南陽公主(なんようこうしゅ)は、隋の皇帝 煬帝の長女である。
彼女は名門宇文氏に嫁いだ皇女だったが、
隋王朝の末期、義兄の宇文化及が反乱を起こし、
ついには皇帝である煬帝を殺害するという事件が起こる。
つまり南陽公主は、父を殺した一族の家に嫁いでいた皇女だった。
さらにその後、反乱軍が滅亡した際には、夫と共に唐へ降ることになる。
隋の皇女でありながら、唐の時代を生きることになった彼女の人生は、
王朝交代の混乱を象徴するものとして知られている。
煬帝の長女として生まれる
南陽公主は隋の皇帝 煬帝の長女として生まれた。
彼女は容姿が美しいだけでなく、志が高く節操のある人物として知られていた。
どのような場面でも礼儀正しく振る舞い、皇女としての品格を備えていたという。
隋王朝は祖父である 楊堅が建国した王朝で、中国統一を達成した強大な国家だった。
父である楊広(後の煬帝)が皇帝となった時期に最盛期を迎えるが、
その治世の後半には国家の疲弊が進み、各地で反乱が起きるようになる。
南陽公主は、こうした隋王朝の栄華と崩壊の両方を経験する皇女となった。
名門将軍家との政略婚姻
南陽公主は14歳の時、隋の有力貴族である宇文氏へ嫁いだ。
宇文氏は北周以来の名門軍人の家系であり、隋王朝でも高い地位を持っていた。
夫に対しては非常に敬意をもって接し、義父・宇文述が病に倒れたときには、
公主自ら食事を作り、手ずから食べさせて看病した。
この孝行ぶりは世間の賞賛を集めたという。
夫は宇文士及、義兄は 宇文化及である。
宇文化及は隋の有力将軍の一人であり、煬帝の側近として軍を率いていた。
宇文化及の反乱
義父の宇文述が死去した後、夫の兄である 宇文化及が
江都(現在の揚州)でクーデターを起こした。
ついには皇帝である煬帝を殺害し、自ら皇帝を名乗った。
南陽公主の選択
この出来事は南陽公主にとって極めて複雑な状況を生んだ。
なぜなら
・殺されたのは父
・反乱を起こしたのは夫の一族
だったからである。
南陽公主は皇女としての立場と、妻としての立場の間で非常に難しい状況に置かれた。
宇文化及の反乱後、隋王朝は急速に崩壊していく。
その中で南陽公主は夫である宇文士及と行動を共にした。
これは父を殺した一族と共に生きるという決断でもあった。
唐王朝の成立
群雄割拠の戦乱の中で宇文化及の勢力も滅亡し、隋末の混乱は終息へ向かう。
やがて隋王朝は滅び、 李淵が唐王朝を建国する。
宇文化及の死後、南陽公主の夫 宇文士及は唐王朝へ降伏した。
唐を建国した李淵は彼を重用し、宇文士及は唐の重臣として活躍することになる。
息子の処刑
宇文化及の勢力はやがて滅び、
南陽公主は河北の群雄 竇建徳のもとに保護された。
しかし問題が起きる。
南陽公主の息子(宇文禅師)は宇文化及の孫であり、
反乱者の一族として処刑される可能性があった。
竇建徳は
公主の子は法によれば処刑されるべきだ。
忍びなければ助けてもよい。
と伝えさせた。
しかし南陽公主は涙ながらにこう答えた。
「あなたは隋の高官だったではありませんか。
そのようなことは問われるまでもありません。」
つまり、法に従って処刑すべきだと言ったのである。
こうして息子は処刑された。
夫との決別
息子の死後、南陽公主は竇建徳に願い出て出家し、尼となった。
その後、夫の 宇文士及は彼女に復縁を求めて訪れた。
しかし南陽公主は激しく拒絶する。
彼女はこう言った。
「私とあなたの家は仇敵です。
あなたが反乱に関わっていなかったのは知っています。
それでも私の手で仇を討てないのが口惜しい。」
そして
「死にたいのなら会ってもよい」
とまで言って追い返した。
宇文士及はその覚悟を聞き、深く礼をして去ったという。
南陽公主の人物像
南陽公主は
・隋の煬帝の長女
・宇文氏へ嫁いだ皇女
・王朝崩壊を経験した皇女
として知られている。
父を殺した一族の家に嫁いだ彼女の人生は、
隋王朝滅亡という大事件の中で翻弄された皇族女性の運命を象徴している。
史書・参考文献
・『隋書』列伝
・『旧唐書』宇文士及伝
・『新唐書』列伝
・『資治通鑑』隋紀・唐紀

