【前漢】中行説|漢を裏切り匈奴に帰順した“災いの宦官”

前漢の宦官 中行説 037.宦官

中行説(ちゅうこうえつ)は、
前漢の文帝に仕えながら匈奴へ渡り、そのまま老上単于に降った宦官である。

もとはから匈奴へ嫁ぐ宗室の女性に付き従う役目を命じられたが、
本人は派遣を強く拒み、「必ず私がの災いとなるだろう」と言い残した。
そして匈奴に到着すると、その言葉どおり単于に帰順し、
で得た知識を利用して匈奴を支える側へ回った。

しかし、中行説を単なる「を裏切った宦官」と見るだけでは、その特異な存在は捉えきれない。
彼はの絹や食物を好む老上単于に対して、の物資への依存が匈奴の自立を失わせると警告し、
人口や家畜を記録する方法を教え、との外交文書の形式まで改めさせた。

またの使者と匈奴の風俗をめぐって論争し、
の価値観によって匈奴を見下すことに真正面から反論している。

『史記』『漢書』に残された記録から、
中行説がなぜから匈奴へ転じ、単于の側近として何を行ったのかをたどる。

中行説とは

中行説は燕の出身で、前漢の文帝に仕えた宦官だった。
生年や家族、どのような経緯で宦官となったのかについては史書に記録がなく、
文帝の宮廷でどのような職務を担っていたのかも分からない。

中行説が歴史上に姿を現すのは、匈奴の老上単于が即位した時である。
『史記』「匈奴列伝」と『漢書』「匈奴伝」によれば、
文帝は宗室の女性を老上単于の閼氏として送り、中行説にその傅、すなわち付き添い役を命じた。

は高祖劉邦の時代から、皇族の女性を単于へ嫁がせ、
絹・酒・食物などを贈ることで匈奴との和平を維持する和親政策を採っていた。

ただし実際に単于へ嫁いだ女性は皇帝の実の娘とは限らず、
この時も史書では「宗人の女を翁主として」送ったと記されている。

匈奴への派遣を拒んだ中行説

中行説はこの命令を喜ばなかった。
史書は「説、行くを欲せず」と明記しており、朝廷が強制的に行かせたとする。

そこで中行説は、「必ず我をして行かしめば、の災いとなるだろう」という趣旨の言葉を残した。
自分をどうしても匈奴へ行かせるのであれば、やがてに災いをもたらす者になるという宣言である。

なぜ中行説がこれほど匈奴行きを嫌ったのかについて、史書は理由を説明していない。
遠い異域へ送られることへの反発だったのか、帰国の見込みが薄い任務だったためなのか、
それ以外の事情があったのかは分からない。
したがって、「匈奴への派遣を強制されたことへの恨みからを裏切った」と考えることはできても、
その心理を詳しく断定することはできない。

匈奴へ到着すると老上単于に帰順

中行説は宗室の女性に随行して匈奴へ向かったが、到着するとを離れ、そのまま老上単于に降った。
『史記』は簡潔に、「中行説既に至り、因りて単于に降る。単于甚だ之を親幸す」と記している。

老上単于は中行説を側近として重用した。
中行説はの宮廷に仕えていた人物であり、
の政治制度、外交、物資、社会、軍事上の事情を知っていた。

その知識は、長年と対立してきた匈奴にとって利用価値が高かったと考えられる。

ここから中行説は、宦官ではなく、匈奴の単于に仕える人物として行動していく。

漢の物資への依存を警戒する

当時、老上単于をはじめとする匈奴の人々は、
からもたらされる絹織物や綿、食物などを好んでいた。

中行説はこれを危険視した。
彼は単于に対し、匈奴の人口はの一郡にも及ばないにもかかわらず強さを保っているのは、
衣食の習慣がとは異なり、に依存せずに生活できるからだと説いた。

ところが単于が匈奴本来の風俗を変えての品物を好むようになれば、
漢が持つ物資のごく一部を用いるだけで匈奴全体を従わせることができるようになるというのである。

そこで中行説は、から絹や綿を得たなら、それを着て草や茨の中を馬で走り回り、
衣服が破れるところを見せれば、匈奴の毛皮の衣の方が丈夫であることが分かると語った。
またの食物を得ても捨て、
匈奴が日常的に口にする乳製品の方が自分たちの生活に適していることを示すよう勧めた。

これは単純に「からの贈り物を拒否せよ」という主張ではない。
中行説が警戒していたのは、の物資そのものよりも、
それを好むことで匈奴がなしでは生活できなくなることであった。

の和親政策には、軍事衝突を避けるだけでなく、
継続的に物資を与えることで匈奴との関係を維持する側面があった。
中行説は、その関係がやがて匈奴をへの経済的依存へ導く可能性を見抜き、
匈奴固有の生活様式を維持するよう主張したのである。

匈奴の統治と外交を変えた中行説

中行説が行ったことは、製品への警告だけではなかった。
『史記』『漢書』は、彼が匈奴の統治や対外交にも具体的な影響を与えたことを記している。

人口と家畜を記録させる

中行説は単于の側近に「疏記」を教え、匈奴の人口や家畜の数を計算して把握させた。

匈奴は遊牧を主体とする社会であり、人口と家畜は軍事力や経済力を考えるうえで重要だった。
中行説がどこまで体系的な行政制度を導入したのかまでは史書から分からないが、
少なくとも人口や家畜を数量として記録・把握する方法を伝えたことは記されている。

そのため、「匈奴の行政制度を全面的に改革した」とまで評価するのは行き過ぎだが、
で用いられていた文書や計数の知識を単于の側近に伝え、
統治能力の向上に関与した人物
と見ることはできる。

漢より大きな外交文書を作らせる

中行説は、外交文書にも手を加えた。

が単于へ送る書簡には一尺一寸の木簡が用いられ、
「皇帝、匈奴の大単于に敬して無恙を問う」という形式が使われていた。

これに対し、中行説は単于がへ送る文書には一尺二寸の木簡を使わせ、
印章や封泥ものものより大きくするよう指示した。さらに書き出しを、
「天地の生ずる所、日月の置く所、匈奴大単于、皇帝に敬して無恙を問う」
という尊大な形式に改めさせた。

わずか一寸の違いであっても、ここには皇帝より単于が下位にあるとは認めない意思が表れていた。
中行説はの外交儀礼を知っていたからこそ、その形式を逆手に取り、匈奴がと対等、
あるいはそれ以上の存在であることを文書の大きさや文言によって示そうとしたのである。

漢使と匈奴の風俗をめぐって論争する

中行説の人物像が最もよく表れているのが、から来た使者との論争である。

使の中には、匈奴の習俗を中原の礼儀に照らして野蛮だと批判する者がいた。
中行説は、かつての宮廷にいた人物でありながら、
こうした批判に対して匈奴側から徹底的に反論した。

「匈奴は老人を軽んじている」への反論

ある使が「匈奴の風俗は老人を軽んじている」と批判すると、
中行説はの軍役を持ち出して反論した。

でも、辺境の守備や従軍に出る者がいれば、
その父母や家族は自分たちの暖かい衣服や良い食物を分け与えて送り出すではないかと問い、
使者にそれを認めさせた。

そのうえで中行説は、匈奴は戦闘を生活の重要な部分としているため、戦えない老人や弱者よりも、
戦える壮健な者に良い食物を与えるのであり、それによって父子双方を守っているのだと説明した。

これは老人そのものを侮蔑しているのではなく、
戦闘を前提とする社会における資源配分なのだという論理である。

父や兄の妻を娶る風習を擁護

使はさらに、匈奴では父が死ぬと後妻を子が娶り、
兄弟が死ぬとその妻を別の兄弟が娶ることを挙げ、「冠帯の節も朝廷の礼もない」と非難した。

これに対して中行説は、匈奴が家族内の寡婦を娶るのは、
一族の血統が途絶えるのを防ぐためだと反論した。

そしてでは表面上こうした婚姻を行わないものの、親族関係が疎遠になり、互いに殺し合い、
ついには王朝そのものが別姓へ交替することさえあるではないかと批判した。

さらに中行説は、が重視する礼義も行き過ぎれば上下の怨みを生み、
豪華な住居を建てることは民衆の労力を疲弊させると主張した。
農耕や養蚕に力を費やし、城郭を築いて自衛する人は、
緊急時には戦闘に慣れておらず、平時には労働に疲れているというのである。

この論争からは、中行説が単純にを罵倒していたわけではなく、
と匈奴では生活環境も社会の仕組みも異なる以上、
の礼制だけを基準に匈奴を評価することはできないという論理を組み立てていた
ことが分かる。

漢への強硬姿勢と匈奴の侵入

使との論争が続くと、中行説はやがてまともに応酬することさえやめた。

使が議論を仕掛けると、中行説は「多くを語る必要はない」と退け、
が匈奴へ送る絹や綿、米などを、約束した数量どおり良質なものにしておけばよいと告げた。

そして、もしから送られる品物の量や品質が十分でなければ、
「秋の穀物が実った時に、騎兵を走らせてその作物を踏みにじる」という趣旨の言葉で威嚇した。

『史記』は続けて、中行説が「日夜、単于に利害の処を候うことを教えた」と記している。
具体的な作戦のすべてが記録されているわけではないが、の情勢を見極め、
いつどのように動くことが匈奴に有利なのかを単于へ教えていた
ことがうかがえる。

文帝十四年、十四万騎が漢領へ侵入

紀元前166年、文帝十四年、匈奴は十四万騎という大軍で朝那・蕭関方面から領へ侵入した。

匈奴軍は北地都尉を殺し、多数の住民や家畜を奪い、彭陽にまで達した。
さらに騎兵を送り込んで回中宮を焼き、その偵察騎兵は雍の甘泉付近にまで迫った。

長安にも危機が及びかねない状況となり、文帝は周舎、張武らを将軍として大軍を配置し、
辺境だけでなく長安周辺にも軍を展開して匈奴に備えた。

ただし、この侵攻そのものを
「中行説が計画した」「中行説の進言によって起きた」と史書が明記しているわけではない。

『史記』『漢書』では、中行説が単于にの利害を日夜教えていたという記述に続いて
大規模侵入が記されるため、彼が対政策に深く関わっていたことは確かだが、
個々の軍事行動をすべて中行説の指示によるものと断定することはできない。

その後もと匈奴は侵入と和親を繰り返した。
中行説が匈奴に仕えた時代は、が圧倒的な軍事力によって匈奴を屈服させる以前であり、
両者は互いに相手を警戒しながら国境を挟んで対峙していた。

老上単于の死後も軍臣単于に仕える

紀元前160年ごろ、老上単于が死去すると、その子の軍臣単于が即位した。

中行説は老上単于だけに仕えたわけではない。
『史記』は軍臣単于の即位後について「中行説復た之に事う」と明記しており、
引き続き新しい単于に仕えた。

も軍臣単于との間で和親を続けたが、その後再び関係は悪化し、
匈奴軍が上郡・雲中へそれぞれ三万騎を送り込む大規模な侵入も起こった。

一方、中行説自身がいつまで軍臣単于に仕えたのか、
いつどこで死んだのかについては史書に記録がない。
彼の生涯は、軍臣単于に仕えたことを最後に史書から姿を消す。

中行説は単なる「裏切り者」だったのか

中行説は、王朝の側から見れば明白な裏切り者である。
の命令で匈奴へ派遣されながら、到着すると直ちに単于へ降り、
で得た知識を新しい主人のために利用した。
さらに使を論破し、からの物資への依存を避けるよう説き、
単于に対漢政策上の利害を教え続けた。

しかし、『史記』や『漢書』を読むと、
中行説の役割は「匈奴に侵攻を勧めた宦官」という一言では収まらない。

彼が重視したのは、匈奴がと同じ社会になることではなく、
とは異なる生活様式を維持することだった。人口では圧倒的にが優位である以上、
匈奴がの衣食や価値観を受け入れ、物資を漢に依存するようになれば、
その強さを失うと考えていた。

その一方で、記録や計数、外交文書といったの技術については積極的に利用している。
の文化を全面的に否定したのではなく、匈奴に有用なものは採り入れ、
依存につながるものは拒むという姿勢だったと見ることができる。

また、使との論争で匈奴の婚姻習俗や壮健な者を重視する社会を擁護したことも注目される。
かつてに属していた中行説が、の「礼義」を絶対的な基準とはせず、
遊牧社会には遊牧社会なりの合理性があると主張しているからである。

もちろん、それは中行説が中立的な文化比較を行っていたということではない。
すでに単于に帰順した彼は明確に匈奴側の人間として発言しており、への敵意も隠していない。
それでも彼の発言は、農耕国家であると遊牧国家である匈奴の社会構造の違いを
史書の中で際立たせるものとなっている。

まとめ

中行説は、前漢の文帝に仕えた燕出身の宦官だった。
老上単于へ嫁ぐ宗室の女性の随行を命じられると強く反発し、
「自分を行かせればの災いになる」と宣言したうえで、匈奴に到着すると実際に単于へ帰順した。

その後は老上単于の側近となり、の絹や食物を好むことがへの依存につながると警告した一方、
人口や家畜を記録する方法、外交文書の形式など、匈奴に有用なの知識を伝えた。

また使が匈奴の風俗を批判すると、
遊牧生活と戦闘を基盤とする社会には漢とは異なる合理性があると反論し、
逆に漢の礼義や農耕社会が抱える問題を批判した。

中行説が匈奴のすべての対侵攻を指揮したわけではなく、史書にもそこまでの記述はない。
しかし、彼が単于の側近として「日夜」との利害を教えていたことは明記されており、
政策に重要な役割を担ったことは間違いない。

老上単于の死後も、その子の軍臣単于に仕えたが、その後の消息や没年は分かっていない。

から見れば、中行説は自国を裏切り、敵国に知識を与えた異例の宦官だった。
一方、匈奴側から見れば、の強みと弱みを知り、
その文化に取り込まれずに自立を維持する方法を説いた有用な助言者だったことになる。

中行説の存在は、前漢と匈奴の対立が単なる軍事力の争いではなく、
物資、生活様式、外交儀礼、価値観までを含む競争だったことを示している。

史書・参考文献

・司馬遷『史記』巻110「匈奴列伝」
・班固『漢書』巻94上「匈奴伝上」

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