。

そのため花蕊夫人は、一人の宮廷女性の伝記という枠を越え、
五代の蜀宮廷そのものを象徴する存在になったともいえる。

確実な生年も没年も分からず、本当に彼女が書いた詩がどこまでなのかさえ確定しない。
それにもかかわらず、後蜀が滅びて千年以上を経た現在まで花蕊夫人の名が残った最大の理由は、
王朝を失った女性の名と「国はなぜ滅びたのか」を問う一首の詩が結びついたことにあった。

史書・参考文献

『宋史』
『新五代史』
『蜀檮杌』
『十国春秋』
蔡絛『鉄囲山叢談』
呉曾『能改斎漫録』
『全唐詩』巻798
『花蕊夫人宮詞』

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