【唐】武則天(則天武后)|中国唯一の女帝が皇帝になるまでと治世

女帝・武則天(唐の高宗の皇后) 01.皇后

武則天(624―705)は、の太宗の後宮に入り、
その死後に高宗の后妃となり、皇后、皇太后を経て、690年に自ら皇帝に即位した人物である。
名は武曌。に代わって国号を「周」と改めたため、その政権は後世「武周」と呼ばれる。

高宗の治世後半から政治に深く関与し、
高宗の死後は二人の息子を相次いで皇帝に立てながら実権を握った。
やがて李唐の宗室や反対派を抑えて自ら帝位につき、
705年の神龍政変で退位するまで半世紀近く政治の中心にあり続けた。

一方、その生涯には、幼少時に「天下の主」となると予言された話、
自ら娘を殺して王皇后を陥れたという話、王皇后と蕭淑妃への苛烈な処刑、
皇太子李弘の毒殺説、「請君入甕」に代表される酷吏政治など、多数の逸話が付随する。

これらには『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』などが伝えるものも多いが、
成立時期や記述の違いから、そのまま事実とみなせないものもある。

出自と太宗の後宮

出自

武則天は624年に生まれたとされ、本貫は并州文水県、現在の山西省文水県にあたる。
出生地については父・武士彠の任地との関係から利州、
現在の四川省広元市とする説などがあるが、確定していない。

父の武士彠は裕福な家に生まれ、末には鷹揚府隊正となった。
高祖となる李淵が太原方面にいた時代から交流があり、李淵の挙兵後は朝創業に加わった。
成立後には工部尚書、荊州都督などを歴任し、応国公に封じられた。
『旧唐書』も武則天を「并州文水人」とし、
父の武士彠が高祖の挙兵以前から李淵と関係を持っていたことを記している。

母の楊氏は武士彠の後妻で、の宗室に連なる楊達の娘とされる。
武士彠には前妻との間に武元慶・武元爽がおり、楊氏との間には武則天のほか姉妹が生まれた。
姉はのちに韓国夫人となり、その娘の賀蘭氏も高宗の宮廷に出入りすることになる。

武士彠が死去すると、楊氏とその娘たちは武元慶・武元爽らから
礼を欠いた扱いを受けたと史書は伝える。
武則天が権力を握った後、異母兄たちは地方へ追われて失脚しており、
若年期の武氏一族内部の確執が後の処遇と結びつけて語られている。

袁天綱が「天下の主」と予言した逸話

武則天の幼少期について最も有名なのが、相術家の袁天綱による予言である。

『旧唐書』方伎伝によれば、袁天綱が武家を訪れた際、
母の楊氏を見て「貴子を生む」と言い、武元慶・武元爽、さらに武則天の姉についても人相を占った。
その後、男児の衣服を着せられた幼い武則天を見ると、
その目や首の形を高く評価し、もし女児であるなら「後に天下の主となる」と予言したという。

武則天が実際に皇帝となった後に形成された予言譚である可能性は当然考慮する必要がある。
少なくとも幼少期の時点で将来の即位を予見した事実として扱うことはできないが、
代以後の史書にまで採録された代表的な武則天伝説である。

十四歳で唐太宗の後宮へ

貞観年間、武則天は十四歳ほどで太宗李世民の後宮に召された
正五品の才人となり、『新唐書』では太宗から「武媚」の号を与えられたとする。
「武媚娘」という呼称は後世広く知られるようになったが、史書に見えるのは「武媚」である。

入宮が決まった際、母の楊氏が娘との別れを悲しんだところ、
武則天は天子に仕えることが不幸であるとどうして分かるのか
という趣旨の言葉を返したと『旧唐書』后妃伝は伝える。
楊氏はその言葉を聞き、泣くのをやめたという。
若い武則天の気性や野心を示す逸話として後世しばしば引用される話である。

しかし、太宗の後宮にいた約十年間について具体的な記録は少ない。
位も才人から大きく上昇した形跡がなく、太宗との間に子も確認されていない。
後世の武則天像から逆算して、
太宗時代から宮廷内で大きな勢力を持っていたとみなすことはできない。

暴れ馬「獅子驄」の逸話

武則天自身が晩年に語ったとされる話に、太宗の愛馬「獅子驄」をめぐる逸話がある。

獅子驄は気性が激しく、誰にも調教できなかった。
武則天は太宗に対し、自分なら三つの物があれば制御できると申し出た。
その三つとは鉄鞭、鉄撾、匕首であり、まず鉄鞭で打ち、
それでも従わなければ鉄撾で頭を打ち、それでも従わなければ匕首で喉を断つと答えたという。

この話は、後年に武則天が吉頊へ自ら語った昔話という形で伝えられている。
太宗時代の出来事を同時代に記録したものではないものの、武則天自身の統治観や、
従わない相手には最後まで強制力を行使する人物像と重ねられてきた逸話である。

太宗の死と感業寺

貞観23年(649)、太宗が死去した。
太宗との間に子を持たなかった后妃たちは慣例に従って出家し、
武則天も感業寺に入って比丘尼となった。

このころすでに、太宗の皇太子であった李治、
のちの高宗と武則天の間に好意があったと『新唐書』などは伝える。
ただし、太宗存命中に二人が実際に男女関係を持っていたことまで確実に示す同時代史料はなく、
後世の叙述をそのまま事実とはできない。

高宗が太宗の忌日に感業寺を訪れた際、武則天と再会した。
『唐会要』などによれば、二人は互いに涙を流したという。

高宗の皇后であった王氏はこのことを知り、当時寵愛を集めていた蕭淑妃を抑えるため、
武氏を宮中へ戻すことを考えたとされる。

武氏に髪を伸ばさせ、やがて高宗が彼女を再び宮中に召し入れた。

高宗の後宮と皇后への道

高宗の後宮で王皇后・蕭淑妃と争う

再入宮した武氏は昭儀となり、高宗の寵愛を集めた
当初は王皇后に低姿勢で接し、高宗から受けた物を宮人たちに分けるなどして
後宮内に支持者を増やしたと『新唐書』は記す。
王皇后や蕭淑妃に不満を持つ宮人から情報を集めるようになり、
やがて王皇后自身を脅かす存在となった。

武氏は高宗との間に李弘、李賢、李顕、李旦の四男をもうけ、
娘には幼くして死んだ安定思公主と、後に朝政治で大きな影響を及ぼす太平公主がいた。

王皇后には男子がなく、
武昭儀が皇子を次々に生んだことは後宮内の勢力関係にも大きな意味を持った。

娘を殺して王皇后に罪を着せたという話

武則天の生涯でも特に有名で、同時に史実性が問題となるのが、
幼い娘の死を利用して王皇后を陥れたという話である。

『新唐書』では、武昭儀が女児を産んだ後、王皇后がその部屋を訪れて子をあやした。
王皇后が去った後、武昭儀は自ら娘を殺して布団をかけ、
高宗が来ると何も知らない様子で娘を見せた。
死んでいることに気づいて驚き悲しみ、周囲に尋ねると直前まで王皇后がいたことが分かり、
高宗は王皇后が娘を殺したと思い込んだという。

同様の筋立ては『資治通鑑』にも採用されている。

ただし、『旧唐書』則天皇后本紀にはこの娘殺害の記事がなく、
事件そのものを裏づける直接的な記録もない。
後世の史家が武則天の残忍さを説明するために採用した可能性も含め、
自ら娘を殺害したことを確定した史実として扱うことは難しい。

高宗が王皇后の廃位を本格的に考えるようになった背景には、こうした後宮内の事件だけでなく、
皇位継承、外戚、長孫無忌ら重臣との政治対立があった。

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「廃王立武」をめぐる政争

高宗が武昭儀を皇后にしようとすると、太宗以来の重臣たちは強く反対した。

とりわけ褚遂良は、武氏がかつて太宗に仕えた女性であることを問題とし、
皇后に立てるべきではないと主張した。
説得できないとみると笏を地面に置き、冠を脱ぎ、額から血が出るほど叩頭したと伝えられる。
長孫無忌、韓瑗、来済らも廃后に反対した。

一方、李義府は高宗が武氏を皇后に望んでいることを察し、
王皇后を廃して武昭儀を立てるよう上表した。
高宗はこれを喜び、李義府を重用した。許敬宗らも武氏支持に回った。

高宗が李勣に意見を求めると、李勣は「これは陛下の家事である。なぜ外人に問う必要があるのか」
という趣旨を答えたと伝えられる。
この発言は高宗にとって、皇后交代を実行するための大きな後押しとなった。

永徽6年(655)、王皇后は廃され、蕭淑妃も庶人に落とされた。
武昭儀は皇后に冊立され、王皇后の養子として皇太子となっていた李忠も後に廃され、
武后の長男李弘が皇太子となった。

王皇后と蕭淑妃の最期

廃された王氏と蕭氏は宮中に幽閉された。

『新唐書』や『資治通鑑』は、高宗が二人の幽閉場所を訪れようとしたことを武后が知り、
二人に百杖を加えたうえで手足を切り、酒甕に入れさせたという凄惨な最期を伝える。
蕭淑妃は死の前、「来世では自分が猫となり、武氏を鼠として喉をかみ切る」と呪ったとされ、
そのため武后が宮中で猫を飼うことを禁じたという逸話も生まれた。

さらに王氏と蕭氏の亡霊が血まみれの姿で現れ、
武后が恐怖したため宮殿を移ったという怪異譚も史書に収められている。

二人が武后の皇后即位後に殺害されたこと自体は史書が伝えているが、
手足を切断して甕に入れたという細部や、猫と鼠の呪い、亡霊譚は、
武后の残虐さを象徴する物語として形成された面を考慮する必要がある。

長孫無忌ら旧臣を排除

武后の皇后即位は、単なる後宮内の交代にとどまらなかった。

廃立に反対した褚遂良は地方へ左遷され、そのまま失意のうちに死去した。
高宗の母方の叔父で、太宗の治世を支えた長孫無忌も
許敬宗らの告発によって謀反事件に連座させられ、流刑先で自殺を命じられた。
韓瑗、来済らも中央から排除された。

これによって太宗以来大きな影響力を持っていた旧臣層は後退し、
許敬宗、李義府ら武后を支持した官僚が台頭した。

武后の権力形成は、後宮内の寵愛だけではなく、
高宗と旧来の有力官僚層との政治関係を再編する過程でもあった。

高宗と「二聖」の時代

高宗と並んで政治を行う

顕慶年間以後、高宗は「風疾」と呼ばれる病に悩むようになった。
史書では頭痛や目眩、視覚障害などを伴ったとされ、
百官の奏章を十分に処理できない場合には武后に判断を委ねた。

『旧唐書』は、高宗が顕慶年間以後しばしば風疾に苦しみ、
百司の奏表を天后に詳しく決裁させるようになったため、
武后が数十年間国政を補佐し、その威勢は皇帝と変わらなくなったと記す。
後には高宗を「天皇」、武后を「天后」と称し、二人を「二聖」と呼んだ。

ただし、高宗がこの時点で完全な傀儡となったわけではない。
高宗自身も人事・外交・軍事の重要案件を決裁しており、
夫婦が協調する一方で、武后の権力拡大を高宗が警戒する局面もあった。

上官儀による廃后計画

麟徳元年(664)、高宗と武后の関係に大きな危機が生じた。

武后の権力拡大に不満を募らせた高宗は、宰相の上官儀に相談した。
上官儀は皇后を廃するべきだと進言し、高宗は廃后の詔書を書かせた。

しかし武后はこの動きを知ると高宗のもとへ赴いて弁明した。
高宗は翻意し、廃后計画について「上官儀が自分に勧めた」と責任を転嫁したと史書は伝える。

上官儀は謀反に連座したとして処刑され、その一族も処罰された。
孫娘の上官婉児は幼かったため殺されず、母とともに宮中の奴婢となった。
後に上官婉児は武則天に文才を認められ、詔勅を掌握する宮廷女性へ成長する。

この事件以後、武后が高宗の背後から政務に加わる体制がさらに明確になった。

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泰山封禅と「二聖」

乾封元年(666)、高宗は泰山で封禅を行った。

通常、皇帝が初献を行った後には男性の高官が亜献を務めるところ、
武后は地を祭る儀礼には女性である自分がふさわしいと主張し、自ら亜献を務めた。
さらに内外の命婦が儀礼に参加した。

国家最高の祭祀に皇后が主体的に参加したことは、
武后が単なる後宮の長ではなく、皇帝と並ぶ政治的存在となっていたことを象徴する。

上元元年(674)、高宗は「天皇」、武后は「天后」と称した。
「二聖」という呼称も定着し、武后の地位は制度上も特異なものとなった。

建言十二事

同じ上元元年、武后は高宗に「建言十二事」を提出した。

内容は、農桑を奨励して賦役を軽くすること、長安周辺の負担を軽減すること、
戦争を抑えて徳によって天下を治めること、官営工房の贅沢な製品を禁じること、
無用な労役を減らすこと、言路を広げること、讒言を防ぐこと、
王公以下に『老子』を学ばせること、父が存命の場合でも母の喪を三年とすること、
過去の勲官を改めて追及しないこと、下級京官の俸禄を増すこと、
長く職務を果たしながら地位の低い有能な官人を昇進させることなどであった。

高宗はこれを採用したと伝えられる。
武后の政治は酷吏や粛清だけで説明されることが多いが、
農政、官僚制度、言路、儀礼など幅広い政策への関心も史料から確認できる

皇太子李弘の急死

武后の長男李弘は、兄弟の中で最初に皇太子となった。史書では仁孝な人物として描かれる。

李弘は、武后によって宮中に閉じ込められていた、
蕭淑妃の娘である義陽公主と宣城公主(のちの高安公主)の処遇を高宗に訴え、
二人を結婚させるよう求めたという。

上元2年(675)、李弘は洛陽近郊の合璧宮で急死した。
高宗は深く悲しみ、皇太子でありながら「孝敬皇帝」と追尊した。

『新唐書』などには、武后が李弘を毒殺したという記述がある。
しかし李弘には以前から病気があったことも記録されており、
毒殺を直接裏づける同時代の確実な証拠はない。

武后と皇太子の対立を強調する後世の叙述も含まれるため、毒殺説は確定した事実とはいえない。

李賢の廃位と死

李弘の死後、弟の李賢が皇太子となった。

李賢は学問に優れ、学者を集めて范曄『後漢書』の注釈を編纂した。
一方、武后に近かった術士の明崇儼が、
李賢には帝王としての資質がないという趣旨の発言をしたとされ、母子関係は悪化していった。

明崇儼が何者かに殺害されると、武后は李賢への疑いを強めた。
調露2年(680)、皇太子宮から多数の武器が発見され、
李賢は謀反を企てたとして廃され、庶人となった後に巴州へ移された。

高宗死後の684年、武太后は将軍丘神勣を巴州へ派遣した。
李賢はそこで自殺を迫られて死んだ。
武太后は丘神勣を処罰したが、李賢の死が太后の意向によるものだったのか、
丘神勣の独断だったのかは史料上明確ではない。

李賢が廃された後、武后の三男李顕が皇太子となった。

高宗の晩年と死

高宗の病状は晩年になるほど悪化した。

一時、高宗が武后に国政を全面的に委ねることを検討した際には、
郝処俊が高祖・太宗の天下を子孫ではなく天后に委ねるべきではないと反対し、
実現しなかったとされる。

武后はこのころ「北門学士」と呼ばれる文人・学者を宮中に集め、
『臣軌』『百僚新誡』『兆人本業』などの編纂に関与させ、政策や奏議についても意見を求めた。
宰相だけに依存しない独自の政治基盤を形成していった。

弘道元年(683)12月、高宗は洛陽で死去した。
遺詔では皇太子李顕を即位させる一方、
軍国の大事で判断できないものは天后の決定を仰ぐものとされた。

武后は皇太后となり、ここから皇帝の母として正式に臨朝称制する。

皇太后としての権力掌握

中宗李顕を即位直後に廃する

李顕は中宗として即位したが、実権は皇太后の武氏が握っていた。

中宗は妻の韋皇后を重んじ、その父韋玄貞を侍中に昇進させようとした。
宰相裴炎が反対すると、中宗は感情的になり、
天下を韋玄貞に与えたとして何が問題なのかという趣旨の発言をしたとされる。

裴炎はこれを武太后に報告した。
嗣聖元年(684)2月、武太后は即位から二か月足らずの中宗を廃し、廬陵王に降格した。
中宗が自分に何の罪があるのかと問うと、
武太后は天下を韋玄貞に与えようとしたではないかと答えたという。

代わって末子の李旦を即位させた。睿宗である。
しかし睿宗には実際の統治権を与えず、別殿に置いたまま武太后が臨朝称制を続けた。

裴炎の処刑と徐敬業の乱

中宗廃位後、武太后と宰相裴炎の関係も悪化した。

同年、李勣の孫にあたる徐敬業が揚州で兵を挙げ、武太后打倒と王朝の復旧を掲げた。
文学者の駱賓王は徐敬業のために「為徐敬業討武曌檄」を書き、武太后を激しく非難した。

武太后がこの檄文を読み、その文章の巧みさに感心し、
これほどの人物を登用しなかったのは宰相の過ちだと語ったという逸話が伝わる。

裴炎は反乱を機に皇帝へ政権を返すよう求めたとされ、武太后はこれを反逆とみなして処刑した。
名将程務挺も裴炎との関係を理由に殺された。
程務挺を恐れていた突厥がその死を喜んだとも史書は伝える。

徐敬業の軍は李孝逸らによって鎮圧され、徐敬業も敗死した。
武太后に対する最初の大規模な武装反乱は短期間で終息した。

武氏一族の登用と李唐宗室の反乱

武太后は甥の武承嗣、武三思、武攸寧、武懿宗ら武氏一族を次々に重用し、
父の武士彠や祖先にも高い称号を与えた。

一方、李唐宗室の間では、
武太后が最終的に李氏から皇位を奪うのではないかという危機感が強まった。

垂拱4年(688)、琅邪王李沖が博州で挙兵し、父の越王李貞も豫州で兵を挙げた。
しかし両者は十分に連携できず、李沖は短期間で敗死し、李貞も敗れて自害した。

その後、韓王李元嘉、魯王李霊夔ら多数の李唐宗室が処刑・自殺・流刑に追い込まれた。
武太后に対抗できる皇族勢力は急速に弱体化した。

銅匭と密告政治

反対派摘発のため、武太后は密告を積極的に奨励した。

洛陽の朝堂には「銅匭どうき」と呼ばれる投書箱が設置され、
官人だけでなく一般の人々も意見や告発を提出できた。
遠方から密告のために都へ来る者には交通や食事の便宜を与え、
密告内容が事実でなかった場合でも原則として告発者を罰しないという扱いが取られた。

制度そのものには民意を直接吸い上げる側面もあったが、
政治的には反対派を摘発するための密告網として大きな役割を果たした。

索元礼・周興・来俊臣ら酷吏

密告制度と結びついて台頭したのが「酷吏」と呼ばれる官僚たちである。

索元礼、周興、来俊臣、侯思止、万国俊、王弘義らは、反逆事件の捜査で苛烈な拷問を用いた。
来俊臣らはさまざまな拷問方法に名称を付け、罪人を陥れる技法をまとめたとも伝えられる。

宗室、高官、地方官など多数の人々が謀反を告発され、自白を強要されて処刑された。

ただし武太后は酷吏を無制限に庇護したわけではない。
政治的に利用価値を失ったり、武氏一族や自らの側近にまで攻撃を広げたりすると、
彼ら自身を処分している。

「請君入甕」

酷吏政治を象徴する故事が「請君入甕」である。

周興自身が謀反を告発されると、武太后は来俊臣に取り調べを命じた。
来俊臣はまず周興に、罪を認めない囚人を自白させるにはどうすればよいかと相談した。
周興は、大きな甕を炭火で熱し、その中へ囚人を入れれば自白すると答えた。
来俊臣はその場で大甕と火を用意し、周興に向かって、
自分が取り調べを命じられているので「どうぞ甕の中へ」と告げた。
周興は恐れてただちに罪を認めた。

後に、自分で考えた方法によって自分自身が追い詰められることを意味する
「請君入甕」の故事成語となった。

明堂・薛懐義と仏教

武太后は洛陽に巨大な明堂を建設し、自らの権威を視覚化した。

その事業に深く関わったのが薛懐義である。
本名を馮小宝といい、もとは洛陽の商人だったとも伝えられる。
武太后の寵愛を受けるようになると僧侶となり、
太平公主の夫薛紹の一族に連なる体裁を整えて「薛懐義」と名乗った。

白馬寺の寺主となり、明堂やその北側に建てられた天堂の建設を指揮したほか、
突厥遠征軍の将にも任じられた。

やがて薛懐義は寵愛を頼んで横暴になり、武太后との関係も悪化した。
明堂が焼失した事件も薛懐義の放火とする説が史書にあり、その後殺害された。
太平公主の乳母や壮士らが武太后の意向を受けて殺したという形でも伝えられている。

武太后は同時に仏教を政治的正統性の形成に利用した。
僧法明らは『大雲経』を解釈し、女性の聖王が出現するという思想を武太后に結びつけた。
各地に大雲寺が置かれ、が重んじていた道教に代わって仏教の政治的地位が上昇した

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「曌」と則天文字

皇帝即位を前に、武太后は自らの権威にふさわしい新しい文字を制定した。

その代表が「曌」である。
「日」と「月」が「空」の上に置かれた形を持ち、武太后はこの字を自らの名として用いた。
現在「武則天」の本名として「武曌」と表記されるのはこのためである。

ほかにも天・地・日・月・星・君・臣などに対応する新字が作られ、
総称して「則天文字」と呼ばれる。
単なる文字遊びではなく、新王朝成立を前に従来の秩序を作り替える象徴的政策だった。

皇帝即位と武周の治世

皇帝即位と武周建国

載初元年(690)、傅遊芸らが武太后に皇帝となるよう求める上表を行った。

当初は数百人規模だった請願は急速に拡大し、
官僚、僧侶、百姓、周辺諸民族の人々まで加わったとされる。
睿宗自身も武氏の姓を賜ることを願い出た。
『資治通鑑』は傅遊芸らの請願から、皇帝や群臣が武氏への改姓を願う流れを記している。

天授元年(690)9月、武太后はついに睿宗から皇位を受け、自ら皇帝となった。
国号は「」から「周」へ変更され、洛陽は「神都」とされた。

睿宗李旦は皇帝から「皇嗣」に降り、姓も武氏に改められた。
武氏の祖先を祀る七廟が整備され、李の宗廟は地位を下げられた。

武則天は中国史上、正式に皇帝号を称し、自らの王朝を建てた唯一の女性となった。

人材登用と科挙

皇帝となった武則天は、既存の門閥だけに依存しない人材登用を進めた。

科挙を重視し、皇帝自ら受験者を試す殿試を行ったことで知られる。
武官を選抜する武挙も武周期に設けられた。
さらに官僚や民間人に自薦を認め、推薦を通じて広く人材を集めた。

一方、登用後の査定は厳しく、昇進も速ければ失脚も速かった。
武則天期には宰相の交代が非常に多い。

後世の陸贄も、武后は人心を集めるため積極的に人材を抜擢し、自薦まで認めたうえ、
能力を厳しく査定したため、当時「人を知る明」があると評価されたことを記している。

狄仁傑、姚崇、宋璟、張柬之ら、後の朝を支える官僚の多くが武則天時代に登用・抜擢された。

狄仁傑と来俊臣

狄仁傑は武則天の時代を代表する名臣である。

一時、酷吏の来俊臣によって謀反を告発されると、狄仁傑は拷問を避けるため、いったん罪を認めた。その後、衣服の中に無実を訴える書状を隠し、家族を通じて武則天に届けさせたという。

武則天が自ら事情を調べると、来俊臣側が作った書類の問題が明らかになり、狄仁傑は死刑を免れた。いったん地方へ左遷された後、再び中央に戻って宰相となった。

晩年には武則天から「国老」と呼ばれ、朝廷で極めて高い信頼を受けたとされる。

狄仁傑は自らが有能だっただけでなく、張柬之ら多数の人材を武則天に推薦した。
のちに武周を終わらせる神龍政変の中心人物が、
武則天自身の人材登用によって中央へ進出したことになる。

武承嗣か李顕か―後継者問題

武周成立後、最大の政治問題となったのが後継者だった。

甥の武承嗣や武三思は、武氏の王朝である以上、皇太子も武氏から選ぶべきだと考えた。
特に武承嗣は皇太子の地位を強く望んだ。

しかし武則天には李顕と李旦という実子がいる。
武氏の甥に皇位を譲れば「周」は続くが、実子を立てれば帝位はいずれ李氏へ戻る。

狄仁傑はこの問題について、
息子であれば母親を宗廟に祀るが、甥が姑を祀った例は聞いたことがないという趣旨を述べ、
実子を後継者とするよう勧めたと伝えられる。

武則天が両翼を折られた鸚鵡の夢を見た際、
狄仁傑が「武」は陛下自身であり、二つの翼は二人の息子である、
息子を起用すれば翼が戻ると解釈したという逸話も、この後継者問題と結びついている。

最終的に武則天は、武氏の甥ではなく実子李顕へ皇位を戻す方向へ進んだ。

契丹・突厥・吐蕃と西域

武則天時代は国内の権力闘争だけでなく、北方・西方でも大規模な戦争が続いた。

長寿元年(692)、王孝傑らが吐蕃から安西四鎮を奪回し、亀茲に安西都護府を復置した。
が高宗期に失っていた西域支配を回復した重要な軍事成果である。

一方、北方では骨咄禄が第二突厥可汗国を再建し、その後の黙啜可汗も武周を圧迫した。

万歳通天元年(696)には契丹の李尽忠・孫万栄が営州で反乱を起こした。
周軍は大敗し、名将王孝傑も戦死した。契丹軍は河北へ進出し、武
則天政権は大きな軍事的危機に直面した。

周辺勢力が李氏をの正統な皇族として認識していたことは、武則天の後継問題にも影響した。
武氏の王朝を維持することは国内だけでなく、対外的な正統性の問題でもあった。

来俊臣の処刑と酷吏政治の後退

長く恐れられた来俊臣も、やがて自らの告発によって破滅した。

来俊臣は李昭徳ら多数の官僚を陥れた後、武氏諸王や太平公主まで告発しようとした。
武氏一族にとっても放置できない存在となり、神功元年(697)に処刑された。

史書では、来俊臣の遺体に民衆が殺到し、肉を切り取るほど憎悪されていたと伝える。

来俊臣の死後、武則天は酷吏を使った大規模な恐怖政治から次第に距離を置き、
狄仁傑ら通常の官僚機構を中心とする政治へ比重を移した。

李顕を呼び戻す

聖暦元年(698)、長く房州などに置かれていた廬陵王李顕が洛陽へ呼び戻された。

李旦も後継候補ではあったが、最終的に李顕が皇太子となった。
これにより、武則天の死後に皇位を李氏へ返す方針が事実上決まった。

皇太子を望んでいた武承嗣は望みを失い、まもなく死去した。

武則天は武氏と李氏の双方を婚姻などで結びつけ、二つの一族が共存する体制を作ろうとしたが、
王朝の根本的な矛盾が解消されたわけではなかった。

武則天晩年と張兄弟

張易之・張昌宗兄弟

武則天の晩年に大きな勢力を持ったのが張易之・張昌宗兄弟である。

張昌宗は美貌で知られ、太平公主が武則天に紹介したと伝えられる。
武則天は張昌宗を寵愛し、張昌宗は兄の張易之も宮中へ招いた。
張兄弟はそれぞれ「五郎」「六郎」と呼ばれ、武則天の側近として急速に権力を持つようになった。

張昌宗の美貌は仙人の王子晋になぞらえられ、
宮廷では彼を神仙的な存在として称賛する動きまで生まれた。

武則天は控鶴府、のちの奉宸府を設け、文人や美貌の男性を集めた。
これを単純に「男妾を集める機関」と説明することもあるが、
文学・宮廷文化に関わる官署としての側面も持っていた。

宋之問、沈佺期らの宮廷文人も活躍し、『三教珠英』の編纂など大規模な文化事業が進められた。

吉頊と獅子驄の回想

張易之兄弟以前に武則天へ接近した人物の一人が吉頊である。

吉頊は薛懐義との関係を通じて武則天に認められ、李顕を後継者として呼び戻す動きにも関わった。
武氏と李氏の両家が争えば第三者に天下を奪われる可能性があるとして、
両家の融和を進言したとも伝えられる。

武則天が若いころ太宗に仕えていた際の「獅子驄」の話を語った相手も吉頊である。

しかし吉頊も武氏一族との争いから失脚した。
武則天の側近であることは、安定した地位を保証するものではなかった。

魏元忠事件

晩年になると、張易之・張昌宗兄弟と朝臣の対立が激しくなった。

宰相魏元忠が張兄弟を批判すると、兄弟は魏元忠が謀反を企てたと告発した。

証人として利用されたのが張説である。
張兄弟側は張説に偽証を求めたが、張説は武則天の前で真実を述べ、
魏元忠が謀反を語った事実はないと証言した。

魏元忠は死刑を免れたものの流刑となった。

この事件は、張兄弟が皇帝の寵愛を利用して宰相まで排除しようとする状況に、
朝廷内部の危機感が高まっていたことを示している。

晩年の病と張兄弟の専横

長安年間に入ると、八十歳近くなった武則天は病気がちになり、朝廷へ姿を見せる機会が減った。

その一方、張易之・張昌宗兄弟は自由に寝所へ出入りし、
皇太子や宰相でさえ武則天本人に直接会いにくい状態となった。

武則天が健在である間は張兄弟を排除できず、皇太子李顕の即位が確実に行われる保証もない。
武則天の死後に張兄弟が何をするかという懸念も加わり、宰相や禁軍将領の間で政変計画が進んだ。

神龍政変と武則天の最期

神龍政変

神龍元年(705)正月、武則天が重病となると、
張柬之、崔玄暐、敬暉、桓彦範、袁恕己らは禁軍将領李多祚と結び、政変を起こした。

彼らは皇太子李顕を迎え、羽林兵を率いて宮中へ突入した。張易之と張昌宗はその場で殺された。

一行は武則天のいる迎仙宮へ進んだ。
武則天は病床から張柬之らを問いただしたが、その場に皇太子李顕がいるのを見ると、
政変が単なる張兄弟排除ではなく、自らの退位を目的としていることを理解した。

数日後、武則天は李顕へ帝位を譲った。

李顕は中宗として復位し、国号は「周」から「」へ戻された。
洛陽の「神都」という位置づけや武周独自の制度・文字なども順次唐制へ戻された。
690年から続いた武周は、一代十五年で終わった。

退位後の武則天

退位した武則天には「則天大聖皇帝」の尊号が贈られ、上陽宮へ移った。

『資治通鑑』は、退位後の武則天が化粧をやめたため急に老いた姿となり、
中宗がその姿を見て驚いたという逸話を伝える。

武則天は中宗に対し、自分はお前を房州から呼び戻して皇太子にしたのに、
五人の賊臣によってここへ追いやられたという趣旨の言葉を述べて涙を流し、
中宗も悲しんだとされる。

この「五賊」は神龍政変を起こした張柬之らを指す。

中宗はその後も武則天を訪ねた。
政治的実権を完全に失ったとはいえ、
武則天は単純な廃帝として処刑・幽閉されたわけではなく、中宗の母として一定の尊崇を保った。

死去

神龍元年(705)11月、武則天は洛陽の上陽宮で死去した。数え年82歳とされる。
遺制では皇帝号を去り、「則天大聖皇后」と称することを命じた。

さらに王皇后・蕭淑妃の一族、褚遂良、韓瑗ら、
自らの権力形成の過程で処罰された人々やその一族について名誉回復・処遇改善を命じたとされる。

武周皇帝として独立した陵墓に葬られるのではなく、
高宗の皇后として夫の陵墓に合葬される道を選んだことになる。

死後の武則天

乾陵への合葬

神龍2年(706)、武則天は高宗の乾陵に合葬された。
乾陵は現在の陝西省乾県にあり、
高宗と武則天という二人の「皇帝経験者」が同じ陵墓に葬られている点でも極めて特殊である。

代皇帝陵の多くが後世に盗掘されたなか、
乾陵の主要な地下宮殿は本格的な盗掘を免れている可能性が高いとされる。

陵前には高宗の功績を記した述聖紀碑と、武則天に対応する巨大な「無字碑」が立つ。

無字碑

武則天の無字碑は、その名の通り、本来の碑文が刻まれていないことで知られる。

後世には、武則天自身が「自分の功罪は後世に評価させる」と考えて文字を刻ませなかった、
あるいは「功績が大きすぎて文字では表せない」と考えたなど、さまざまな説明が生まれた。

一方、中宗が母を「皇帝」として記すべきか「皇后」として記すべきか判断できなかったため
無字となったとする説もある。

碑面には文字を配置することを想定した痕跡があるともされ、
最初から「無字碑」とすることが武則天自身の遺志だったとは限らない。

したがって、「武則天が自らの功罪を後世に委ねるため無字碑を残した」
という有名な説明は史実として断定できない。

・金以後には旅行者や官人らによって多数の題刻が加えられ、
現在の碑面は完全な「無字」ではなくなっている。

死後の追号

武則天の死後、その呼称は政治情勢に応じて何度も変化した。

中宗は母を「則天大聖皇后」とし、
その後も「天后」「大聖天后」「天后聖帝」などの追号が用いられた。
最終的には玄宗期に「則天順聖皇后」とされ、李唐王朝の高宗皇后として宗廟に位置づけられた。

現在一般に使われる「武則天」は生前の正式な称号ではない。
「則天」は死後の追号に由来し、「則天武后」「武則天」という呼称が後世定着したものである。

武氏一族のその後

が復活しても、武氏一族がただちに完全失脚したわけではない。

武三思は中宗の韋皇后上官婉児に接近して再び政界で大きな力を持ち、
逆に神龍政変を成功させた張柬之、敬暉、桓彦範、袁恕己、崔玄暐ら「五王」を失脚させた。

しかし景龍元年(707)、皇太子李重俊が武三思・武崇訓らを襲撃し、武三思父子は殺害された。

710年には中宗が急死し、韋皇后が政権を握ろうとしたが、
李旦の子李隆基と太平公主が政変を起こして韋氏勢力を排除した。

李旦が睿宗として復位し、さらに712年には李隆基が玄宗となった。
713年、玄宗は太平公主の勢力を排除した。

高宗後半から武則天、韋皇后太平公主へと続いた女性皇族を中心とする宮廷政治は、
ここで一つの終わりを迎えた。

後世の評価

『旧唐書』『新唐書』『資治通鑑』はいずれも、
武則天による宗室・官僚の粛清や酷吏政治を厳しく記録している。

実際、皇后となる過程では王皇后・蕭淑妃を排除し、
長孫無忌や褚遂良ら太宗以来の重臣を失脚させた。
高宗死後には裴炎を処刑し、李宗室の反乱を鎮圧した後は多数の宗室を粛清した。
密告制度と酷吏を用いた政治によって、多くの官人が謀反罪に問われたことも否定できない。

その一方、武則天が官僚の才能を見る能力を持っていたことも、
後世の史家は必ずしも否定していない。

科挙・自薦を通じて出身にかかわらず人材を集め、
狄仁傑、姚崇、宋璟、張柬之ら後の唐政治を支える官僚を登用した。
農桑奨励、賦役軽減を掲げ、言路の拡大や官僚待遇の改善も建言している。
西域では安西四鎮を回復し、文化面では文人を集めて大規模な編纂事業を行った。

武則天が皇帝となったことを
「女性が君主となった」という儒教的秩序への逸脱として批判する記述と、
その統治能力そのものへの評価は分けて考える必要がある。

624年頃に地方官僚の娘として生まれた武則天は、十四歳で太宗の才人となり、
太宗の死後はいったん尼寺へ送られた。
そこから高宗の後宮へ戻り、昭儀、皇后、天后、皇太后へと地位を上げ、
二人の息子を皇帝に立てた後、ついには自ら皇帝となった。

705年に政変で帝位を失い、その年のうちに死去すると、
最終的には高宗の皇后として乾陵に葬られた。

武周という王朝自体は一代で終わったが、
高宗の治世中から神龍政変まで約半世紀にわたり中国政治の中心に位置したという点で、
武則天は単に「中国史上唯一の女帝」という称号だけでは捉えきれない存在である。

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中国ドラマ『武則天 -The Empress-』のあらすじと史実との違いを解説。李世民との恋愛、徐慧や韋貴妃との後宮争い、王皇后・蕭淑妃との対立など、ドラマ独自の設定と実際の歴史を比較する。

史書・参考文献

『旧唐書』巻6「則天皇后本紀」
『旧唐書』巻51「后妃上」
『旧唐書』巻191「方伎・袁天綱伝」ほか関係人物列伝
『新唐書』巻4「則天皇后本紀」
『新唐書』巻76「則天武皇后」
『新唐書』関係人物列伝
『資治通鑑』唐紀(高宗・則天后・中宗期)
『資治通鑑考異』
『唐会要』
『唐大詔令集』

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