【後漢】鄧綏|後漢を安定させた鄧太后の政治と生涯

鄧綏(後漢・和帝の皇后 / 鄧太后) 01.皇后

鄧綏(とうすい、81-121年)は、後漢の和帝劉肇の皇后で、
和帝の死後は皇太后として殤帝・安帝の二代にわたって臨朝した女性である。諡号は和熹皇后。
後漢建国の功臣鄧禹の孫にあたり、父は護羌校尉の鄧訓、母は光武帝の皇后陰麗華の一族である。

永元8年(96)に16歳で和帝の後宮に入り、永元14年(102)に皇后となった。
元興元年(105)に和帝が死去すると、生後百日余りの劉隆を殤帝として擁立して臨朝し、
翌年に殤帝が死去すると劉祜を安帝として擁立した。
その後も安帝に政権を返さず、建光元年(121)に41歳で死去するまで朝政を掌握した。

『後漢書』に記された鄧綏は、宮廷支出を大幅に削減し、災害や飢饉への救済を行う一方、
学問を重視して東観で経書・伝記の校訂を進めた統治者でもある。

しかし成人した安帝への政権返還を求める意見を退け、杜根らを厳しく処罰するなど、
その統治には強権的な側面もあった。
死後まもなく鄧氏一族は安帝によって失脚させられ、兄の鄧騭らが相次いで死に追い込まれている。

鄧氏に生まれ学問を好む

後漢建国の功臣・鄧禹の孫

鄧綏は建初6年(81)、南陽郡新野県を本貫とする鄧氏に生まれた。
祖父の鄧禹は光武帝劉秀に仕えた後漢建国の功臣で、雲台二十八将の筆頭に数えられた人物である。
父の鄧訓は護羌校尉を務め、母の陰氏は光武帝の皇后陰麗華の従弟の娘だった。

父方は建国功臣の家、母方は光武帝の皇后を出した陰氏であり、
鄧綏は後漢初期の有力家門どうしを背景に持っていた。

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祖母に額を傷つけられても黙って耐える

『後漢書』が鄧綏の幼少期について最初に記すのは、5歳のときの逸話である。

祖母にあたる太傅夫人が鄧綏をかわいがり、自ら髪を切ってやった。
しかし祖母は高齢で目がよく見えず、誤って鄧綏の額を傷つけてしまった。
鄧綏は痛みに耐えて何も言わなかったため、そばにいた者が不思議に思って理由を尋ねた。

鄧綏は、痛くないわけではないが、祖母がかわいがって髪を切ってくれているのに、
老人の気持ちを傷つけるのが忍びないので我慢したのだと答えたという。

この逸話は『後漢書』が後世の理想的な皇后像として鄧綏を描く文脈に置かれたものでもあり、
そのまま幼児期の性格を客観的に証明する記録とみなす必要はないが、
范曄が鄧綏の忍耐と孝行を象徴する話として採録したことは確かである。

「諸生」と呼ばれた少女時代

6歳になると「史書」を学び、12歳には『詩』と『論語』に通じていた。
ここでいう「史書」は歴史書という意味ではなく、
李賢注によれば太史籀が作ったとされる大篆の教材を指す。

兄たちが経書や伝を読むと鄧綏はたびたび疑問を出して問い、家事より典籍に関心を向けた。
母はこれを好まず、
「女工を習って衣服を作ろうともせず、学問ばかりして、博士にでもなるつもりなのか」
と叱ったという。

鄧綏は母の言葉に逆らうことも望まず、
昼は女性として求められた仕事を行い、夜になると経典を読んだ。
このため家族から「諸生」と呼ばれるようになった。

父の鄧訓は娘の才能を認め、
家のことについて大小を問わず鄧綏と相談したと『後漢書』は記している。

父の死で三年間喪に服す

永元4年(92)、鄧綏は後宮に選ばれる予定だったが、その直前に父の鄧訓が死去した。
このため入宮は延期され、鄧綏は昼夜泣き続け、三年間にわたって塩や野菜を口にしなかったという。やせ衰えて容貌が変わり、親族でさえ見分けられないほどだったと記される。

このころ、鄧綏が青い天を手で触り、
鍾乳のようなものを仰いで飲む夢を見たという逸話も『後漢書』に収められている。
占夢を行う者は、堯や湯王にまつわる夢と比較して非常にめでたい兆しだと解釈した。

さらに人相を見る者が鄧綏を見て「成湯の骨相である」と驚いたとされる。
家族は喜んだが、この話を外部には明かさなかったという。

叔父の鄧陔は、父の鄧訓がかつて石臼河の工事を担当した際、
毎年数千人の命を救ったことを挙げ、その善行によって一族に福が訪れるのではないかと語った。

祖父の鄧禹についても
「百万の軍勢を率いたが、むやみに一人も殺さなかったので、子孫から栄える者が出るだろう」
と語ったという伝承が併記されている。

これらは鄧綏の皇后即位を予兆する祥瑞的な逸話として本伝にまとめられたものである。

和帝の後宮に入り皇后となる

16歳で貴人となる

永元7年(95)、鄧綏は再び後宮選抜の対象となり、
翌永元8年(96)の冬、16歳で掖庭に入って貴人となった。

『後漢書』は身長を七尺二寸とし、容貌が非常に美しく、周囲の者が驚いたと記している。
一方で宮中での振る舞いについては、慎み深く礼法を守り
当時の皇后であった陰皇后に朝夕緊張しながら仕え、
他の妃嬪や下級の宮人にもへりくだって接したとする。

和帝は鄧綏を寵愛した。
鄧綏が病気になったとき、
和帝は母や兄弟が日数を限らず宮中に滞在して看病することを特別に許した。
ところが鄧綏自身がこれを辞退し、外戚を長期間宮中に置けば、
皇帝には身内をひいきしているという批判が生じ、
自分には寵愛に満足しないという非難が生じると訴えた。

和帝は、人々は宮中へ何度も入れることを名誉とするのに、
鄧貴人だけは逆にそれを心配していると感心したという。

陰皇后の前では目立つことを避ける

宴会になると他の妃嬪たちは華やかな衣装や装身具で身を飾ったが、
鄧綏は質素な服を着て装飾を控えた。

自分の衣服が陰皇后と同じ色ならすぐに着替え、
皇后と同時に和帝へ謁見するときには並んで座ったり立ったりすることを避け、
歩くときも身をかがめた。

和帝から質問されても陰皇后より先に答えず、皇后が答えた後で発言した。
和帝はその気遣いを知り、「徳を修める苦労とはこれほどのものなのか」
と嘆息したと『後漢書』は伝える。

陰皇后への配慮は、和帝の寵愛が鄧綏へ移るにつれてさらに強くなった。
鄧綏は和帝に召されても病気を理由に辞退することがあり、和帝の皇子が相次いで早世すると、
後継者を増やすため自ら他の女性を選んで和帝へ勧めたとも記されている。

和帝が重病になると自殺しようとする

鄧綏の評判が高まる一方、陰皇后との関係は悪化した。
『後漢書』によれば、陰皇后は呪詛によって鄧綏を害そうとしたという。

和帝が一時重病に陥った際、陰皇后は、
もし自分が権力を握ったなら鄧氏を一人も残さないという趣旨の言葉を漏らした。

これを聞いた鄧綏は、自分が死ねば和帝への恩に報い、一族への災いも避け、
陰氏が呂后のような残酷な行為をしたとの汚名を受けずに済むとして、薬を飲んで自殺しようとした。

宮人の趙玉がこれを止めるため、「使者が来て陛下の病気は治ったと知らせた」と嘘をついたため、
鄧綏は自殺を思いとどまった。翌日、実際に和帝の病状が回復したという。

陰皇后廃位後も皇后冊立を辞退する

永元14年(102)、陰皇后は巫蠱事件によって廃された。
『後漢書』は鄧綏が陰皇后を救おうとしたものの、かなわなかったと記している。

和帝が鄧綏を新たな皇后にしようとすると、鄧綏は病気が重いと称して閉じこもった。
それでも和帝は「鄧貴人の徳は後宮で最も優れている」として皇后に選び、同年冬に冊立した。

鄧綏は三度辞退したのち皇后位を受け、
さらに自筆の上表で自分は徳が薄く皇后にふさわしくないと述べた。

皇后となると、諸国が競って宮廷へ献上していた珍奇で華美な品を禁止し、
季節ごとの献上品も紙と墨だけにさせた。

また和帝が鄧氏一族へ官爵を与えようとするたびに辞退を願ったため、
兄の鄧騭は和帝存命中には虎賁中郎将を超える官位には昇らなかった。

和帝の死と皇太后としての臨朝

生後百日余りの殤帝を擁立する

元興元年(105)、和帝が死去した。
和帝には十数人の皇子がいたとされるが、多くが早世しており、
後に生まれた皇子は宮中を離れて民間で密かに養育されていた。

存命していた年長の平原王劉勝には病があったため、
鄧綏は生後百日余りだった劉隆を迎え、皇帝に立てた。殤帝である。
鄧綏は皇太后となり、幼帝に代わって臨朝を開始した。

和帝の葬儀後、後宮の女性たちが園へ移される際には、
周貴人・馮貴人らに車馬、黄金、絹などを与えた。
先帝を失った悲しみと、
ともに後宮で過ごした女性たちとの別れを記した鄧綏自身の策書も『後漢書』に収められている。

宮中の盗難を自ら調べる

臨朝開始直後、宮中から真珠一箱がなくなる事件が起きた。
通常の取調べを行えば無実の者まで拷問される可能性があると考えた鄧綏は、
自ら宮人を集めて一人ずつ顔色を観察した。その結果、犯人がその場で自白したという。

また和帝に仕えていた吉成という人物が巫蠱の罪で告発され、証言もそろっていた。
鄧綏は、吉成が和帝の存命中には悪口さえ口にしなかったのに、
死後になって呪詛を行ったという話を不自然と考え、自ら呼び出して調べ直した。
その結果、告発が御者による虚偽だったことが判明したとされる。

鄧綏は鬼神に関する罪は証明が難しいとして、礼制に合わない祠官を廃止し、
建武年間以来、妖術などの罪によって禁錮されていた者や馬氏・竇氏の関係者についても禁錮を解き、
平民に戻した。

宮廷経費を大幅に削減する

鄧綏は大官・導官・尚方・内者などが扱っていた豪華な食事、衣服、器物を削減した。
陵廟への供物を除いて米を特別に選別することをやめ、自らの食事も朝夕一種類の肉だけとした。

『後漢書』によれば、大官の湯官だけでも従来は年間二億銭近い経費を使っていたが、
削減後は数千万銭程度になった。
地方からの貢納も半分以下に減らし、上林苑で飼育していた鷹や犬を売却し、
蜀郡・広漢郡から献上させていた金銀装飾の器物や刀も停止した。

錦繡、薄絹、金銀、珠玉、犀角、象牙、玳瑁、彫刻品などの贅沢品の製造もやめ、
離宮や別館に蓄えていた米・乾飯・薪炭も整理した。

さらに和帝の後宮にいた女性のうち、宗室と同族の者や、
高齢・病弱で宮中の仕事に耐えられない者について本人の希望を確認し、
一日に五、六百人を宮中から解放したという。

殤帝の死後、安帝を擁立する

延平元年(106)、殤帝がわずか2歳で死去した。
鄧綏は清河孝王劉慶の子で13歳だった劉祜を皇帝に立てた。安帝である。

殤帝の陵墓工事についても、和帝・殤帝と相次いで皇帝が死去し、
民衆が労役に苦しんでいるとして規模を従来の十分の一程度に縮小した。

安帝は幼児ではなかったが、鄧綏は政権を返還せず、そのまま臨朝を続けた。

鄧氏一族にも法を適用させる

安帝即位後、兄の鄧騭ら鄧氏一族は高官・列侯となった。
しかし鄧綏は司隷校尉、河南尹、南陽太守に対し、
外戚の親族や賓客が権威を利用して違法行為を行うことを厳しく取り締まるよう詔を出した。

鄧騭ら本人が慎んでいても、一族は大きく姻戚も多いため、
賓客の中には法を犯す者がいるとして、容赦してはならないと命じた。
このため鄧氏の親族であっても犯罪を犯せば免除されなかったと『後漢書』は記している。

一方、鄧綏自身の母は永初元年(107)に新野君に封じられ、一万戸を湯沐邑として与えられている。
鄧氏が権力から完全に遠ざけられていたわけではなく、
鄧綏の臨朝を支える外戚として高い地位を占めていたことには注意が必要である。

災害・辺境問題と長期政権

洛陽の獄を訪れ冤罪を見抜く

永初2年(108)、洛陽が旱魃に見舞われると、鄧綏は自ら洛陽の獄へ赴いて囚人の事件を調べた。

その中に、実際には殺人を犯していないにもかかわらず、
取調べに耐えられず自白してしまった囚人がいた。
衰弱した状態で運ばれてきた囚人は役人を恐れて何も言えなかったが、
立ち去る際に訴えたそうな様子で顔を上げた。

鄧綏はその様子に気づいて呼び戻し、改めて事情を調べた結果、冤罪であることが判明した。
洛陽令は逮捕されて処罰された。

『後漢書』は、鄧綏が宮殿へ戻る前に大雨が降ったと続けている。
これは公正な裁判によって天が応えたという伝統的な史書の記述であり、
降雨との因果関係そのものを史実として扱う必要はない。

自分の病気を理由とする祈祷を禁じる

永初3年(109)、鄧綏が病気になると、
側近たちは自分たちの命を代わりに差し出すという内容の祈祷を行おうとした。

これを知った鄧綏は怒り、謝罪と回復を祈るだけにし、
不吉な言葉を勝手に口にしてはならないと命じた。

またこのころ、陰陽の不調や相次ぐ軍事行動を理由として、
年末に衛士を送る宴会で演劇や音楽を行うことを停止し、
疫病を追い払う大儺の儀式に参加する童子を半数に減らし、象やラクダなども廃止した。
豊作になれば元に戻すという条件付きの措置だった。

班昭から経書・天文・算術を学ぶ

鄧綏は入宮後、曹大家と呼ばれた班昭から経書を学び、さらに天文と算術にも学問を広げた。

皇太后となってからも、昼は政務を処理し、夜は書物を読んだという。
伝来する経書や伝記に誤りがあることを問題視し、
劉珍をはじめとする儒者、博士、議郎、四府の属官など五十人余りを東観へ集め、文献を校訂させた。

さらに宦官や近臣にも東観で経書・伝を学ばせ、それを宮人に教授させた。
鄧綏の学問への関心は個人的な読書にとどまらず、
宮廷における文献整理と教育事業にまで及んでいた。

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【後漢】班昭|『漢書』を完成させ『女誡』を著した才女・歴史家の生涯
班昭(はんしょう)は後漢を代表する女性史家で、班固・班超の妹である。獄死した兄・班固が残した『漢書』の編纂を継承し、宮廷では皇后や貴人の教育を担当。鄧太后から政治上の意見を求められるほど信任され、『女誡』を著した。その生涯と功績、女性観、後世の評価まで史料をもとに詳しく解説する。

母の死を看取る

母の新野君が病気になると、鄧綏は自ら看病し、死ぬまで付き添った。
死後には長公主に準じる赤綬や玉衣などを贈り、布三万匹、銭三千万を与えようとしたが、
鄧騭らは布と銭を固辞した。

母の喪が終わったころにも旱魃が続いたため、鄧綏は三日続けて洛陽の獄を訪れ、
死刑囚36人、耐刑80人を釈放または減刑し、そのほかの囚人についても刑を軽減した。

季節外れの食材を献上させない

永初7年(113)、鄧綏は太廟へ入り、安帝とともに祭祀を行った。

その際、宗廟や宮廷へ献上される食材の中に、本来の季節ではないものが多いことを問題視した。
人為的に早く育てたり、芽を掘り出したりすれば、生育を損なうとして、
『論語』の「時ならざれば食らわず」を引き、以後は旬を迎えたものだけを献上するよう命じた。

これによって23種類の献上品が削減されたという。

水害・旱魃・反乱が相次ぐ

鄧綏の臨朝期は平穏な時代だったわけではない。
『後漢書』は、臨朝以来十年にわたって水害や旱魃が続き、
国外からの侵入と国内の反乱も相次いだと記している。

とくに西方では羌族の反乱が長期化し、軍事費と兵役が国家財政を圧迫した。
国内でも飢饉や盗賊の発生が続いた。

『後漢書』によれば、鄧綏は民衆が飢えていると聞くと夜通し眠れないこともあり、
自ら食事や宮廷支出を削って救済に回した。
その結果、最終的には国内が再び安定し、豊作を迎えたと評価されている。

倭国王帥升の朝貢

永初元年(107)には、倭国王帥升らが後漢へ使者を送り、
生口160人を献じて朝見を願ったことが『後漢書』東夷伝に記されている。

日本列島側の王名が中国史料に現れる早い例として知られる記事であり、
帥升の実像や支配領域は明らかではない。

これは鄧綏自身が外交交渉を行ったという逸話ではないが、
彼女が臨朝していた時期の対外関係を示す出来事にあたる。

安帝への政権返還をめぐる問題

成人した安帝にも政権を返さない

安帝は106年に13歳で即位し、その後成人したが、鄧綏は臨朝を続けた。

鄧綏の長期統治を考えるうえで、この点は避けることができない。
『後漢書』も鄧綏の死後に付した論で、彼女が終身にわたって称制し、自ら号令を出し続け、
成長した君主へ政権を返さなかったことを批判している。

杜根を殿上で撲殺させる

郎中の杜根らは、安帝が成長した以上、皇帝自身が政務を行うべきだと上書した。

鄧綏は激怒し、杜根らを絹袋に入れて殿上で打ち殺すよう命じた。
執行する者は杜根が名の知られた人物であることから密かに手加減し、
城外へ運び出された後に杜根は蘇生した。

鄧綏が確認の使者を送ったため、杜根は死んだふりを続け、三日間そのまま耐えた。
目に蛆が湧くほどだったという。その後逃亡し、宜城の山中で酒屋の使用人として身を隠した。

同じく政権返還を求めた成翊世も罪に問われた。

鄧綏の倹約や救民政策を評価する一方で、
政権返還を求める臣下にこのような処置を行った事実も、『後漢書』が伝える鄧綏像の一部である。

鄧氏子弟と宗室の教育を行う

元初6年(119)、鄧綏は和帝の弟にあたる済北王・河間王の子女で5歳以上の者四十人余りと、
鄧氏の近親者の子弟三十人余りを集め、邸宅を設けて経書を学ばせた。
鄧綏自身が試験を行い、幼い子には教師を付け、宮中へ出入りさせて教育した。

鄧綏は親族に対し、富貴な家の子弟が衣食や車馬に恵まれながら学問を知らないことこそ
禍の原因になると説いた。
祖父の鄧禹が武功だけでなく子孫の教育にも力を入れたことを挙げ、
祖先の功績と教えを忘れないよう求めている。

一方、このころ鄧氏の鄧康は、鄧綏が長期間臨朝していることを恐れて病気と称して出仕しなかった。
鄧綏が様子を尋ねるため派遣した宮女は、もともと鄧康の家にいた婢女だった。
宮女が「中大人」と名乗ったため、
鄧康が「お前はもともと我が家の者なのに、そんな呼び方をするのか」と罵ったところ、
宮女は怒って鄧綏に告げ口した。鄧綏は鄧康を免官し、封国へ帰した。

この事件は、鄧綏が外戚を無条件に庇護していたわけではないことを示す一方、
宮廷内部の人間関係が鄧氏一族の処遇にも影響していたことを伝えている。

鄧綏の死と鄧氏一族の失脚

病状が悪化する

永寧2年(121)2月、鄧綏の病状が悪化した。
それでも輦に乗って前殿へ出て侍中・尚書らと会い、
さらに新しく修築された皇太子の宮殿まで赴いた。

宮殿へ戻ると大赦を行い、諸園の貴人、諸王、公主、官僚らに銭や布を与えた。

鄧綏は最後の詔で、和帝を早くに失い、殤帝即位のころには天下が危うい状態にあったため、
劉氏の天下と民衆を救うことだけを考えてきたと述べた。
また病を押して和帝の原陵へ参拝したことで咳が悪化し、血を吐くようになったことも記している。

建光元年(121)3月、鄧綏は死去した。享年41。和帝とともに順陵へ合葬された。

死後まもなく鄧氏が排除される

鄧綏が死ぬと、安帝はようやく親政を開始した。

安帝の乳母王聖や宦官の李閏・江京らは、鄧綏が長く政権を返さなかったことから、
安帝が廃位されるのではないかという不安を利用して鄧氏を非難していた。
鄧綏の死後には、宮人から鄧氏兄弟が安帝を廃して別の皇族を立てようとしていたとの告発が出た。

安帝はこれを受け、鄧氏一族の爵位を奪い、宗族の多くを免官して本郡へ帰した。
財産や田宅も没収され、地方官から圧迫を受けた者も相次いだ。

兄の鄧騭は謀議そのものには加わっていないとされたものの、
特進を免じられて封国へ送られ、息子の鄧鳳とともに食を断って死んだ。
鄧氏一族ではほかにも自殺者が相次いだ。

しかし鄧騭らの処分については当時から冤罪を訴える声があり、
大司農の宋寵らが上書して鄧氏の功績と無実を訴えた。

安帝も後に処分が過酷だったことを認め、鄧騭らの遺骸を北芒へ戻して葬らせ、
一族の一部が洛陽へ帰ることを許した。

『後漢書』が示した評価

『後漢書』は鄧綏の統治を全面的に称賛しているわけではない。
范曄は、鄧綏が生涯にわたって称制し、成人した安帝へ政権を返さなかったことを明確に問題視し、
杜根への処罰についても重すぎたと評している。

その一方で、鄧綏の死後に安帝が親政すると、乳母王聖や宦官らが権勢を持ち、
鄧騭らが失脚し、楊震をはじめとする名臣も排斥されていったことを挙げる。

そして鄧綏が権力を握ったために非難を受けたとしても、
それは自分の利益のためではなく、国政への憂慮によるものだったと評価した。

元初5年(118)には鄧綏の存命中から平望侯劉毅がその政治を記録に残すよう求め、
安帝もこれを認めている。

劉毅の上書は鄧綏を非常に高く評価した内容であるため、
そのまま客観的な人物評とはできないものの、同時代に鄧綏の災害救済、倹約、
人材登用などを評価する見方が存在したことを示している。

まとめ

鄧綏は後漢建国の功臣鄧禹の孫として生まれ、幼少から経書を好み、
永元8年(96)に和帝の後宮へ入った。
陰皇后との緊張のなかで和帝の寵愛を受け、永元14年(102)に皇后となると、
華美な献上品を禁じ、鄧氏一族への官爵にも抑制的な態度を取った。

和帝の死後は皇太后として殤帝を擁立し、その死後には安帝を立てて臨朝を続けた。
宮廷経費の削減、災害救済、冤獄の再審、文献校訂や教育事業などを行う一方、
成人した安帝へ政権を返さず、返政を求めた杜根らを厳しく処罰した。

建光元年(121)、41歳で死去し、和帝と順陵に合葬された。
その直後に鄧氏一族は安帝によって排除され、兄の鄧騭らが死に追い込まれた。

『後漢書』は鄧綏の長期称制を批判しながらも、
その政治が私利ではなく国家への憂慮に基づいていたと評価しており、
単純な「理想の賢后」とも「権力を手放さなかった外戚」とも言い切れない人物像を残している。

史書・参考文献

『後漢書』巻5「孝安帝紀」
『後漢書』巻10上「皇后紀上・和熹鄧皇后」
『後漢書』巻16「鄧寇列伝・鄧禹・鄧訓・鄧騭」
『後漢書』巻57「杜欒劉李劉謝列伝・杜根」
『後漢書』巻84「列女伝・班昭」
『後漢書』巻85「東夷列伝・倭」
司馬光『資治通鑑』漢紀(殤帝・安帝期)

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