卓文君(たくぶんくん)は、
前漢の武帝時代に活躍した文人・司馬相如の妻として知られる女性である。
蜀郡臨邛の大富豪・卓王孫の娘で、
一度結婚したのち夫を失って実家に戻っていたところ、司馬相如と出会った。
司馬相如の琴に心を動かされ、夜中に家を抜け出して彼のもとへ走ったという大胆な逸話は、
司馬遷の『史記』「司馬相如列伝」にすでに記されている。
その後、父から財産を与えられなかった二人は貧窮し、臨邛で酒屋を開いた。
富豪の娘だった卓文君が店先で酒を売り、司馬相如が自ら酒器を洗ったという
「文君当壚」の故事も『史記』に由来する。
一方、司馬相如が別の女性を迎えようとしたため
卓文君が『白頭吟』を作って思いとどまらせたという有名な話は、
正史ではなく後世の『西京雑記』に見える伝承であり、
現在伝わる『白頭吟』を卓文君本人の作品と断定することはできない。
卓文君は史実と後世の文学的イメージが強く重なった人物である。
その生涯をたどるには、司馬相如との恋愛譚だけでなく、どこまでが『史記』『漢書』に確認でき、
どこからが後世に形成された「才女・美女」の物語なのかを分けて見る必要がある。
卓文君の出自|蜀の大富豪・卓王孫の娘
卓文君の生年は分かっていない。
『史記』に記されるのは、彼女が蜀郡臨邛の富豪・卓王孫の娘だったことである。
卓氏は極めて裕福な一族で、司馬相如が臨邛を訪れたころ、
卓王孫の家には八百人もの家僮がいたと記されている。
卓文君は地方の一般的な家庭ではなく、莫大な財産を所有する豪族の家に生まれた女性だった。
卓文君はすでに一度結婚していたが、夫を亡くして実家へ戻っていた。
『史記』はこのときの彼女を「新寡」と記し、さらに「好音」、すなわち音楽を好んでいたとする。
この音楽への関心が、のちに司馬相如との出会いを決定的なものにした。
後世には卓文君が琴・詩文に優れた「才女」として知られるようになり、
美貌についてもさまざまな表現が付け加えられた。
しかし『史記』のこの場面で明確に確認できるのは、卓王孫の娘で、夫を亡くしたばかりであり、
音楽を好んでいたということである。後世の「絶世の美女」「琴の名手」という完成された人物像を、
そのまま正史の記述と考えることはできない。
司馬相如との出会い|琴によって始まった恋
卓文君の人生を大きく変えたのが、蜀出身の文人・司馬相如との出会いだった。
司馬相如はのちに『子虚賦』『上林賦』によって武帝に認められ、
前漢を代表する辞賦家となる人物だが、このころはまだ武帝の宮廷で名声を得る前だった。
司馬相如は景帝に仕えたのち官を辞し、梁孝王劉武のもとで鄒陽・枚乗らの文人と交流していた。
しかし梁孝王が死去すると蜀へ帰郷し、財産がなく生活にも困るようになった。
そこで以前から親交のあった臨邛県令・王吉を頼り、臨邛を訪れた。
王吉は司馬相如を非常に丁重に扱った。
毎日のように彼を訪問し、司馬相如が途中から病気を理由に面会を断るようになっても、
王吉はますます恭しく振る舞った。
この様子を見た臨邛の富豪たちは、
県令がこれほど敬意を払う人物なら相当な人物なのだろうと考え、
卓王孫と程鄭が宴席を設けることになった。
宴には百人ほどの客が集まったが、司馬相如は病気を理由に出席を断った。
王吉は食事にも手をつけず、自ら迎えに行ったため、司馬相如も断り切れず宴席へ赴いた。
『史記』は、その場にいた人々が司馬相如にすっかり心を奪われたと記している。
卓文君が戸口から司馬相如をのぞく
酒宴が進むと、王吉は司馬相如が琴を好むと聞いているとして、演奏を求めた。
司馬相如はいったん辞退したのち、琴を奏でた。
このとき卓文君は家の中にいた。
『史記』によれば、司馬相如は卓文君が夫を亡くしたばかりで音楽を好むことを知っており、
琴を通じて彼女の心を誘おうとした。
偶然演奏した琴を卓文君が耳にしたというだけではなく、
司馬相如の側から明確に働きかけていたのである。
卓文君は戸口からひそかに司馬相如の姿をのぞいた。
そして彼を気に入り、心を惹かれながらも、自分が相手にされないのではないかと心配したという。
宴が終わると司馬相如は卓文君の侍者に多くの贈り物を渡し、自分の思いを伝えさせた。
このため二人の出会いは、
後世に「琴によって結ばれた才子と才女」の物語として語られるようになった。
ただし、後世に司馬相如が奏した曲として有名になった「鳳求凰」については、
『史記』本文がその曲名や現在伝わる歌辞を記しているわけではない。
史料上確実なのは、司馬相如が琴によって卓文君の心を誘ったというところまでである。
↓↓前漢を代表する文人・司馬相如についての個別記事は、こちら

卓文君の駆け落ち|夜に家を抜け出して司馬相如のもとへ
宴の夜、卓文君は大胆な行動に出た。『史記』は「文君夜亡奔相如」と記す。
卓文君は夜中にひそかに家を抜け出し、司馬相如のもとへ走ったのである。
司馬相如は卓文君を連れ、そのまま成都へ帰った。
父の許可を得て結婚したのではなく、
卓文君自身が家を抜け出して司馬相如を選んだことは、この物語の大きな特徴である。
しかも彼女は初婚の女性ではなく、夫を亡くして実家へ戻っていた女性だった。
しかし、司馬相如の家へ到着した卓文君を待っていたのは裕福な暮らしではなかった。
『史記』は司馬相如の家について「家居徒四壁立」と記している。
家にはただ四方の壁が立っているだけ、というほどの貧しさだった。
卓王孫は娘の行動を知ると激怒した。
「娘はまったく不肖だが、殺すことまでは忍びない。しかし財産は一銭たりとも分け与えない」
という態度を取り、周囲から説得されても聞き入れなかった。
大富豪の娘だった卓文君は、自ら選んだ司馬相如との生活によって、
それまでとはまったく異なる貧困に直面することになった。
「文君当壚」|卓文君が酒を売り、司馬相如が酒器を洗う
成都で貧しい暮らしを続けるうち、卓文君は不満を抱くようになった。
そして司馬相如に、二人で臨邛へ戻れば兄弟や親族から金を借りることもできるのだから、
これほど苦しい生活を続ける必要はないと提案した。
二人は臨邛へ戻った。
司馬相如は残っていた車馬をすべて売り、その金で酒屋を購入した。
そして卓文君を店先に立たせて酒を売らせ、自分は「犢鼻褌」と呼ばれる労働時の衣服を身につけ、
雇われ人たちに交じって働きながら、市中で酒器を洗った。
これが後世まで名高い「文君当壚」の故事である。
「当壚」とは酒を売る店先に立つことであり、
富豪の娘である卓文君が自ら酒を売ったことが強烈な印象を残した。
後世には、卓文君があまりにも美しかったため
酒屋に客が殺到したという話まで語られるようになった。
しかし、『史記』が重点的に描いているのは客が殺到したことではない。
卓家の娘が公然と酒を売り、その夫が人々の前で労働者と一緒に酒器を洗っていたため、
卓王孫が激しく恥じたという点である。
父・卓王孫がついに二人を認める
卓王孫は娘夫婦の姿を聞くと、恥ずかしさのあまり家の門を閉ざして外へ出なくなった。
そこで親族や有力者たちが卓王孫を説得した。
卓王孫には一男二女がおり、財産に困っているわけではない。
卓文君はすでに司馬相如と一緒になってしまったうえ、司馬相如は貧しいとはいえ才能があり、
県令の客人として遇される人物でもある。
それなのに、なぜ二人をこのような状態にして自分たちまで辱めるのか、
というのが彼らの主張だった。
卓王孫はとうとう折れ、卓文君に家僮百人、銭百万、さらに結婚時の衣服や財物を与えた。
二人は再び成都へ帰り、田地と屋敷を購入して富裕な生活を送るようになった。
したがって、卓王孫との「和解」は、娘の恋愛を理解して祝福したという美談として描くより、
卓家の体面と娘夫婦の現実を考慮した結果と見る方が史料に近い。
卓文君と司馬相如が酒屋を営んだことは、
結果として卓王孫に二人の関係を受け入れさせることになった。
司馬相如の出世と卓文君
その後、司馬相如の人生は大きく変わった。
武帝が『子虚賦』を読み、その作者が司馬相如であることを知ると、彼を宮廷へ召し出した。
司馬相如は『上林賦』などによって武帝から評価され、前漢を代表する辞賦家として名声を得ていく。
卓文君自身の宮廷生活について正史が詳しく伝えているわけではないが、
司馬相如が武帝の使者として蜀へ戻った際には、卓家との関係について興味深い記録が残っている。
司馬相如は武帝の西南夷政策に関与し、中郎将に任じられて節を持ち、蜀へ派遣された。
蜀へ到着すると太守以下が郊外まで出迎え、県令が弩矢を背負って先導するほどの待遇を受けた。
かつて貧しく、卓王孫から娘との関係を認めてもらえなかった男が、
皇帝の使者として故郷へ戻ったのである。
この姿を見た卓王孫は、自分が娘を司馬相如へ嫁がせるのが遅かったことを嘆いた。
そして卓文君にさらに財産を分け与え、その額を息子と同等にしたという。
卓文君と司馬相如の物語は、駆け落ちと酒屋で終わったわけではない。
父から一銭も与えないと言われた娘が、のちには兄弟と同等の財産を受け取るまでになったことも、
『史記』が伝える二人の生涯の一部である。
『白頭吟』|司馬相如の心変わりを止めた詩なのか
卓文君について、駆け落ちと並んで有名なのが『白頭吟』である。
司馬相如が出世したのち別の女性を迎えようとし、
卓文君が『白頭吟』を作って別れの意思を示したところ、司馬相如が考えを改めたという物語である。
特に「願得一心人、白頭不相離」、
心を一つにする人を得て、白髪になるまで離れずにいたいという趣旨の句が有名になり、
卓文君は自らの言葉によって夫の心を取り戻した才女として語られてきた。
しかし、この話は『史記』「司馬相如列伝」には記されていない。
後世の『西京雑記』には、司馬相如が茂陵の女性を妾として迎えようとしたため、
卓文君が『白頭吟』を作って自ら別れようとし、
それを受けて司馬相如が妾を迎えることをやめたという逸話が記されている。
『白頭吟』は本当に卓文君が作ったのか
さらに注意が必要なのは、現在伝わる『白頭吟』そのものを卓文君の真作と断定できないことである。『西京雑記』は卓文君が『白頭吟』を作ったという逸話を伝えるものの、
現在一般に知られている歌辞をそのまま収録しているわけではない。
『白頭吟』は後世の文献では楽府古辞として扱われる例もあり、
卓文君の作品とする伝承については古くから疑問が出されてきた。
したがって、卓文君が『白頭吟』によって司馬相如の心変わりを止めたという話は、
彼女を象徴する重要な伝承ではあるが、
『史記』に確認できる駆け落ちや当壚の逸話と同じ確度の史実として扱うことはできない。
同様に、司馬相如から「一二三四五六七八九十百千万」という数字だけの手紙が届き、
「億」がないことから「無意(自分への思いがない)」と悟った卓文君が数字を織り込んだ
『怨郎詩』を返したという有名な話も後世の伝承であり、前漢当時の史料には確認できない。
卓文君をめぐっては、史実上の逸話に後世の詩や恋愛説話が次々と結びついていったのである。
卓文君は本当に「絶世の美女・才女」だったのか
卓文君は現在、中国古代を代表する美女・才女の一人として紹介されることが多い。
しかし史料をたどると、後世に形成された人物像と正史に記された卓文君には違いがある。
『史記』は卓文君について、卓王孫の娘であること、夫を亡くしたばかりだったこと、
音楽を好んでいたこと、司馬相如を戸口から見て心を惹かれたこと、
夜に家を抜け出したことなどを具体的に記している。
一方、「絶世の美女」「琴の名手」といった
完成された才色兼備の人物像を詳細に描いているわけではない。
『西京雑記』などの後世の説話では、
卓文君の容姿や才気、奔放な性格がさらに強調されるようになった。
『白頭吟』なども彼女と結びつけられ、
卓文君は次第に「美貌・音楽・詩才・恋愛への主体性」を兼ね備えた才女として定着していった。
ただし、こうした後世の装飾をすべて取り除いても、卓文君の史料上の行動は十分に際立っている。
父の意向ではなく自分自身で司馬相如を選び、夜に家を出て彼のもとへ走り、
貧窮すると自ら臨邛へ戻ることを提案し、酒屋では店頭に立って商売をした。
少なくとも『史記』が描く卓文君は、単に司馬相如から愛された受動的な女性ではない。
司馬相如の死後|夫を悼む誄を作ったという伝承
司馬相如は晩年、病気のため官を退き、茂陵で暮らした。
武帝が使者を送り、その著作を集めさせようとしたときには、すでに司馬相如は死去していた。
『史記』は、このとき使者が司馬相如の妻に著作について尋ねたことを記している。
妻は、司馬相如は文章を書くたびに人が持っていったため家には残っていないが、
死の直前に一巻の文章を書き、使者が来たら皇帝へ献上するよう言い残していたと答えた。
ここで妻の名は明記されていないものの、
司馬相如の死後にもその遺稿を守る妻がいたことは正史から確認できる。
さらに『西京雑記』には、卓文君が司馬相如の死を悼んで誄を作り、
それが世間に伝わったという話も記されている。
ただし、その文章として後世に伝えられるものについては成立に疑問があり、
卓文君本人の作品と断定することはできない。
卓文君の没年や晩年の詳しい生活については、正史に明確な記録が残っていない。
そのため司馬相如の死後に彼女がどのような人生を送ったのかを詳しく復元することはできない。
卓文君の物語が後世に与えた影響
卓文君と司馬相如の物語は、後世の文学に繰り返し取り上げられた。
琴によって始まる恋、父の反対を押し切った駆け落ち、貧窮生活、酒屋で働く二人、
そして『白頭吟』による夫婦の危機という一連の物語は、
才子佳人の恋愛譚を構成する格好の題材となった。
とりわけ「文君夜奔」と「文君当壚」は、中国文学で繰り返し用いられる故事となった。
後世になるほど物語は華やかになり、「鳳求凰」「白頭吟」「怨郎詩」などが結びついたことで、
卓文君は史書に登場する豪族の娘から、恋愛と才気を象徴する女性へと変化していった。
しかし、この物語が長く残った理由を後世の創作だけに求めることもできない。
卓文君が自ら司馬相如を選び、夜に家を抜け出し、父から財産を絶たれても夫と暮らし、
酒屋の店頭に立ったという核心部分は『史記』にすでに存在する。
後世の文学は何もないところから卓文君像を作ったのではなく、
正史そのものが伝える異例の行動を拡大し、理想化していったのである。
卓文君の人物評・評価
卓文君本人が政治に関与したわけでも、独立した著作集を残したわけでもない。
そのため、歴史上の卓文君について分かることの大部分は司馬相如の伝記を通じたものであり、
彼女自身の言葉を直接知ることは難しい。
それでも『史記』に記された行動からは、一定の人物像を読み取ることができる。
司馬相如の琴と人物に惹かれると家を出る決断をし、
成都での貧窮生活が続くと臨邛へ戻ることを自ら提案し、そこで酒を売ることも受け入れた。
卓文君は家の名誉や富豪の娘としての体面より、
自分が選んだ生活を実際に成り立たせることを優先している。
一方、詩才や絶世の美貌、司馬相如の心変わりに対して『白頭吟』を突きつけたという人物像には、
後世の文学的形成が大きく関わっている。
史実の卓文君と伝説の卓文君を区別することによって、
むしろ『史記』が伝える彼女自身の行動の大胆さが明確になる。
まとめ
卓文君の名が二千年以上にわたって語り継がれた理由は、
単に司馬相如という著名な文人の妻だったからではない。
『史記』が伝える彼女は、父が選んだ人生に従うのではなく、
自ら司馬相如を選んで家を出て、貧窮すれば富豪の娘という立場を捨てて酒を売った女性だった。
後世に付け加えられた『白頭吟』や「鳳求凰」の伝説を除いても、
その行動は前漢の女性をめぐる記録の中で強い印象を残す。
一方、今日知られる「美貌と詩才を備えた才女・卓文君」には、
後世の文学が作り上げた部分も少なくない。
『史記』に残された大胆な行動に、『西京雑記』などの逸話や詩歌が重ねられたことで、
卓文君は次第に「自ら愛する相手を選び、自らの言葉で愛を守った女性」へと形づくられていった。
史実の人物と文学上の人物像が重なりながら、
一人の女性が中国文化を代表する恋愛譚の主人公へ変化していったこと自体が、
卓文君という人物の大きな特徴である。
史書・参考文献
・『史記』巻117「司馬相如列伝」
・『漢書』巻57上・下「司馬相如伝」
・葛洪撰と伝わる『西京雑記』
・郭茂倩『楽府詩集』「白頭吟」
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