賈南風は、西晋第二代皇帝・恵帝司馬衷の皇后である。
西晋の建国功臣である賈充の娘として生まれ、十五歳で皇太子司馬衷の妃となった。
司馬衷の能力を疑う声が朝廷で上がった際には答案を用意して皇太子の地位を守り、
夫の即位後は皇后となった。
武帝司馬炎の死後には外戚の楊駿を排除し、
続いて汝南王司馬亮、衛瓘、楚王司馬瑋らが相次いで政争の中で命を落とした。
やがて賈南風とその親族が宮廷で大きな権力を握り、張華・裴頠らが政務を担う体制が形成された。
しかし賈南風には男子がなく、
司馬衷と側室謝氏との間に生まれた皇太子司馬遹との関係が次第に悪化した。
元康九年(299)には司馬遹を廃し、翌永康元年(300)には殺害させる。
この事件を利用した趙王司馬倫と孫秀によって賈南風自身も失脚し、金墉城で死を命じられた。
『晋書』は賈南風を強く批判し、
嫉妬、権謀、残酷さ、性的放縦などを示す多くの逸話を収録している。
一方、その治世を詳しく見ると、賈南風一人が朝政を運営していたわけではなく、
賈模・張華・裴頠ら官僚が政務を支えた時期もあった。
西晋の混乱を賈南風一人の性格に帰するのではなく、
武帝死後の外戚・宗室・官僚・宮廷勢力の対立の中で、その生涯を追っていく必要がある。
出自と皇太子妃時代
出自――賈充と郭槐の娘
賈南風は平陽郡の人で、諱を南風、小名を時という。
生年は史書に明記されていないが、
『晋書』は泰始八年(272)に皇太子妃となった際、十五歳だったと記している。
父の賈充は曹魏末から西晋初期にかけての重臣で、司馬昭に仕えて大きな権力を握った人物だった。
甘露五年(260)、魏帝曹髦が司馬昭を討とうとして挙兵した際には、
賈充の指揮下にいた成済が曹髦を殺害している。
その後も司馬氏に重用され、西晋成立後には魯郡公となり、新たな律令の制定にも携わった。
司馬炎の皇太子時代からその即位を支持した功臣でもあり、
賈氏が皇室と婚姻を結ぶ背景には、こうした父の政治的地位があった。
母は郭槐で、賈充の後妻だった。
賈充にはもともと李氏という妻がいたが、
李氏の父李豊が司馬師に処刑されたため、李氏も連座して流刑となり、
その後に郭槐が賈充の妻となった。
『晋書』賈充伝は郭槐についても嫉妬に関する逸話を伝えている。
賈充と乳母との関係を疑った郭槐が乳母を殺したため、
乳母を慕っていた賈充の幼い男子が相次いで死亡し、
結果として賈充には家を継ぐ男子が残らなかったという。
郭槐との間には賈南風と妹の賈午が生まれた。
一方、前妻李氏との間にも娘があり、その一人は後に斉王司馬攸の妃となっている。
妹の賈午は韓寿と結婚した。
賈充に男子の後継者がいなかったため、
後にはこの賈午と韓寿の子である韓謐が賈氏に入り、賈謐と名乗って賈充の後継者となった。
賈謐は後年、賈南風政権を支える最有力者の一人となる。
皇太子司馬衷の妃選び
西晋を建国した武帝司馬炎は、皇太子司馬衷の妃として、当初は重臣衛瓘の娘を考えていた。
しかし武帝の皇后楊艶は賈氏との婚姻を望み、荀顗や荀勖らも賈充の娘を推薦した。
『晋書』には、この妃選びをめぐる武帝の言葉が残されている。
それによれば武帝は衛氏の娘について、
家柄が賢良で子が多く、美しく背が高く、肌が白いという長所を挙げた。
これに対して賈氏については、
嫉妬深い家系で子が少なく、容貌が劣り、背が低く、肌が黒いとして難色を示したという。
これは後世に編纂された『晋書』が賈南風の人物像を示すために採録した記事でもあり、
武帝の発言がどの程度そのまま伝わっているのかは別に考える必要がある。
ただし少なくとも、武帝が当初から賈氏との婚姻に積極的ではなかったという形で
史書が伝えている点は注目される。
当初の候補は賈南風ではなく、妹の賈午だった。
ところが賈午は十二歳で、皇太子司馬衷より一歳年下だったうえ、
体が小さく礼服を十分に着こなせないほどだった。
そのため候補が姉の賈南風に変更された。
賈南風は当時十五歳で、司馬衷より二歳年上だった。
泰始八年(272)二月、賈南風は皇太子妃に冊立された。
司馬衷の皇太子位を守った答案工作
司馬衷は武帝の嫡子として皇太子に立てられていたが、
その資質については朝廷内で懸念する声があった。
武帝自身も司馬衷が政務に必要な判断力を備えているか確かめようとし、
和嶠らの中にも皇太子の能力を問題視する者がいた。
そこで武帝は東宮の官僚を集め、
政務に関する問題を記した文書を司馬衷に渡し、回答させることにした。
賈南風は、この試験の結果が司馬衷の立場に影響することを懸念し、外部の者に回答文を作らせた。
最初に用意された文章には古典からの引用が多かったが、
東宮の給使である張泓は、司馬衷が普段から学問に通じていないことは武帝も知っているため、
このままでは本人が書いたものではないと疑われる可能性があると指摘した。
そのうえで張泓は、難しい典故を用いず、
司馬衷本人が答えたものとして不自然ではない文章に改めるよう進言した。
賈南風はこの意見を採用し、張泓に回答文を作らせた。
司馬衷はその文章を自ら書き写して武帝に提出し、武帝は内容を評価したという。
武帝はその回答を皇太子少傅の衛瓘にも見せた。
衛瓘は以前から司馬衷の資質について懸念を示していた人物であり、
この件を通じて、皇太子をめぐる衛瓘と賈氏との立場の違いが表面化した。
『晋書』によれば、
賈充は後に賈南風へ、衛瓘の意見によって一時は賈氏の立場まで危うくなりかねなかった
という趣旨の言葉を述べたとされる。
この一件は、賈南風が太子妃の時期から司馬衷の皇太子位の維持に関与していたことを示すとともに、
賈氏と衛瓘との間に皇太子をめぐる認識の違いがあったことを伝えている。
妊娠した側室への加害と廃妃危機
『晋書』は太子妃時代の賈南風について、
嫉妬深く権謀に長け、司馬衷が彼女を恐れて従ったため、
他の女性が皇太子の寵愛を受ける機会が少なかったと記している。
さらに賈南風が自ら数人を殺したとも記し、
その具体例として、妊娠した司馬衷の側室に戟を投げつけた事件を挙げている。
刃が妊婦に当たり、胎児まで失われたという。
これを知った武帝は激怒した。
賈南風を皇太子妃から廃し、洛陽城外の金墉城に幽閉しようとして、
すでにその準備まで進めたとされる。
しかし武帝の側室である趙粲が、
賈南風はまだ若く、嫉妬は女性にありがちな感情で、年齢を重ねれば改まるだろうと弁護した。
楊珧も賈充の功績を持ち出して助命を求め、荀勖も強く取りなしたため、賈南風は廃されなかった。
後に賈南風自身が金墉城で死を迎えることを考えれば象徴的な記事ではあるが、
『晋書』が彼女の生涯を否定的な人物像へまとめる過程で配置した逸話であることにも
留意する必要がある。
司馬遹の誕生
賈南風と司馬衷との間には男子が生まれなかった。
一方、司馬衷と謝才人との間には司馬遹が生まれた。後の愍懐太子である。
『晋書』愍懐太子伝は、司馬遹が幼少時には非常に聡明だったと伝える。
宮中で夜に火災が発生した際、
五歳の司馬遹は火を見るため高楼に上った武帝の衣を引き、暗い場所へ連れていった。
武帝が理由を尋ねると、夜間の混乱時には何が起こるか分からないため、
皇帝の姿を明るい場所にさらすべきではないと答えたという。
また武帝と豚小屋を見た際には、
十分に太った豚をいつまでも穀物で養うより、殺して兵士たちに食べさせるべきだと進言した。
武帝はこれを高く評価し、司馬遹を撫でながら、
この子は司馬氏を興隆させるだろうという趣旨の言葉を残したとされる。
さらに曾祖父にあたる司馬懿に似ているとも評したという。
皇太子司馬衷の能力に疑問が持たれていた一方、その子司馬遹には期待が集まっていたことになる。
賈南風にとって司馬遹は夫の後継者であると同時に、自らが生んだ子ではない皇位継承者でもあった。
皇后冊立と楊氏・宗室の排除
武帝の死と皇后冊立
太熙元年(290)四月、武帝司馬炎が死去すると、
司馬衷が即位して恵帝となり、賈南風は皇后となった。
賈南風と恵帝との間には男子はなく、
『晋書』は河東公主、臨海公主、始平公主、哀献皇女の四女をもうけたと記している。
司馬遹は皇太子に立てられ、将来の皇帝として育てられることになった。
しかし武帝死後の朝政を掌握したのは賈南風ではなく、
武帝の皇后楊芷の父である楊駿が遺詔を受け、太傅・大都督として政権を握った。
楊駿は賈南風を警戒していた。
『資治通鑑』によれば、恵帝が確認した詔命はいったん皇太后楊芷のもとへ送られ、
その確認を経てから施行される仕組みがとられていた。
楊駿は甥の段広に機密を扱わせ、張劭に禁軍を統率させており、
宮中の賈南風が独自に政治を動かすことを防いでいた。
楊駿の排除
元康元年(291)、賈南風は楊駿を排除する行動に出た。
その際に利用されたのが、地方にいた楚王司馬瑋ら宗室諸王だった。
賈南風側は楊駿が謀反を企てているとし、宮城を掌握して楊駿との連絡を遮断した。
楊駿は十分な抵抗体制を整えることができず、邸宅を攻撃されて殺害された。
弟の楊珧・楊済をはじめ、楊氏の親族や関係者も処刑され、
『資治通鑑』は多数の者がこの粛清に巻き込まれたと記している。
これによって武帝死後の楊氏政権は崩壊した。
もっとも、楊駿自身も朝廷内で広く支持されていたわけではない。
権力を独占し、宗室諸王を政治から遠ざけ、側近を重用したことには以前から批判があった。
賈南風による政変が成功した背景には、楊駿自身の政治的孤立も存在していた。
皇太后楊芷の廃位
楊駿の失脚は、その娘で皇太后の楊芷にも及んだ。
政変の最中、楊芷は城外へ救援を求める書状を射出していたため、
これが楊駿と通じていた証拠として扱われ、
皇太后の称号を奪われて庶人に落とされ、金墉城へ移された。
さらに処分は楊芷の母である龐氏にも及んだ。
『資治通鑑』によれば、龐氏が処刑されることを知った楊芷は髪を切り、地に額をつけ、
自らを賈南風の「妾」とまで称して母の助命を願ったという。
しかしその訴えは受け入れられず、龐氏は処刑された。
楊芷もその後、金墉城で死去した。
こうした処置には当時から批判があり、隠士の董養は、皇太后に対する扱いを、
君臣・母子の秩序に反するものとして非難したと伝えられている。
司馬亮・衛瓘・司馬瑋の死
楊駿が排除された後、朝政の中心に立ったのは汝南王司馬亮と衛瓘だった。
一方、楊駿打倒に軍事的な役割を果たした楚王司馬瑋も兵権を握っており、
政権内で大きな勢力を持っていた。
司馬亮と衛瓘は司馬瑋の兵権を削ろうとしたため、司馬瑋は二人に不満を抱くようになった。
賈南風はこの対立を利用し、恵帝の密詔によって司馬瑋に司馬亮と衛瓘を討たせた。
これを受けて司馬瑋は兵を動かし、司馬亮と衛瓘を殺害した。
しかし二人が排除されると、賈南風は司馬瑋もそのまま権力の中枢には残さなかった。
今度は司馬瑋が詔命を偽り、独断で司馬亮と衛瓘を殺害したものとして責任を負わせ、
逮捕して処刑した。
こうして楊駿の失脚から間もないうちに、
司馬亮、衛瓘、司馬瑋といった有力者が相次いで政争の中で命を落とした。
『晋書』賈南風伝では、賈南風が司馬瑋と司馬亮・衛瓘の対立を利用し、
双方を順に排除した経緯が記されている。
この一連の政変は、後世に「八王の乱」と呼ばれる宗室間の争いの初期段階に位置づけられる。
ただし、その原因を賈南風個人の行動だけに求めることはできない。
武帝司馬炎は西晋成立後、宗室諸王を各地に封じ、その一部に軍事力を持たせていたため、
皇帝を中心とする政治秩序が弱まると、
中央の政争に諸王の兵力が持ち込まれやすい状況がすでに形成されていた。
賈氏を中心とする政権
司馬瑋が排除された後、賈南風の政治的影響力は大きくなり、その周囲では親族が要職を占めた。
賈充の族子である賈模は侍中となり、母方の親族である郭彰も政権に参加した。
さらに賈充の後継者となった賈謐は国政に介入し、
『晋書』はその権勢が皇帝に匹敵するほどだったと記している。
郭彰の邸宅にも多くの人々が集まり、当時は賈謐と郭彰を合わせて「賈郭」と呼んだという。
賈謐の周囲には文人・名士も集まった。
後世「二十四友」と呼ばれる集団で、石崇、潘岳、陸機、陸雲、左思、劉琨らがその中に数えられる。
ただし、賈南風が自ら行政実務のすべてを処理していたわけではない。
賈模は張華や裴頠を登用し、彼らと協力して政務を運営した。
『晋書』賈模伝は、数年間にわたって朝廷と社会が比較的安定したことについて、
賈模の功績が大きかったと評価している。
賈模は一方で賈南風の強引な行動を危険視していた。
たびたび諫言したものの受け入れられず、賈南風から疎まれるようになる。
ついには裴頠らと賈南風廃位まで検討したとされる。
『晋書』賈南風伝では賈模・裴頠・王衍が相談したとする一方、
『資治通鑑考異』は伝承の異同を指摘している。計画は結局実行されなかった。
↓↓「二十四友」の潘岳、石崇とその愛妾 緑珠についての個別記事は、こちら


宮外の男性を連れ込んだという逸話
『晋書』は賈南風の私生活についてもいくつかの逸話を収録している。
その一つが洛陽南部の若い役人に関する話である。
容姿の整った若い役人が道を歩いていると、老婆から、
家に病人がいて占い師から城南の若者に厄払いをしてもらうよう言われたので協力してほしい、
と頼まれた。
若者は車に乗せられ、箱の中に隠される。
十里余り進み、いくつもの門を通過した後、箱から出されると、立派な楼閣のある場所にいた。
香りのある湯で体を洗われ、よい衣服と食事を与えられ、一人の女性のもとへ案内された。
女性は三十五、六歳ほどで、背が低く、肌が浅黒く、眉の後ろに傷痕があったという。
若者はそこで数夜を過ごし、帰される際には多くの品物を与えられた。
ところが突然高価な衣服や品物を持つようになったため、盗みを疑われた。
事情を説明すると、聞いていた者が女性の特徴から賈南風だと気づいたという。
『晋書』はさらに、同様に宮中へ連れ込まれた男性の多くは殺されたが、
この若者だけは賈南風に気に入られたため、生きて帰ることができたと記している。
また賈南風が太医令程據らと関係を持ったともする。
ただし、これは『晋書』が賈南風を「荒淫」な皇后として描く文脈で収録した逸話であり、
宮廷内の具体的事実としてそのまま確定できるものではない。
河東公主の病と大赦
賈南風と恵帝の娘である河東公主が病気になった際にも、『晋書』は一つの逸話を伝える。
巫者が、刑罰を緩めて寛大な措置を行えば公主の病に良いと進言した。
すると賈南風は皇帝の詔を称して天下に大赦を行ったという。
国家の刑政が皇后の娘の病気と結びつけられた出来事として、
『晋書』が賈南風の権力行使を示すために採録した記事である。
偽妊娠と韓慰祖
賈南風には男子がなかった。
『晋書』は、彼女が自分に子があるように見せるため、妊娠を偽装したという話を伝えている。
腹に物を入れ、出産に必要な道具まで準備した。
そして妹賈午と韓寿との間に生まれた韓慰祖を引き取り、
自分が武帝の喪中に密かに産んだ子であるように扱ったという。
表向きにはその出生を明らかにせず、最終的には司馬遹を廃し、
この養子を後継者にしようとしたと『晋書』は記す。
この記述は賈南風による司馬遹廃太子の動機を説明する重要な記事だが、
韓慰祖擁立計画が具体的にどこまで進められていたかを示す独立した記録は乏しい。
そのため、司馬遹を廃して韓慰祖を皇位継承者にする計画が確定していたと断定するより、
『晋書』がそのような意図を持っていたと記している、とするのが適切である。
皇太子司馬遹との対立
郭槐と司馬遹
賈南風の母郭槐は司馬遹を重視し、娘にも皇太子を大切にするよう繰り返し忠告していた。
賈南風には男子がなく、恵帝の子である司馬遹が皇位を継ぐ可能性が高かったため、
皇太子との関係は賈氏一族の将来にも関わる問題だった。
賈謐が皇太子に対して尊大に振る舞った際にも、郭槐はその態度を厳しく叱責したという。
また、韓寿の娘を司馬遹の妃とし、皇太子と賈氏・韓氏を婚姻によって結びつけようとした。
司馬遹自身も韓氏との婚姻を望んだとされるが、
賈南風と賈午が反対したため実現せず、王衍の娘王恵風が皇太子妃となった。
その後、郭槐が病に倒れると、
占術によって「広城」という封号がよくないとされ、宜城君に改封された。
賈南風は十日余り母の看病を続け、司馬遹も宜城君の邸宅へ通い、
医師を伴うなど礼を尽くしたと『晋書』は記している。
臨終に際して郭槐は賈南風の手を取り、司馬遹に心を尽くすよう改めて言い残した。
また趙粲と賈午を名指しし、この二人は娘の政治を乱すため、
自分の死後は宮中へ入れてはならないと忠告したという。
しかし賈南風は、母の死後も趙粲や賈午との関係を断たず、この遺言には従わなかった。
成長した司馬遹
幼少期には高く評価された司馬遹だが、『晋書』は成長後の人物像について厳しい記事も残している。
学問を好まず、側近たちと遊び、師傅を十分に尊敬しなかったという。
賈南風は宦官らに命じ、司馬遹に対して、若いうちに好きなことをすればよい、
もっと威刑を用いなければ天下の者は恐れない、といった言葉で煽らせたとされる。
司馬遹は朝廷への出席を怠って後園で遊び、
小さな車や馬を走らせ、乗っている者を落馬させて楽しんだとも記される。
気に入らない者を自ら殴ることもあった。
一方で商売を好み、東宮内に市場を設け、人に酒肉を売らせ、自分で品物の重量を量った。
斤量を手で量ってもほとんど誤差がなかったという逸話も残る。
さらに西園では葵、藍の種、鶏、小麦粉などを販売し、その利益を得ていた。
東宮には毎月五十万銭が支給されていたが、司馬遹は二か月分を先取りすることもあったとされる。
洗馬の江統はこうした行動を諫め、朝廷への出席、師傅との交流、宮殿改修の節約、
市場経営の中止などを求めたが、司馬遹は従わなかった。
舍人杜錫も、賈南風との関係を警戒して修徳を勧めた。
司馬遹はこれを煩わしく思い、杜錫が普段座る敷物に針を仕込ませたという。
賈南風側の誘導があったと史書は記しているものの、
司馬遹自身にも軽率な振る舞いがあったとするのが『晋書』の描写である。
賈謐との対立
皇太子司馬遹と賈謐の関係も悪化した。
賈謐は皇后の親族であることを背景に、皇太子に対して十分に臣下の礼を取らなかったとされる。
司馬遹も賈謐を嫌い、賈謐が東宮へ来ても相手をせず、後園へ行って遊ぶことがあった。
二人が囲碁をしていた際、盤上の争いから口論になったこともあったという。
その場にいた成都王司馬穎が賈謐の態度を咎めたため、賈謐はさらに不満を抱いた。
やがて賈謐は賈南風に対し、
司馬遹が田地や財産を集めて人々を味方につけているのは賈氏を滅ぼすためであり、
皇后が死ねば賈氏を思いのまま処分すると語っている、と訴えた。
さらに司馬遹が即位すれば、かつて楊氏が滅ぼされたのと同じように賈氏も処刑され、
賈南風自身も金墉城へ送られるだろうと説いた。
こうした賈謐の言葉もあって、賈南風は司馬遹への警戒を強め、
その欠点や問題行動を周囲に広めるようになった。
朝廷では、賈南風が皇太子を害そうとしているとの認識が広まった。
中護軍趙俊は逆に司馬遹へ、先に賈南風を廃すべきだと進言したが、司馬遹は従わなかった。
元康九年――皇太子を陥れる
元康九年(299)、賈南風は司馬遹の廃位へ向けて動き始めた。
まず恵帝が病気であると偽って司馬遹を宮中へ呼び出し、
別室に入れると、宮女を通じて皇帝から下賜されたものだとして酒を飲ませた。
司馬遹は不審に思ったものの、皇帝からの命令とされていたため拒み切れず、やがて泥酔したという。
そのうえで、司馬遹自身が謀反を企てていることを示す文書を書かせる工作が行われた。
文案の作成には潘岳が利用されたとされるが、
潘岳が司馬遹を陥れる目的を知ったうえで作成したというわけではなく、
別の名目で文章を書かされ、それが利用されたと史書は伝えている。
泥酔した司馬遹は用意された文章を書き写したものの、
最後まで十分に書くことができず、書けなかった部分は後から補われた。
その文書には、恵帝と賈南風を殺害して自ら政権を握るという趣旨の内容が記されており、
賈南風はこれを司馬遹の謀反の証拠として示し、処刑を求めた。
これに対して張華や裴頠らは、
皇太子の処分は国家の根幹に関わる問題であるとして慎重な対応を求めた。
問題の文書についても、司馬遹が以前に書いたものと筆跡を比較し、
本人が書いたものか詳しく調べるべきだとの意見が出された。
そこで過去の司馬遹の筆跡も集められたが、
比較しても偽造されたものだと明確に断定することはできなかった。
最終的に司馬遹は死刑を免れたものの、皇太子を廃されて庶人となり、許昌宮へ移された。
東宮の官僚には見送りも禁じられたが、
江統や王敦らは禁令を破って伊水まで赴き、司馬遹を見送ったと伝えられている。
司馬遹殺害と賈南風の失脚
司馬倫と孫秀の策謀
司馬遹の廃位は朝廷内に反発を生み、
旧東宮に仕えていた司馬雅、許超、士猗らは、
賈南風を廃して司馬遹を皇太子に復位させようと考えた。
そのために協力を求めたのが、軍事力を握っていた趙王司馬倫と、その側近である孫秀だった。
しかし孫秀は、ただちに賈南風を倒して司馬遹を復位させることには反対した。
司馬倫はそれまで賈南風と近い立場にあり、司馬遹の廃位にも関与していたため、
司馬遹を救出したとしても、それまでの行動を不問に付されるとは限らなかった。
むしろ司馬遹が皇太子に戻れば、
賈南風に協力して自分を廃位へ追い込んだ者として、司馬倫が処罰される可能性もあった。
そこで孫秀は、司馬遹をすぐに救出するのではなく、
賈南風自身に司馬遹を殺害させてから行動する策を立てた。
司馬遹が殺されれば、その責任を賈南風に負わせ、
「皇太子を殺した皇后を討つ」という名目で政変を起こすことができる。
そうすれば司馬倫はそれまで賈南風に協力していた責任を免れるだけでなく、
司馬遹の仇を討った者として朝廷の主導権を握ることも可能になると考えたのである。
司馬倫がこの策に従うと、孫秀らは宮中へ、
司馬遹を復位させるために賈南風を廃そうとする動きが進んでいるという情報を流した。
賈南風は当時、宮女を庶民の服装に変えて市中へ送り、宮廷外の情勢を探らせていたため、
司馬遹の復位を求める動きがあることを知った。
こうして司馬遹の存在を自らの地位に対する脅威とみた賈南風は、
その処遇をさらに厳しく考えるようになった。
司馬遹の殺害
永康元年(300)三月、賈南風は廃太子となっていた司馬遹の殺害を決め、
太医令の程據に毒薬を調合させると、黄門の孫慮を司馬遹が置かれていた許昌へ派遣した。
司馬遹は廃位された後、自らが毒殺されることを警戒し、食事は目の前で調理させるようにしていた。
そのため監視役の劉振は司馬遹を狭い部屋へ移して食物を断ち、外部との接触も制限したが、
宮人の中には壁越しに密かに食物を渡す者もいたという。
許昌に到着した孫慮は、まず用意された毒薬を司馬遹に飲ませようとしたものの、
司馬遹がこれを拒んだため果たせなかった。
そこで孫慮は別の手段をとり、最後は薬を搗くための杵で司馬遹を殴って殺害した。
司馬遹は二十三歳だったと伝えられている。
司馬遹の死後、役人たちは皇太子を廃されて庶人となっていたことから、
庶人の礼によって葬ることを求めた。
これに対して賈南風は、かつて司馬遹が広陵王であったことを理由に、
広陵王としての礼で葬るよう上表している。
殺害を命じた後に葬礼では一定の待遇を認めるよう求めたことになるが、
この上表がどのような意図によるものだったのかについて、史料は明確な説明を残していない。
賈南風の失脚
司馬遹が殺害されると、司馬倫と孫秀は計画していた政変を実行に移した。
永康元年(300)四月、司馬倫は恵帝の詔を偽造し、
賈南風と賈謐が皇太子を殺害したことを理由として兵を宮中へ入れ、
斉王司馬冏に賈南風を拘束させた。
兵を率いて現れた司馬冏に対し、賈南風は何をしに来たのかと尋ねた。
司馬冏が皇后を捕らえる詔が出ていると答えると、
賈南風は「詔は私のところから出るはずなのに、何の詔なのか」
という趣旨の言葉を返したと伝えられている。
賈南風がそれまで恵帝の詔命に強い影響力を及ぼしていたことをうかがわせる逸話である。
賈南風は連行される際、恵帝に向かって、
妻を他人に廃させるようでは、いずれ皇帝自身も廃されることになるという趣旨の言葉を残した。
『晋書』に記されたこの発言は、その後、恵帝が司馬倫によって一度帝位を奪われ、
さらに八王の乱の中で諸王の争いに巻き込まれたことから、
後世にはその行く末を言い当てた言葉としても受け取られた。
さらに賈南風が今回の政変を起こした者を尋ねると、司馬冏は梁王司馬肜と趙王司馬倫の名を挙げた。
これを聞いた賈南風は、
「犬を繋ぐなら首を繋ぐべきなのに、尾を繋いだからこうなった」という趣旨の言葉を発したという。
自らの政権下で司馬倫らを用いながら、
その動きを十分に抑えられなかったことを指した発言と解されている。
賈謐と賈氏一族の最期
政変が始まると、賈南風の近親者として大きな権勢を持っていた賈謐も宮中へ呼び出された。
危険を察した賈謐は逃れようとし、「阿后、我を救え」と賈南風に助けを求めたものの、
その場で斬られたという。
『晋書』によれば、連行される賈南風は途中で賈謐の遺体を目にすると、
二度声を上げて泣いた後、すぐに泣き止んだとされる。
粛清は賈謐だけにとどまらず、賈南風の妹である賈午をはじめ、
その周辺にいた趙粲、韓寿、董猛らにも及んだ。
これによって、賈南風の親族や宮中で彼女を支えてきた勢力は大きく排除されることになった。
さらに司馬倫と孫秀は、賈氏一族だけでなく、朝廷で政務を担ってきた張華や裴頠らも処刑した。
張華と裴頠は司馬遹の廃位をめぐって慎重な姿勢を示し、
賈南風の意向に全面的に従っていたわけではなかったが、
司馬倫らは政権を掌握する過程で彼らも排除した。
このため永康元年(300)の政変では、
賈南風とその親族を中心とする勢力が崩壊しただけでなく、
それまで中央政界で実務を担っていた有力官僚も同時に失われた。
金墉城での死
皇后を廃された賈南風は庶人となり、まず宮中の建始殿に幽閉された後、金墉城へ移された。
金墉城は、太子妃時代に妊娠した側室を害した際、武帝が賈南風を廃して送ろうとした場所であり、
元康元年(291)には賈南風によって皇太后の地位を奪われた楊芷が幽閉された場所でもあった。
永康元年(300)四月、司馬倫は再び恵帝の詔を偽造し、
尚書の劉弘らを金墉城へ派遣して賈南風に死を命じた。
賈南風はそこで「金屑酒」を与えられて死去し、
『晋書』は皇后としての在位期間を十一年と記している。
この「金屑酒」は、文字どおり金の細片や粉末を含む酒と解されることが多い。
ただし中国古代では金を含む鉱物や金属類が薬物として用いられることもあったため、
具体的にどのような成分の酒であったのかは明らかではない。
少なくとも史料上、賈南風が自ら命を絶ったのではなく、
政権を掌握した司馬倫が恵帝の名を用いて死を命じ、それによって生涯を終えたと記されている。
賈南風死後の西晋
司馬遹の名誉回復
賈南風が失脚すると、司馬倫政権は廃されていた司馬遹の地位を回復し、
再び皇太子としたうえで、その遺骸を許昌から洛陽へ迎えさせた。
恵帝は長子を失った父として喪に服し、司馬遹には「愍懐」の諡号が贈られ、顕平陵に葬られた。
また司馬遹の死後、その子たちにも王号が与えられ、
それまで賈南風のもとで処分されていた皇太子一族の地位も回復された。
ただし、司馬倫による司馬遹の復権には政治的な意味もあった。
司馬倫と孫秀は、司馬遹を殺害した責任を賈南風に負わせることで政変を起こしており、
新たな政権の正当性を示すうえでも、司馬遹を不当に廃されて殺害された皇太子として位置づけ、
その処分を取り消す必要があったと考えられる。
賈南風死後の八王の乱
賈南風が排除された後も西晋の政治は安定せず、政変を主導した趙王司馬倫が朝廷の実権を握った。
司馬倫は次第に自らの地位を高め、やがて恵帝を退位させて自ら皇帝を称するに至った。
これに対して斉王司馬冏、成都王司馬穎、河間王司馬顒ら宗室諸王が挙兵すると、
司馬倫は敗れて殺害された。
しかし諸王の対立はこれで収束せず、その後も有力な宗室が軍事力を背景に政権を争い、
洛陽をはじめとする各地が戦乱に巻き込まれていった。
恵帝自身も争いの中で諸王の勢力下を転々とし、
皇帝を確保することが政権を掌握する手段の一つとなっていった。
賈南風が実権を握っていた元康年間には、賈模、張華、裴頠らが中央で政務を担い、
一定の政治秩序が維持されていた時期もあった。
しかし永康元年(300)の政変では、賈氏一族だけでなく張華や裴頠らも排除され、
中央政界の構成は大きく変化した。
その後、司馬倫による帝位簒奪を契機として宗室諸王の軍事衝突が拡大したため、
賈南風の失脚は八王の乱を収束させるものとはならず、
争いがさらに拡大していく過程の一つとなった。
娘・臨海公主のその後
賈南風の死後については、娘の一人である臨海公主の動向も『晋書』に記録されている。
もとは清河公主に封じられていたが、西晋末の混乱の中で洛陽が戦乱に巻き込まれると略奪され、
呉興の銭温という人物に売られた。
銭温は公主を自分の娘のもとに置き、
その娘は公主の身分を知らないまま酷使していたという。
その後、司馬睿が江南の建業を拠点とするようになると、
公主は自ら役所へ赴いて身分を明かし、事情を訴えた。
これを知った司馬睿は銭温とその娘を処刑するとともに、
公主を臨海公主に改封し、のちに宗正を務めた曹統の妻とした。
皇帝と皇后の娘として生まれた臨海公主が、洛陽の混乱によって一時は売られる境遇に置かれ、
江南へ逃れた後にようやく皇族としての身分を回復したことは、
西晋末の戦乱が皇族にも直接及んでいたことを示す記録となっている。
賈充の合葬をめぐる後日談
賈南風の失脚後については、父賈充の墓をめぐる後日談が『世説新語』に残されている。
賈充には前妻の李氏と後妻の郭槐がいたが、
その死後、李氏の娘は自分の母を父と合葬することを望み、
一方で郭槐の娘である賈南風は、自分の母を賈充と合葬することを望んだため、
双方の意見が対立して長く決着しなかったという。
その後、賈南風が皇后を廃されると李氏が賈充と合葬され、
合葬をめぐる問題も決着したと『世説新語』は伝えている。
正史の本伝ではなく説話集に収録された記事であるため、
事実関係については慎重に扱う必要があるが、
賈南風の失脚後に賈充家の葬礼をめぐる扱いが変化したという後日談として伝えられている。
後世に残された賈南風像
童謡に現れた賈南風
『晋書』賈南風伝には、当時洛陽で流行したとされる童謡が記されている。
その中には「南風烈烈として、黄沙を吹く」とあり、
さらに「龍門を越えて魯に至る」といった内容が続き、
史書では後に起きた賈南風や賈氏一族の失脚と結びつけて解釈されている。
ここでいう「南風」は賈南風を指し、「魯」は賈氏と関係する語とされた。
父の賈充は魯郡公に封じられ、その後を継いだ賈謐も魯公となっていたため、
「魯」は賈謐をはじめとする賈氏の勢力を示すものと解釈されたのである。
なお、『晋書』五行志に収められた童謡には異文があり、
賈南風伝の「黄沙」に対して「白沙」と記されている。
五行志では「白」を西晋に対応する色、「沙」を皇太子司馬遹の小名「沙門」に結びつけ、
「南風」を賈南風、「魯」を賈謐に対応させている。
つまり五行志では、童謡に現れる語句を賈南風・司馬遹・賈謐と西晋王朝の動向に当てはめ、
その後に起こった皇太子廃殺や賈氏の失脚を予兆するものとして解釈している。
一方、賈南風伝に見える「黄沙」については、
五行志の「白沙」のような明確な解釈が示されていない。
このため「黄沙」に特定の人物や出来事を対応させるのではなく、
両者の文言に異同があることを示しておくのが適切である。
このような童謡は中国の史書で政治的事件の前兆としてしばしば収録されるが、
後に起きた事件をもとに語句の意味が解釈されているため、
実際に事件以前からそのような意味を持つ歌として理解されていたとまでは確認できない。
賈南風に関する童謡も、当時の政治状況を直接記録した記事というより、
後世の歴史叙述の中で事件と結びつけられた予兆として扱う必要がある。
『晋書』五行志が記す予兆
『晋書』五行志には、当時の服飾や髪型の流行を、
後に起こった賈南風をめぐる政治的事件の予兆として解釈した記事がいくつか収められている。
太康年間には、それまで先端が丸かった女性用の履物が男性用と同じ四角い形となり、
男女の履物の違いがなくなったという。
また元康年間になると、
女性たちの間で斧・鉞・戈・戟などの武器をかたどった装飾品を髪に挿すことが流行したほか、
宮中から「擷子髻」と呼ばれる髪型も広まった。
五行志は、こうした風俗の変化を単なる流行として記録するのではなく、
後の政治的事件と結びつけている。
男女の履物の形が同じになったことは、賈南風が朝政に関与することの前兆とされ、
女性が武器をかたどった装飾品を身につけたことについても、
干宝は男女の区別という秩序が崩れた現象として賈南風の政治と関連づけた。
また「擷子髻」の流行については、
後に皇太子司馬遹が廃位・殺害されたことに対応する予兆として解釈されている。
もっとも、これらは賈南風の行動そのものを伝える記事ではない。
中国の史書に設けられた五行志では、社会の風俗や自然現象の異変を政治秩序の変化と結びつけ、
後に起こった事件の前兆として説明することがある。
ここに挙げられた履物や髪飾り、髪型についても、当時そのような流行があったという記録と、
それを賈南風や司馬遹の事件に結びつけた史書上の解釈とは分けて見る必要がある。
人物評・評価
『晋書』が描く賈南風の人物像は厳しく、
太子妃時代から嫉妬深く権謀に長けた女性として記されている。
妊娠した司馬衷の側室を害した逸話をはじめ、
皇后となってからは宮外の男性を宮中へ連れ込んだとする話も収録され、
政治面では楊駿の排除から司馬亮・衛瓘・司馬瑋をめぐる政変に関与し、
最終的には皇太子司馬遹を廃位して殺害させた人物として描かれている。
こうした評価の中でも、
賈南風の政治的責任を考えるうえで特に大きいのが司馬遹の廃位と殺害である。
賈南風は司馬遹を謀反の罪に陥れて皇太子から廃し、復位を求める動きが生じると殺害を命じた。
その結果、司馬倫と孫秀は皇太子殺害の責任を追及することを名目として政変を起こし、
賈南風とその一族を排除して朝廷の実権を握った。
一方、賈南風が皇后として権力を握っていた時期の政治を、
彼女一人による統治として捉えることも適切ではない。
賈氏の一族では賈模や賈謐、郭彰らが大きな影響力を持ち、
政務では張華や裴頠らが重要な役割を担っていた。
『晋書』も賈模が張華・裴頠らとともに政務を支えた時期について、
朝廷が比較的安定していたことを記しており、
元康年間を通じて政治が一貫して混乱していたわけではなかった。
また、賈南風が政治の中心へ進出する以前から、西晋では外戚と宗室をめぐる問題が存在していた。
武帝の死後には外戚の楊駿が朝政を掌握し、
その排除には軍事力を持つ楚王司馬瑋ら宗室が利用された。
楊駿の失脚後も汝南王司馬亮、楚王司馬瑋らが中央政治に関与しており、
皇帝の周囲で外戚・宗室・官僚が競合する状況は賈南風だけが作り出したものではない。
武帝が宗室諸王に一定の軍事力を持たせていたことも、
その後の政争が武力衝突へ発展する背景となった。
賈南風の死後に争乱が収束しなかったことも、この問題を考えるうえで重要である。
彼女を倒した司馬倫と孫秀は、もともと司馬遹を救うためだけに行動したのではなく、
賈南風に司馬遹を殺害させ、その責任を追及する形で政権を奪う策を進めていた。
政変後には張華や裴頠らも排除され、やがて司馬倫自身が恵帝を退位させて帝位につくと、
これに反発した宗室諸王の挙兵によって争乱はさらに拡大した。
このため、西晋の政治的混乱を賈南風個人だけに帰することはできない。
ただし、彼女自身が楊駿排除後の宮廷政治で大きな影響力を持ち、
宗室間の対立を利用した政変に関与したこと、さらに司馬遹の廃位と殺害によって
皇位継承をめぐる状況を大きく変化させたことも史料から確認できる。
賈南風は西晋初期の政治構造の中で権力を握った皇后であると同時に、
その権力を維持する過程で行った一連の政治的判断が、
のちの政変と宗室間抗争に影響を与えた人物として位置づけられる。
まとめ
賈南風は西晋の建国功臣賈充の娘として皇太子司馬衷に嫁ぎ、
司馬衷が恵帝として即位すると皇后となった。
武帝の死後、外戚や宗室が朝廷の主導権を争う中で政治的影響力を強め、
楊駿の排除をはじめとする一連の政変に深く関わった。
その後は賈氏一族が勢力を伸ばす一方、張華や裴頠らが政務を担い、
元康年間には比較的安定した時期もあった。
しかし男子のなかった賈南風と皇太子司馬遹との関係は次第に悪化し、
元康九年(299)に司馬遹を廃位、翌年には殺害させた。
この事件を利用した司馬倫と孫秀によって賈南風は皇后を廃され、
永康元年(300)、金墉城で死を命じられた。
その後も宗室間の争いは収まらず、八王の乱はさらに拡大していった。
『晋書』には賈南風の性格や私生活をめぐる多くの逸話が残されているが、
その人物像には後世の史書による評価も大きく影響している。
西晋の混乱そのものを一人の皇后に帰することはできないものの、
司馬遹の廃位と殺害をはじめとする彼女の政治的判断が、
その後の政局に大きな影響を与えたことは確かである。
史書・参考文献
・『晋書』巻31「后妃伝・恵賈皇后」
・『晋書』「愍懐太子遹伝」
・『晋書』「趙王倫伝」
・『資治通鑑』巻82~83
・『太平御覧』巻138
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