新城公主は、唐の第2代皇帝・太宗李世民と文徳皇后長孫氏の娘で、高宗李治の同母妹にあたる。
初め衡山公主に封じられ、太宗の名臣魏徴の子・魏叔玉との婚約が決まったものの破談となり、
その後、母方の長孫氏に属する長孫詮に嫁いだ。
しかし長孫詮は、高宗朝に長孫無忌一族が失脚した余波を受けて流刑となり、現地で殺害された。
夫を失った新城公主は韋正矩と再婚するが、龍朔3年(663)に30歳で急死する。
『新唐書』は韋正矩について「公主を遇するに礼を以てせず」と記し、
公主の急死後、高宗が三司に共同捜査を命じ、韋正矩を処刑したと伝える。
一方、『冊府元亀』に引用された薛克構の発言では、新城公主は「病によって卒した」とされており、
夫が彼女を殺害したと史料から断定することはできない。
太宗の末娘として生まれ、魏徴家との婚約、長孫氏との結婚、長孫無忌失脚、再婚、
そして夫の処刑へと、新城公主の生涯は唐初の皇族と外戚をめぐる政治の変動と深く結びついていた。
太宗と長孫皇后の娘として誕生
新城公主は貞観8年(634)に生まれたとされる。
父は唐太宗李世民、母は文徳皇后長孫氏である。
『新唐書』は新城公主を「晋陽母弟也」と記しており、
晋陽公主と同じ母から生まれた年下の妹であったことが分かる。
長孫皇后が太宗との間に生んだ子女としては、
皇太子となった李承乾、魏王李泰、後の高宗李治、長楽公主、城陽公主、晋陽公主らがおり、
新城公主はそのなかでも年少の娘だった。
母の長孫皇后は貞観10年(636)に36歳で死去しているため、新城公主は幼くして母を失っている。
同母姉の晋陽公主は母の死後、
兄の晋王李治とともに太宗自身のそばで養育されたことが『新唐書』に詳しく記されているが、
新城公主について同様の養育記事は残っていない。
ただし、後の封爵や婚姻相手を見る限り、太宗の皇女として厚い待遇を受けていたことは間違いない。
↓↓賢后で知られる長孫皇后についての個別記事は、こちら

衡山公主に封じられる
貞観16年(642)、新城公主は「衡山郡公主」に封じられた。
当時まだ幼少であったが、墓誌によれば封爵とともに湯沐邑を与えられ、
その後さらに封邑を増されている。
唐代の公主にとって湯沐邑は収入源となる封戸であり、通常は婚姻や冊封にともなって与えられた。
新城公主が幼少の段階ですでに封邑を受け、さらに増額されたことからは、
太宗の皇女として相当に手厚い扱いを受けていたことがうかがえる。
「衡山」という封号も特徴的である。
衡山は五岳の一つに数えられる名山であり、
唐代では名山・大川を封号として用いることには一定の重みがあった。
ただし、この封号だけを根拠に、
新城公主が太宗から特別に最も寵愛されていたとまで断定することはできない。
魏徴の子・魏叔玉との婚約
新城公主の最初の婚約相手は、太宗の名臣として知られる魏徴の長男・魏叔玉だった。
貞観17年(643)、魏徴は重病となる。
『新唐書』魏徴伝によれば、太宗は魏徴の病状を非常に気にかけ、
中郎将を魏徴邸に宿直させて容体を逐一報告させ、薬や食事をたびたび下賜した。
太宗自身も見舞いに訪れ、さらに皇太子を伴って再度魏徴邸を訪れている。
その際、太宗が魏徴に望みを尋ねると、魏徴は「嫠不恤緯,而憂宗周之亡」と答えた。
未亡人が自分の織物のことより周王朝の滅亡を心配したという故事を引き、
自分自身や家族ではなく国家の行く末を案じるという意味である。
太宗はこの魏徴の態度を受け、衡山公主を魏徴の子・魏叔玉に嫁がせることを決めた。
このとき公主本人も太宗に同行しており、太宗は病床の魏徴に「公、強いて新婦を視よ」と語り、
未来の嫁となる衡山公主を見るよう促したという。
魏徴はすでに返礼することもできないほど衰弱しており、その後ほどなく死去した。
皇帝の娘を功臣の嫡子に嫁がせることは、単なる私的な婚姻ではない。
太宗が長年にわたり諫言を受け入れてきた魏徴に対し、
その家との結びつきを皇族との婚姻によってさらに強めようとしたものと考えられる。
魏家との婚約破棄
ところが魏徴の死後、状況は一変した。
魏徴は生前、杜正倫や侯君集を宰相の器として推薦していたが、
杜正倫は失脚し、侯君集は皇太子李承乾の謀反事件に連座して処刑される。
さらに、魏徴が太宗への諫言の記録を史官の褚遂良に見せていたことが告発された。
太宗はこれを知って魏徴への不快感を強めた。
『新唐書』魏徴伝は、太宗が魏徴に対する疑念を深めた結果、
「叔玉の婚を停め」、自ら建てた魏徴の碑まで倒したと記している。
すなわち、衡山公主と魏叔玉の婚約は破棄された。
太宗は後の高句麗遠征で苦戦した際、
「魏徴が生きていれば、朕にこの遠征をさせただろうか」と後悔し、
魏徴の墓碑を再び建てさせている。
しかし衡山公主と魏叔玉との婚約が復活することはなかった。
新城公主の最初の婚姻話は、本人同士の事情ではなく、
父帝と魏徴との政治的関係の変化によって消滅したことになる。
長孫詮との婚姻
魏叔玉との婚約が破談となった後、新たな夫として選ばれたのが長孫詮だった。
長孫詮は長孫操の子であり、長孫操は長孫皇后と同族であるため、
新城公主にとって長孫詮は母方の一族に属する男性だった。
『旧唐書』長孫操伝によれば、貞観23年(649)、
長孫操は「子の詮が太宗の娘新城公主を尚した」ことによって岐州刺史に任じられている。
長孫氏はすでに皇室と何重もの姻戚関係を持っており、
長孫皇后自身が太宗の皇后、その兄長孫無忌は太宗政権の重臣であり、
さらに太宗と長孫皇后の娘・長楽公主も長孫無忌の子長孫沖に嫁いでいた。
新城公主と長孫詮の婚姻も、李唐皇室と長孫氏の強い結びつきの延長に位置づけられる。
太宗の死と婚礼延期
新城公主と長孫詮との婚姻準備が進められていた貞観23年(649)5月、太宗が死去した。
このため、公主の婚礼は予定通りには行われなかった。
高宗として即位した李治は、新城公主の同母兄にあたる。
永徽元年(650)、高宗は衡山公主を長孫氏へ嫁がせようとし、
その年の秋に婚礼を行う方針を立てたが、侍中の于志寧がこれに反対した。
『唐会要』によれば、当時は皇帝の死後一定期間を過ぎれば公的な喪服を解除する制度があり、
高宗側には公除の後なら婚姻を行ってもよいという考えがあった。
これに対して于志寧は『礼記』を引用し、
父を亡くした娘は三年の喪を終えてから嫁ぐべきだと主張した。
たとえ形式上喪服を脱いでも、父に対する「心喪」まで終わるわけではなく、
その期間中に婚礼を行えば礼にも人情にも反するというのである。
高宗はこの意見を受け入れた。その結果、新城公主の婚礼は太宗の三年の喪が明けるまで延期された。
皇帝の実妹という立場であっても、婚姻をめぐって儒教的な服喪規定が問題となり、
宰相級の官僚が皇帝の意向を制止した例としても興味深い。
新城長公主への改封
永徽3年(652)、太宗の服喪期間が終わるころ、衡山公主は「新城長公主」に改封された。
父の在世中には衡山公主だったが、兄李治が皇帝となったことで、
皇帝の姉妹にあたる「長公主」の地位となった。
墓誌などによれば、このとき封邑も増されている。
婚礼も正式に行われ、新城公主は長孫詮の妻となった。
墓誌は二人の婚姻について琴瑟の調和を用いた表現を記しており、
少なくとも新城公主の死後に作成された公式の墓誌では、
二人の夫婦関係は円満なものとして描かれている。
ただし、墓誌は死者を称揚する性格を持つ史料であるため、
そこに書かれた夫婦関係をそのまま私生活の実態とみなすことはできない。
子女については、確実な記録が確認できない。
長孫氏の失脚と夫・長孫詮の死
長孫無忌の失脚
新城公主の結婚生活を大きく変えたのが、顕慶4年(659)の長孫無忌失脚事件だった。
長孫無忌は文徳皇后の兄で、高宗李治と新城公主にとって母方の伯父にあたる。
長孫無忌は太宗の即位以前から李世民を支え、玄武門の変にも参加した最側近の一人であり、
太宗の死後には高宗を補佐する重臣となっていた。
しかし高宗が王皇后を廃して武昭儀、後の武則天を皇后に立てようとすると、
長孫無忌はこれに反対した。
最終的に武后擁立は実現し、長孫無忌の政治的立場は急速に悪化する。
顕慶4年、許敬宗らによって謀反との関係を告発された長孫無忌は、
爵位と官職を剥奪されて黔州へ流され、後に自殺へ追い込まれた。
粛清は長孫無忌本人だけでは終わらず、その親族や姻戚にまで及んだ。
↓↓王皇后の悲惨な最期と、武則天の立后についての個別記事は、こちら


長孫詮の流刑と殺害
新城公主の夫・長孫詮も、この長孫氏粛清に巻き込まれた。
『旧唐書』によれば、長孫詮は尚衣奉御にまで昇進しており、
さらに長孫詮の姉は、高宗朝の宰相韓瑗の妻だった。
韓瑗も武昭儀の皇后冊立に反対した人物であり、褚遂良らとともに政界から追放されている。
『旧唐書』は韓瑗の事件が長孫詮にも波及し、長孫詮は死罪を一等減じられて巂州へ流されたとする。
『新唐書』長孫無忌伝は、さらに厳しい結末を伝えている。
長孫無忌が罪を得ると長孫詮も巂州へ流され、「有司、旨を希いてこれを殺す」と記す。
すなわち、担当官が朝廷の意向を忖度し、流刑地で長孫詮を殺害したというのである。
新城公主はこうして最初の夫を政治的粛清によって失った。
彼女自身は長孫氏の血を母方から引いていたが、
高宗の同母妹であるため粛清の対象とはならなかった。
墓誌には、夫が罪人となった以上、外面的には朝廷の大義に従った一方、
内心では夫への節操を失わず、化粧をやめるなど喪失を深く悲しんだことを示す文章が残る。
墓誌特有の修辞を含むため、そのまま事実として読むことはできないが、
長孫詮の死が新城公主の生涯における重要な転機として扱われていたことは分かる。
甥・趙持満にも粛清が及ぶ
長孫詮の失脚は、さらに親族へ波及した。
長孫詮には趙持満という甥がおり、『新唐書』によれば、趙持満は書をよくし、
騎射に優れ、虎と格闘するほどの力を持ち、走って馬を追うことさえできたという。
また性格は仁厚で、身分の低い者にも礼を尽くしたため、
長安では身分の上下を問わず人々から慕われていた。
涼州長史となった後には、野馬を追って矢を射込み、辺境の人々から畏敬されたという逸話も残る。
ところが長孫詮が流刑となると、許敬宗は趙持満の能力を恐れ、
将来自分に復讐するのではないかと警戒した。
趙持満は都へ召還され、獄に入れられた。
拷問を受けても顔色を変えず、「身は殺すべし、辞は枉ぐべからず」と述べ、
自分の命は奪えても虚偽の供述をさせることはできないと抵抗したという。
最終的に役人が勝手に供述書を作り、趙持満は獄中で死亡した。
新城公主本人を直接扱った逸話ではないものの、
夫長孫詮が巻き込まれた粛清の規模を示す出来事である。
韋正矩との再婚
長孫詮を失った後、新城公主は再婚した。
二人目の夫となったのが韋正矩であり、史料によっては韋政挙とも表記される。
韋正矩は京兆韋氏の出身で、父は韋慶嗣だった。
新城公主の再婚には、異母姉の東陽公主が関わっていたとされる。
『新唐書』東陽公主伝は、後に韋正矩が処刑された際、
東陽公主も「婚家」に関与した責任を問われて集州へ流されたと記している。
この記述から、東陽公主が韋正矩との婚姻成立に何らかの役割を果たしたことが分かる。
韋正矩は公主との婚姻後、奉冕大夫となった。
しかし『新唐書』は二人の夫婦関係について「主を遇するに礼を以てせず」と記している。
すなわち韋正矩は、新城公主を礼にかなった方法で遇しなかったということになる。
ただし、この「遇主不以礼」が具体的に何を意味したのかは記されていない。
現代ではしばしば「新城公主は韋正矩の家庭内暴力によって死亡した」と説明されるが、
正史本文に殴打や殺害を直接記した文章は存在しない。
龍朔2年、観音寺を建立
新城公主の死の前年にあたる龍朔2年(662)、彼女の名は寺院建立の記事にも現れる。
『唐会要』によれば、長安新昌坊には隋代の廃寺である霊感寺があり、
新城公主がこれを再興して「観音寺」とした。
この寺は後の景雲2年(711)に青龍寺へ改称される。
新城公主がどのような理由で観音寺を建立したのかについて、『唐会要』は詳しく説明していない。
後世には公主自身の病気平癒を願ったものと解釈されることもあるが、
同時代史料からその目的を断定することはできない。
少なくとも死の直前期にも、新城公主が仏教寺院の建立に関与していたことは確認できる。
新城公主の急死と韋正矩の処刑
龍朔3年、30歳で死去
龍朔3年(663)、新城公主は死去した。墓誌によれば享年30である。
『新唐書』はその死を「俄而主暴薨」と表現する。「暴薨」は突然の死を意味する。
直前に韋正矩について「遇主不以礼」と記したうえで公主の急死を続けているため、
『新唐書』の文章構成からは、夫婦関係に何らかの問題があり、
それが公主の死と疑われたことが読み取れる。
ただし、『新唐書』は韋正矩が公主を殺害したとは記していない。
この点は、新城公主の死因を考えるうえで重要である。
高宗、韋正矩を取り調べる
同母妹の突然の死を知った高宗は、直ちに事件として調査させた。
『新唐書』によれば、高宗は「三司雑治」を命じた。
三司とは一般に刑部・御史台・大理寺など司法を担当する複数機関を指し、
重要事件について合同で審理を行わせる措置だった。
韋正矩は取り調べを受けたが、「正矩、弁ずること能わず」とされ、最終的に処刑された。
この記録だけを読むと、高宗は妹の死に夫韋正矩が関与したと判断したように見える。
さらに韋正矩との婚姻成立に関与した東陽公主も処分され、
『新唐書』東陽公主伝によれば、
韋正矩の処刑後、東陽公主は婚姻を取り持ったことに連座して集州へ追放された。
高宗が単に妹の葬儀を行っただけではなく、夫を処刑し、仲介者だった姉まで処分したことから、
新城公主の死を重大な問題として受け止めていたことは確かである。
新城公主は韋正矩に殺されたのか
新城公主の最期については、史料を分けて考える必要がある。
『新唐書』は、韋正矩が公主を礼にかなった形で遇しなかったこと、ほどなく公主が急死したこと、
高宗が三司に調査させたこと、韋正矩が弁明できず処刑されたことを順に記している。
これだけなら、韋正矩が公主の死に関与した疑いが非常に強かったように読める。
しかし、別の伝承も残る。
『冊府元亀』に記録された薛克構の発言では、
新城公主について「吾聞新城以病而卒、夫子受其戮辱」と語ったとされる。
「私は、新城公主は病によって死に、夫はそのために処刑という辱めを受けたと聞いている」
という意味になる。
薛克構は太平公主と薛紹の婚姻を論じるなかで、
皇女を妻に迎える危険性を説明する例として新城公主を挙げた。
この発言が事実を正確に伝えているとは限らないが、
新城公主と比較的時代の近い人物の認識として
「病死だった」という伝承が存在したことは無視できない。
したがって、新城公主について「韋正矩に虐待されて殺害された」と断定するのは適切ではない。
史料から確認できるのは、夫婦関係に問題があったと『新唐書』が伝えていること、
公主が急死したこと、高宗が夫を取り調べた末に処刑したこと、
そして別系統には病死だったという伝承も存在することまでである。
新城公主の死後
「娶婦得公主、平地買官府」
新城公主の死後、この事件は唐代の皇女との結婚の危険性を示す事例として語られるようになった。
薛克構の逸話には、「娶婦得公主、平地買官府」という当時の俗諺も記されている。
「妻として公主を娶ることは、平地に役所を買い込むようなものだ」という意味で、
皇女を妻に迎えれば家庭内にも皇帝権力が入り込むという恐れを表した言葉である。
唐代の公主は一般の妻とは身分が大きく異なり、
夫や夫の家族より高い政治的・儀礼的地位を持つ場合があった。
夫婦間の争いが起きても単なる家庭内の問題では済まず、皇帝や朝廷が介入する可能性がある。
韋正矩の事件は、まさにその象徴として後世に記憶された。
ただし薛克構の発言自体には、皇族女性に対する否定的な価値判断が含まれている。
新城公主本人の人格を客観的に記録したものではなく、
唐代男性官僚側から見た「公主を娶ることへの恐れ」を示す史料として読む必要がある。
皇后の礼で葬られる
新城公主の死後、高宗は通常の公主を超える葬礼を命じた。
『新唐書』は「皇后の礼を以て昭陵の旁らに葬る」と明記している。
墓誌にも、高宗が妹の死を深く悲しみ、
通常の制度を超えて葬事を皇后の礼に準じさせるという詔が記されている。
ここでいう「皇后礼」は、新城公主を死後皇后にしたという意味ではなく、
あくまで葬儀の待遇を皇后に準じたものを指す。
新城公主は父太宗の陵墓である昭陵の陪葬墓に葬られた。
昭陵には皇族、后妃、功臣など多数の陪葬墓が築かれており、新城公主墓もその一つである。
新城公主墓
新城公主墓は現在の陝西省礼泉県にある昭陵陪葬墓群の一つで、考古学的な発掘調査も行われている。墓からは墓誌のほか、多数の壁画が確認された。
唐代皇族墓に特徴的な侍女、儀仗、出行などを描いた壁画があり、
初唐の宮廷女性の服飾や儀礼を知るうえでも重要な資料となっている。
一方、壁画の人物の顔などが意図的に損傷されたとみられる部分も確認されている。
これを新城公主の死後、高宗が侍女たちに怒りを向けて破壊させたものと説明する俗説もあるが、
そのような命令を記録した同時代史料は確認できない。
墓葬の損傷と新城公主の死を直接結びつけることは避けるべきである。
韋正矩の死後
韋正矩は新城公主の死に伴う取り調べによって処刑された。
一方、後世の金石資料には韋正矩の墓碑が存在したことが記録されており、
韋正矩が後に新城公主と合葬されたとする説もある。
ただし、これをもって高宗が後に韋正矩の無実を認めたと断定することはできない。
「処刑後に冤罪が判明し、高宗が悔いて合葬させた」という物語は
現代の紹介文でしばしば語られるが、
少なくとも『旧唐書』『新唐書』の新城公主関係記事には、そのような経緯は記されていない。
確実に言えるのは、新城公主の急死を契機として韋正矩が処刑され、
その事件が後代まで「公主を娶る危険性」の例として記憶されたということである。
子女
新城公主と長孫詮、あるいは韋正矩との間に生まれた子女について、
正史には明確な記録が残されていない。
新城公主の人生では二度の婚姻が大きく扱われる一方、
子どもについての記述はほぼ見えず、子女がいなかったのか、
存在しても記録から脱落したのかは不明である。
人物評・評価
新城公主本人の性格を具体的に描いた正史の記事は多くない。
同母姉の晋陽公主については、幼少期の性格、父太宗との会話、
兄李治との関係などが詳しく記録されているのに対し、
新城公主について『新唐書』が直接伝えるのは、二度の婚姻と急死をめぐる記事が中心である。
したがって、新城公主を「気性の激しい公主」「夫を支配した皇女」「虐待された悲劇の公主」など、
単純な人物像へまとめることは難しい。
墓誌は彼女を「柔順」などの語で称え、長孫詮との婚姻では婦徳を備えた女性として描いているが、
墓誌は死者を称揚するための文章であり、それをそのまま性格評価として採用することもできない。
より重要なのは、新城公主の生涯が太宗・高宗二代の政治と極めて密接に結びついていた点である。
最初の婚約相手魏叔玉との結婚は、父太宗と魏徴との関係によって決まり、
同じく太宗と魏徴との関係悪化によって破談となった。
次の夫長孫詮との婚姻は、李唐皇室と長孫氏の強固な姻戚関係のなかで成立したが、
高宗と武后の時代に長孫無忌一族が排除されると、長孫詮もその余波で殺された。
さらに再婚相手韋正矩との関係も、新城公主自身の急死を機に皇帝権力が介入し、
夫の処刑へ発展した。
皇帝の娘という最高位に近い女性でありながら、
その婚姻は常に皇帝と功臣・外戚・名門家との政治的関係に左右されていたのである。
まとめ
新城公主は、唐太宗李世民と文徳皇后長孫氏の娘として生まれ、初め衡山公主に封じられた。
太宗の名臣魏徴が病に倒れると、その子魏叔玉との婚約が決まったが、
魏徴の死後に太宗が魏徴への不信を強めたことで破談となった。
その後は母方の長孫氏に属する長孫詮との婚姻が決まったものの、太宗の死によって婚礼が延期され、
高宗李治の即位後も于志寧の諫言によって三年の服喪を終えるまで待つことになった。
永徽3年には新城長公主に改封され、長孫詮との婚姻が正式に成立した。
しかし顕慶4年、長孫無忌一族への粛清が始まると長孫詮も連座して巂州へ流され、現地で殺害された。新城公主はその後、韋正矩と再婚した。
『新唐書』は韋正矩が公主を「礼を以て遇さなかった」と伝え、
龍朔3年に新城公主が突然死すると、高宗は三司に捜査を命じて韋正矩を処刑した。
ただし、新城公主が韋正矩に殺害されたと明記する史料はなく、
『冊府元亀』には病死だったという異なる伝承も残るため、死因については断定を避ける必要がある。
新城公主の死を深く悼んだ高宗は、通常の公主を超えて皇后に準じる礼で葬儀を行わせ、
父太宗の昭陵の近くに葬った。
魏徴家との婚約、長孫氏との婚姻、長孫無忌失脚、韋正矩処刑という彼女の生涯をたどると、
皇女の結婚が単なる家庭の問題ではなく、
皇帝と功臣・外戚・名門家との政治関係そのものであったことが見えてくる。
史書・参考文献
・『旧唐書』巻七十一「魏徴伝」
・『旧唐書』巻六十二「長孫操伝」
・『新唐書』巻八十三「諸帝公主伝」
・『新唐書』巻九十七「魏徴伝」
・『唐会要』巻六「公主」
・『冊府元亀』
・『大唐故新城長公主墓誌銘』
・『唐昭陵新城長公主墓発掘簡報』
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