【後漢】班昭|『漢書』を完成させ『女誡』を著した才女・歴史家の生涯

班昭(後漢の歴史家) 05.才女

班昭(はんしょう)は、後漢の歴史家・文学者で、字は恵班、別名を姫という。
父は歴史家の班彪、兄は『漢書』を編纂した班固と、西域で活躍した班超であり、
前漢班婕妤も同族にあたる。
班昭自身も兄の死後に『漢書』編纂を引き継ぎ、完成に重要な役割を果たした。

『後漢書』は班昭を「博学高才」と評している。
和帝からたびたび宮中へ召され、皇后や貴人の教師となり、「大家(たいこ)」と呼ばれた。
鄧太后が臨朝すると政治について意見を求められるようになり、
太后の兄・鄧騭の進退をめぐって上疏したことも記録されている。
完成したばかりの『漢書』は難解で、後に大学者となる馬融も班昭からその読み方を学んだ。

一方、後世に最も広く知られた著作は、女性の行動規範を七章にまとめた『女誡』である。
現代では女性に服従を求める書物として批判的に扱われることも多いが、
班昭自身の序文によれば、もともとは嫁入りを控えた娘たちへの教育を目的として書いたものだった。

班昭の生涯を見るには、『女誡』だけでなく、『漢書』編纂者、宮廷教師、鄧太后の相談相手、
そして多数の賦・頌・論・上疏を残した著述家という複数の側面を見る必要がある。

出自と結婚

歴史家・班彪の娘として生まれる

班昭は扶風郡安陵の班氏に生まれた。正確な生年は『後漢書』に記されていない。
父の班彪は前漢末から後漢初にかけて生きた歴史家で、
司馬遷の『史記』が扱った時代より後の歴史を整理し、『史記後伝』を著した人物だった。

班氏は代々学問だけを家業としていた一族ではない。
祖先には辺境で活動した人物もおり、前漢の宮廷では班婕妤が成帝の后妃となっている。

しかし班昭の世代では、とくに父・班彪の歴史研究が子供たちに大きな影響を与えた。
班彪の長男である班固は父の仕事を受け継いで『漢書』を編纂し、
次男の班超は学問の道から離れて西域経営に身を投じた。班昭はその二人の妹だった。

『後漢書』は班昭の幼少期について具体的な逸話を残していないが、
成人後の彼女を「博学高才」と明記している。

後に『漢書』を補完し、皇后や貴人を教育し、皇帝の命令で賦頌を作るまでになったことからも、
早くから班氏の学問環境の中で古典や歴史、文章を学んでいたことが分かる。

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十四歳で曹世叔に嫁ぐ

班昭は十四歳で同郡の曹世叔に嫁いだ。
この年齢は後世の推測ではなく、
班昭自身が『女誡』の序文で「年十有四、箕帚を曹氏に執る」と記している。
箕と帚を取るとは妻として家事に仕えることを意味し、
彼女自身が結婚生活の出発点を十四歳だったと回想している。

夫の曹世叔について詳しい事績は残っていない。
『後漢書』は班昭を本名より「扶風曹世叔妻」として立伝しているが、
曹世叔は早くに亡くなったとだけ記している。
夫の死後、班昭は再婚せず、礼法を守って暮らしたとされる。

班昭には曹穀、曹成らの子がいた。
『女誡』の序文では、息子の穀が朝廷から金印紫綬を与えられる身分になったことに触れ、
もはや男子については自分で身を立てられるので心配していないと記している。
その一方、嫁入りを控えた娘たちが婦人としての礼法を十分に学んでいないことを気にかけており、
これが後の『女誡』執筆につながった。

『漢書』編纂を引き継ぐ

父と兄が進めた『漢書』編纂

班昭の生涯を大きく変えたのが、班氏が二代にわたって進めていた前漢史の編纂だった。
父の班彪は司馬遷『史記』の続編にあたる歴史書を書き、
その死後、班固が父の仕事を発展させる形で前漢一代の歴史をまとめ始めた。

班固の編纂は一時、私的に国史を改作しているとして告発される事件にまで発展した。
しかし弟の班超が洛陽へ赴いて事情を説明し、班固の原稿が朝廷に提出されると、
明帝はその才能を認め、逆に東観で正式に歴史編纂へ従事させた。
こうして『漢書』は私家の著述から国家的な編纂事業へ移っていった。

班固は長い年月をかけて本紀・列伝などを執筆したが、
永元四年(92年)、竇憲の失脚に連座して官職を免ぜられた後、洛陽の獄中で死亡した。
『漢書』は大部分が完成していたものの、「八表」と「天文志」が未完成のまま残された。


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班固の死後、『漢書』編纂を引き継ぐ

班固が未完のまま死亡すると、和帝は班昭に詔を下し、東観の蔵書閣でその仕事を引き継がせた。
『後漢書』は「兄固、漢書を著す。その八表及び天文志、未だ竟えるに及ばずして卒す。和帝、昭に詔して東観臧書閣に就き、踵いでこれを成さしむ」と記している。

「八表」は前漢の諸侯王、功臣、官僚などの系譜や官職の変遷を整理した部分で、
膨大な人物と年代を照合しなければならない。
また「天文志」は天文現象と歴史上の出来事を体系的に整理する専門性の高い篇だった。
単に兄の残稿を清書すれば済む仕事ではなく、
東観に蓄積された書籍や記録を利用しながら不足部分を補う必要があった。

『後漢書』は班昭が八表と天文志を完成させたと記す一方、
注では後に馬融の兄・馬続も詔を受けて班昭の仕事を継いだことを伝えている。
このため、とくに「天文志」の最終的な成立には馬続も関与したと考えられている。

『漢書』全体を班昭一人が「完成させた」と単純化するより、
班彪から班固へ受け継がれ、班固の死後に班昭が未完部分を継承し、
馬続もその作業に加わったと見る方が史料に即している。

宮廷教師・学者としての班昭

和帝に召され、皇后や貴人の教師となる

『漢書』編纂に携わるようになった班昭は、和帝からその学識を高く評価された。
和帝は彼女をたびたび宮中へ召し、皇后や貴人たちに班昭を師として仰がせた。

宮廷では班昭を「大家」と呼んだ。
「家」はここでは「姑」に通じる敬称であり、曹氏に嫁いでいたことから「曹大家」とも称された。
班昭は単に皇后たちへ読み書きを教えるだけではなく、
古典、礼法、歴史を含む宮廷女性の教育を担ったと考えられる。

外国や地方から珍しい品物が献上されると、
和帝は班昭に命じて、それを題材とする賦や頌を作らせた。

『後漢書』がこのことをわざわざ記しているのは、
班昭が歴史編纂だけでなく、宮廷文学を担う文章家としても認められていたためである。

馬融も班昭から『漢書』を学ぶ

『漢書』が世に出ると、内容を理解できない者が少なくなかった。
紀伝体の本文だけでなく、制度・地理・天文など多方面に及ぶ専門的な内容を含み、
独特の文章や用語も多かったためである。

そこで班昭は『漢書』そのものを教授する役割も担った。
『後漢書』によれば、同郡出身の馬融は閣下に伏して班昭から『漢書』の読み方を学んだ。

馬融は後に経学者として名を知られ、鄭玄らを教えることになる人物である。
その馬融が班昭に師事したという記録は、当時の班昭が単なる編纂補助者ではなく、
『漢書』の内容を解釈して他者へ教授できる立場にあったことを示している。

班昭による教授は『漢書』の受容にも関係した。
班固が死亡した時点では未完成だった書物が、班昭らによって整えられ、
その内容を理解するための知識も伝えられたことで、
『漢書』は前漢一代を記した正史として後世へ継承されていった。

兄・班超の帰国を求めて上書する

班昭には、もう一人の兄である班超との関係を示す記録も残っている。
班超は長年にわたって西域に滞在し、後漢の西域経営を支えていたが、
晩年になると老齢と望郷から帰国を願うようになった。

班超自身も朝廷へ帰国を願い出ていたが、なかなか認められなかったため、
班昭も和帝に上書して兄の帰国を求めた。

班昭は、班超が西域へ出てからすでに三十年近くが過ぎ、
出発したころ一緒だった者たちはすでに亡くなり、残っているのは班超だけになったと訴えた。

さらに、班超はすでに七十歳近く、衰弱して髪もなくなり、手も震え、耳も遠く、目もよく見えず、
杖なしでは歩けない状態にあると説明した。
もし異域で突然死ねば、辺境の蛮族に遺骨を捨てることになり、
本人が望郷の思いを抱いたまま死ぬだけでなく、家族にも深い悲しみを残すと訴えた。

この上書を受けて和帝は班超の帰国を認め、
永元十四年(102年)、班超は約三十年ぶりに洛陽へ戻った。
しかしすでに高齢だった班超は、帰国から間もなく死去した。

班昭の著述家・宮廷教師としての活動とは性質の異なる出来事だが、
長く西域にいた兄の晩年に直接関与した記録として重要である。

『女誡』と『東征賦』

娘たちのために『女誡』七篇を書く

班昭が後世もっともよく知られることになった著作が『女誡』である。
全七篇からなり、「卑弱」「夫婦」「敬慎」「婦行」「専心」「曲従」「叔妹」に分けて、
妻としての振る舞いや夫婦、舅姑、夫の兄弟姉妹との関係などを論じている。

『後漢書』は『女誡』全文を班昭本伝に収録している。

その序文で班昭は、自分が十四歳で曹氏に嫁いでから四十年以上が経過したと振り返っている。
父母の名を辱めたり、実家と婚家の双方へ迷惑をかけたりすることを恐れながら暮らしてきたが、
今では息子の曹穀も成長し、自分で身を立てられるようになったので、
男子についての心配はなくなったという。

一方で気がかりだったのが娘たちだった。
娘たちはこれから他家へ嫁ぐにもかかわらず、婦人としての礼を十分に教えられておらず、
嫁ぎ先で礼を失って宗族に恥をかかせるのではないかと班昭は心配した。

当時、班昭自身も長く病を患っており、いつ死ぬか分からないと考えていたため、
娘たちがそれぞれ一通ずつ書き写して身につけられるよう、七章の戒めをまとめたと説明している。

「卑弱」で女性の立場を説く

『女誡』第一篇「卑弱」で、班昭は男女の性質と役割を明確に区別している。
男子は剛を徳とし、女子は柔を用とするという当時の陰陽論に基づき、女性には謙譲と忍耐を求めた。

班昭は、女児が生まれると床の下に寝かせ、瓦で作った糸巻きを玩具として与え、
祖先へその誕生を告げるという『詩経』の記述を引き、女性には自らを低くして他者を尊重すること、
労働を厭わないこと、祭祀を担うことが求められると説いた。

現代から見れば、女性を男性より低い位置へ置く思想が明確に含まれている。
しかし班昭自身の意図を考える場合、
これを単純に後漢社会全体へ向けた政治的な女性論として読むことにも注意が必要である。

序文では、あくまで他家へ嫁ごうとしている自分の娘たちが
婚家で問題を起こさず暮らすための戒めとして書いたことが明示されている。

夫だけでなく妻にも教育が必要だと論じる

『女誡』は女性の服従だけを説いた書物ではなく、
当時の女性教育のあり方そのものに疑問を示した箇所もある。

第二篇「夫婦」で班昭は、夫婦関係は陰陽の原理に基づき、人倫の根本であるとしたうえで、
世間では男子だけを教育し、女子を教育しないことを批判した。
男子は八歳になると書物を教え、十五歳になると学問をさせるのに、
なぜ女子だけを教育しないのかと問いかけている。

班昭の論理では、夫が妻を導くために教育を必要とするのであれば、
妻も夫に仕えるための礼を知らなければならず、
一方だけを教育するのは道理を欠いていることになる。

その教育内容は現代的な男女平等を目指したものではないが、
少なくとも女性にも体系的な教育が必要だと明言した点は、
『女誡』を理解するうえで外せない部分である。

「婦徳・婦言・婦容・婦功」の四行を説く

第四篇「婦行」では、女性が身につけるべきものを「婦徳・婦言・婦容・婦功」の四つに整理した。
この「四行」は後世の女性教育に大きな影響を与えることになる。

班昭がいう婦徳は特別な才能を意味するものではなく、
静かに節度を守り、恥を知り、行動に規範を持つことだった。

婦言も弁舌の巧みさではなく、言うべきことを選び、悪い言葉を口にせず、他人を不快にさせないことを意味した。
婦容についても美貌そのものを求めたのではなく、衣服や身体を清潔に整えることを重視し、
婦功では裁縫や家事に励み、客をもてなすことを挙げている。

つまり班昭は、女性に特別な才能や容貌を要求するのではなく、
婚家の生活の中で日常的に実行できる規範として四項目を示した。

ただし、それが後世になると女性の徳目を体系化した規範として独立し、
班昭自身が想定した娘への家訓を越えて広く利用されていくことになる。

息子の赴任に同行して『東征賦』を作る

永初七年(113年)、班昭は息子の曹成が陳留長として任地へ赴くのに同行し、
その旅を題材として『東征賦』を作った。
『全後漢文』などに本文が残されており、
班昭自身の生活や思想を知ることのできる重要な作品である。

洛陽を出発した班昭は、偃師、鞏県、成皋、滎陽、原武、陽武、封丘などを通過しながら、
各地の歴史や古人の故事を思い起こしている。
匡の地では孔子が危難に遭った故事を思い、蒲では子路、さらに蘧伯玉らを想起した。
単なる旅程の記録ではなく、
目の前の土地を経書や歴史上の人物と結びつけながら進む紀行賦
となっている。

作品の後半では、富貴や貧賤は人間の力だけで求められるものではない以上、
正しく身を修めて時を待つべきだと述べる。
長寿か短命か、賢いか愚かかにかかわらず、運命を受け入れながら敬慎・謙約を守り、
欲を少なくすることを自らに戒めた。

『女誡』で娘たちに説いた慎みや節度は、『東征賦』では班昭自身の生き方にも向けられている。

鄧太后からの信任と政治への関与

鄧太后に重用され、政治について意見を求められる

元興元年(105年)に和帝が死去し、その後、幼い殤帝を経て安帝が即位すると、
和帝の皇后だった鄧綏が皇太后として臨朝した。

班昭は和帝時代から宮廷女性の教師を務めていたため、
鄧太后からも信頼され、政治上の問題について意見を求められるようになった。

『後漢書』は「鄧太后臨朝するに及び、政事に与り聞く」と記している。
班昭が官職を持って政務を執行したという意味ではなく、
太后が重要な判断を行う際、その相談相手の一人になっていたと見るべきである。

班昭が頻繁に宮中へ出入りして仕えたことへの恩賞として、
息子の曹成は特別に関内侯へ封じられ、後には斉国の相にまで昇った。

班昭本人には官爵ではなく、その子を通じて恩典が与えられたことになる。

鄧騭の辞職を認めるよう鄧太后に上疏する

永初年間、鄧太后の母が死去すると、
太后の兄で大将軍だった鄧騭は母の喪を理由として辞職を願い出た。
鄧太后はこれを認めたくなかったため、班昭に意見を求めた。

班昭は上疏し、謙譲は古来もっとも大きな徳の一つとされ、
伯夷・叔斉や太伯も地位を譲ったことで後世に名を残したと説いた。
そのうえで、鄧騭は外戚として高位にあるからこそ、
自ら退くことによって鄧氏一族の名誉を保つべきだと論じた。

さらに班昭は、満ちたものは欠け、高くなりすぎたものは危うくなるという考えを示し、
外戚が権力を握り続ける危険にも触れた。
鄧騭が謙譲によって身を退けば、太后自身の徳も明らかになり、
鄧氏の一族も長く保全できるという論理だった。

鄧太后は班昭の意見を受け入れ、鄧騭の辞職を許した。
『後漢書』が班昭の上疏を長く引用しているのは、彼女が単なる宮廷教師ではなく、
外戚の進退という政治的な問題について太后へ直接意見を述べる立場にあったことを示している。

晩年と後世への影響

七十歳を越えて死去する

班昭は七十歳を越えて死去した。
『後漢書』は具体的な没年を記していないため、後世に見られる特定の生没年には異説がある。
確実なのは、鄧太后が臨朝していた時期まで生き、七十余歳で亡くなったというところまでである。

班昭の死を聞いた鄧太后は素服を着て哀悼し、使者を派遣して葬儀を監護させた。
皇太后が自ら服装を改めて哀悼を示したことからも、
班昭が長年にわたって宮廷内で特別な信任を受けていたことが分かる。

班昭は『漢書』や『女誡』だけを書いたわけではなく、
賦・頌・銘・誄・問・注・哀辞・書・論・上疏・遺令など、
合わせて十六篇の著作があったと『後漢書』は記している。
その多くは散逸したが、『東征賦』や鄧太后への上疏など一部は後世の文献に残された。

息子の妻・丁氏が遺稿をまとめる

班昭の死後、その著作を整理したのは息子の妻である丁氏だった。
『後漢書』によれば、丁氏は班昭が残した十六篇を集めて文集を編纂し、
さらに班昭の徳を称える『大家頌』を作った。

班昭が娘たちのために『女誡』を書き、死後には嫁がその著作を整理したことになる。
班昭の著作活動は班氏という学者一族だけで完結したものではなく、
嫁ぎ先の曹氏の女性にも受け継がれていた。

ただし、この文集そのものは現在まで完全な形では残っていない。
後世の類書や文学選集に引用された作品によって、
班昭が歴史・女性教育・宮廷文学・政治的上疏など幅広い文章を書いていたことを知ることができる。

『女誡』が後世の女性教育書となる

班昭が娘たちのために書いた『女誡』は、
その後、私人の家訓という範囲を越えて広く読まれるようになった。
女性が守るべき徳目を体系的に説明した早い時期の著作だったため、
後世の女性教育に大きな影響を与えた。

とくに「婦徳・婦言・婦容・婦功」の「四行」は、
後世に女性の基本的な徳目として繰り返し引用された。
代以降には女性向けの教育書が多数作られ、
期になると『女誡』は『女論語』『内訓』『女範捷録』などとともに
「女四書」を構成する一書として読まれるようになる。

その一方、『女誡』には夫への服従、舅姑への従順、女性の「卑弱」を求める記述が明確に存在する。後世の社会ではこれらの部分が女性の行動を拘束する規範として利用されたため、
班昭自身も女性抑圧を理論化した人物として批判されることがある。

ただし、後世の受容と班昭自身の執筆目的は分けて考える必要がある。
『女誡』の序文では、病を抱えた晩年の班昭が、
これから他家へ嫁ぐ娘たちの将来を心配して書いたことが明記されている。
内容自体が当時の男女秩序を前提としていることと、
それが後世に普遍的な女性規範として利用されたことは同じ問題ではない。

班昭の人物像

班昭を『女誡』の著者だけで説明すると、『後漢書』が記録した生涯のかなりの部分が抜け落ちる。
正史で最初に強調されているのは「博学高才」であり、
班固が残した『漢書』の未完部分を引き継ぐため、和帝から東観での編纂を命じられた学識だった。
完成後も馬融が班昭から『漢書』を学んでおり、歴史書を執筆するだけでなく、
その内容を教授する立場にもあった。

宮廷では皇后や貴人の教師となり、和帝から賦頌の制作を命じられ、
鄧太后の時代には政治について意見を求められた。
鄧騭の辞職問題では、外戚が権力を持ち続ける危険を踏まえて身を引くよう勧め、
太后もその意見を採用している。
女性が正式な官職を持つことのできない後漢社会にあって、
学識によって皇帝・皇太后の近くまで入った人物だった。

『女誡』についても、班昭自身が女性でありながら女性の服従を説いたという一点だけでは、
その内容を十分に捉えられない。
夫婦の役割を明確に上下関係として捉える一方、
男子だけに教育を施して女子を教育しない当時の慣行を批判し、
女性にも礼を学ばせなければならないと主張している。
班昭が求めた女性教育は現代的な男女平等とは異なるが、
女性にも体系的な学びが必要だと考えていたことは確かである。

『東征賦』では、旅先の風景から孔子や子路らの故事を次々と思い起こし、
富貴や寿命を求めるより、正しく身を修めて運命を受け入れることを自らに戒めている。
『女誡』で他者へ説いた慎みや節度は、班昭自身の文章にも繰り返し現れる。

班昭は、父と兄から引き継いだ歴史編纂を担った学者であり、
後漢宮廷で皇后たちを教えた教師であり、
鄧太后から政治的判断について意見を求められた知識人でもあった。
その生涯の一部として『女誡』があり、
後世にはむしろその一書が突出して知られるようになった人物だった。

まとめ

班昭は、父・班彪と兄・班固から受け継いだ学問を背景に、
『漢書』の未完部分を補い、後漢宮廷で皇后や貴人の教育を担った女性だった。

鄧太后から政治について意見を求められるほど信任され、
当時を代表する学者の馬融も彼女から『漢書』を学んでいる。

後世には『女誡』の著者として最も知られるようになったが、
それだけでは班昭の活動範囲を捉えきれない。
歴史編纂、古典教育、宮廷文学、政治的上疏に携わり、
『東征賦』をはじめとする多くの文章を残した。
『女誡』も、こうした学問と著述を生涯続けた班昭が、
晩年に嫁入りを控えた娘たちへ残した一書として位置づける必要がある。

史書・参考文献

・『後漢書』巻84「列女伝・曹世叔妻」
・『後漢書』巻40「班彪列伝」
・『後漢書』巻47「班超列伝」
・班昭『女誡』
・班昭『東征賦』
・厳可均編『全後漢文』巻96「班昭」

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