張賀(ちょうが)は、前漢の武帝の皇太子・劉拠に仕え、
巫蠱の獄に連座して宮刑を受けたのち、掖庭令となった人物である。
父は武帝期の有力官僚として知られる張湯、弟は昭帝・宣帝の時代に重臣となった張安世で、
名門の出身だった。
張賀の名が後世に残った最大の理由は、
かつて仕えた劉拠の孫である劉病已を掖庭で保護したことにある。
劉病已は巫蠱の獄によって一族の多くを失い、幼くして孤児となったが、
張賀は私財を投じてその生活と教育を支え、成長すると許平君との結婚まで取り計らった。
張賀は劉病已が皇帝となる姿を見ることなく世を去った。
しかし劉病已が宣帝として即位すると、幼少期に受けた恩を忘れず、張賀の墓に墓守を置き、
養子の張彭祖を侯に封じ、張賀自身にも「陽都哀侯」の諡を贈っている。
政治権力を握った宦官ではなく、皇統から外れかけた一人の少年を支え続け、
その少年がのちに前漢を代表する皇帝となったことで歴史に名を残した人物である。
張賀とは
張賀は、京兆尹杜陵を本貫とする張氏の出身で、
父は武帝に仕えた張湯、弟はのちに昭帝・宣帝を支えた張安世である。
張湯は廷尉や御史大夫を歴任し、武帝のもとで厳格な法の運用を担ったことで知られる。
その家に生まれた張賀も宮廷に入り、武帝の皇太子であった劉拠に仕えた。
『漢書』「張湯伝」は、張賀について「衛太子に幸せらる」と記している。
ここでいう衛太子とは、武帝と衛子夫の子である劉拠を指す。
張賀は単なる末端の官吏ではなく、皇太子から信任された近しい側近の一人だった。
しかし、この関係が張賀の人生を大きく変えることになる。
↓↓皇太子・劉拠の母衛子夫にについての個別記事は、こちら

巫蠱の獄と劉拠の死
武帝晩年の紀元前91年、巫蠱の獄が起こった。
皇太子劉拠は、武帝の側近である江充らによって巫蠱を行ったとの疑いをかけられ、
追い詰められた末に長安で兵を挙げた。
戦いに敗れた劉拠は長安を脱出したが、ほどなく自害した。
皇太子に仕えていた者たちにも厳しい処罰が及び、
『漢書』は「太子敗れ、賓客皆誅せらる」と記している。
張賀も本来であれば処刑される立場だった。
しかし弟の張安世が兄のために上書して助命を願った結果、死刑を免れ、「蚕室に下され」た。
蚕室とは宮刑を受けた者を収容する場所を指し、張賀はここで宮刑を受けて宦官となった。
皇太子の側近として将来を期待されていた張賀は、
劉拠の失脚とともに地位を失い、身体に刑を受けることになったのである。
掖庭令となり劉病已を保護する
宮刑を受けた張賀は、その後も宮廷から完全に排除されたわけではなかった。
やがて掖庭令となり、後宮に属する掖庭を管理する立場に就いた。
そこで張賀が出会ったのが、かつての主人・劉拠の孫である劉病已だった。
一族を失った皇曾孫
劉病已は劉拠の孫で、父は史皇孫劉進、母は王翁須である。
巫蠱の獄が起きた時にはまだ生後数か月にすぎなかったが、皇太子一族の一員として獄につながれた。
この幼児を救った人物としてまず重要なのが丙吉である。
当時、巫蠱事件の処理に関わっていた丙吉は幼い劉病已を哀れみ、
女性囚人の胡組と郭徴卿らに養育させた。
武帝晩年には長安の獄中に「天子の気」があるとの話を受けて囚人を皆殺しにする命令が出されたが、
丙吉が使者を獄へ入れなかったため、劉病已は命を保った。
その後大赦を受け、いったん祖母・史良娣の実家である史氏のもとへ送られたのち、
朝廷の命令によって掖庭で養育されることになった。
宗正にも皇族として籍が登録され、皇曾孫として生きることを許されたのである。
この時、掖庭令を務めていたのが張賀だった。
『漢書』は、張賀がかつて仕えた劉拠について「無辜」であったことを内心悲しみ、
その孫まで孤児となっていることを憐れんだと記している。
そのため劉病已を手厚く養育し、非常に深い愛情を注いだ。
張賀にとって劉病已は、単なる掖庭で養育される皇族ではなかった。
自分自身も巫蠱の獄によって人生を大きく変えられ、
その事件で失った主人の血を引く唯一の幼い曾孫だったのである。
私財を使って教育を受けさせる
張賀は劉病已の衣食を世話するだけではなかった。
『漢書』「宣帝紀」は、張賀が「私銭を以て供給し、書を教えた」と記しており、
自分の財産を使って劉病已の生活と教育を支えていたことが分かる。
また「張湯伝」には、成長した劉病已に書を学ばせ、『詩』を受けさせたことが記されている。
ただし、張賀自身が『詩経』を直接教授したという意味ではない。
『宣帝紀』によれば、劉病已は東海出身の澓中翁から『詩』を学んでいる。
張賀は教育の機会を整え、その費用を支えた保護者として見るのが正確である。
劉病已は高い資質を持ち、学問を好んだ一方で、若い頃には遊侠を好み、闘鶏や乗馬にも親しんだ。
長安や三輔各地を歩き回ったため、庶民の暮らしだけでなく、
地方官吏の統治の実態や社会の問題にも触れることになった。
こうした経験は後の宣帝の政治にも影響したと考えられているが、
張賀が宣帝の「人格を作った」とまで断定する必要はない。
史書から確実に言えるのは、
皇族として十分な後ろ盾を持たなかった少年に生活と教育の基盤を与えたこと、
その役割を宣帝自身が後年きわめて高く評価していたことである。
劉病已の才能を認めた張賀
成長するにつれて、張賀は劉病已の資質を高く評価するようになった。
『漢書』には、劉病已の身の周囲にたびたび不思議な兆候が現れたとの記述がある。
眠っている時に身体の周囲が光った、餅を買うとその店が繁盛した、といった話である。
こうした逸話を史実そのものとして扱う必要はないが、
後に皇帝となる人物に前兆を結びつける帝王伝説として『宣帝紀』に収められている。
張賀もこうした話を知り、弟の張安世に劉病已の優れた資質をたびたび語った。
ところが張安世は、兄の話をその都度制止した。
当時皇帝だったのは若い昭帝であり、張安世は大将軍霍光のもとで政権を支える重臣だった。
衛太子劉拠の子孫である劉病已を過度に称賛することは、
別の皇位候補を持ち上げる行為と受け取られかねない。
張安世が劉病已を嫌っていたというより、政治的に危険な話題だったのである。
のちに宣帝となった劉病已自身も、この判断を理解していた。
即位後、宣帝は張安世に対して、張賀が自分を日頃から褒めていた時に
張安世がそれを止めたことについて「正しかった」と語っている。
張賀が劉病已を評価する一方、張安世はその才能を公に語ることの危険性を理解していた。
兄弟の対応は対照的だが、どちらも当時の皇曾孫が
きわめて微妙な立場に置かれていたことを示している。
許平君との結婚を取り計らう
張賀が劉病已に与えた影響の中でも特に大きかったのが、その結婚を取り計らったことである。
成長した劉病已には皇曾孫という血筋があったものの、
巫蠱の獄で一族を失い、政治的にはほとんど後ろ盾を持たない立場だった。
張賀は当初、自分の孫娘を劉病已に嫁がせようと考えた。
張安世が婚姻に反対
しかし、この計画を知った弟の張安世は激しく反対した。
『漢書』「外戚伝」によれば、張安世は、劉病已は衛太子の子孫であり、
庶人として朝廷から衣食を与えられているだけでも十分なのだから、
それ以上の話をしてはならないという趣旨の言葉を述べた。
張安世は昭帝政権の中枢にいる人物だった。
自分の一族と衛太子の子孫を婚姻で結びつければ、
張氏が劉病已を政治的に支援していると疑われる危険があった。
そのため張賀も、自分の孫娘との婚姻は断念した。
許広漢の娘・許平君を妻に迎える
そこで張賀が目をつけたのが、同じ掖庭にいた許広漢の娘・許平君だった。
許広漢も宮刑を受けた人物で、当時は暴室嗇夫を務めていた。
娘の許平君は十四、五歳ほどで、もともと別の男性と結婚する予定だったが、
婚姻直前に相手が死亡していた。
張賀は許広漢と酒を飲んだ席で、劉病已について
「皇曾孫はたとえ高貴になることがなくても、関内侯にはなることができるだろう」
といった趣旨で説得し、許平君との婚姻を勧めた。
最終的に許広漢もこれを受け入れ、劉病已と許平君は夫婦となった。
張賀は自分の家財から婚礼の費用を出している。
劉病已と許平君の間には、のちの元帝となる劉奭が生まれた。
張賀自身は将来を知り得なかったが、
自ら取り計らった婚姻が結果として前漢の皇統へつながることになった。
許平君は劉病已が宣帝として即位すると皇后となったが、
霍光の妻・霍顕の意向を受けた女医の淳于衍によって毒殺される。
その後、宣帝は霍氏を滅ぼし、劉奭を皇太子として立てた。
張賀が結びつけた二人の子が、次の皇帝となったのである。
↓↓許平君の父で、元帝(劉奭)の外祖父・許広漢についての個別記事は、こちら

宣帝即位を見ることなく死去
張賀は、劉病已が皇帝になる前に亡くなった。正確な没年は『漢書』に記されていない。
紀元前74年、昭帝が後継者を残さず死去すると、霍光らは昌邑王劉賀を皇帝として迎えた。
しかし劉賀はわずか二十七日で廃位され、その後継として選ばれたのが劉病已だった。
皇曾孫として掖庭で育った少年は、こうして宣帝となった。
張賀はその即位を見ることができなかったが、宣帝は幼少期から受けた恩を忘れていなかった。
「私は掖庭令のために行う」
宣帝は即位後、張賀の恩に報いようとした。
『漢書』「張湯伝」によれば、宣帝はまず張賀の墓を「恩徳侯」として封じ、
墓を守る二百家を置こうと考えた。
しかし弟の張安世は、自分たち張氏一族がすでに高位にあり、
さらに兄まで厚遇されることを恐れ、これを強く辞退した。
また墓守の戸数についても削減を願い出たため、最終的には三十家まで減らされた。
それでも宣帝は、「私は掖庭令のためにしているのであって、将軍のためにしているのではない」
という趣旨の言葉を張安世に告げた。
宣帝が張氏一族全体への政治的な恩賞としてではなく、
あくまで張賀個人から受けた恩に報いようとしていたことを示す言葉である。
宣帝は墓守を置く場所まで自ら決めた。
その場所は、宣帝が若い頃に遊んでいた斗鶏翁の家の近くにあったという。
陽都哀侯を追贈
さらに翌年、宣帝は改めて張賀ら自分が不遇だった時代に恩を受けた人々を顕彰した。
詔の中で宣帝は、かつて自分が身分も力もない時代に、張賀が自分を導き、文学や経術を学ばせ、
その恩恵は卓越しており、功績は大きかったと述べている。
そして『詩』の「徳として報いざるなし」という趣旨の句を引き、
張賀が養子としていた張彭祖を陽都侯に封じ、張賀には「陽都哀侯」の諡を追贈した。
張彭祖は弟・張安世の末子である。
張賀には実子がいたものの早くに亡くなっていたため、張彭祖を養子としていた。
彭祖は幼い頃に劉病已と同じ席で学んだ人物でもあり、
宣帝はまず彼に関内侯の爵位を与え、のちに陽都侯へ進めた。
また、張賀には実子が残した孫の張霸もいた。
当時わずか七歳だった張霸も散騎・中郎将に任じられ、関内侯となって三百戸を与えられた。
張賀本人は生前に宣帝即位の恩恵を受けることはなかったが、
宣帝はその子孫や養子を厚く遇することによって恩に報いたのである。
張賀は宣帝に何を残したのか
張賀は政治改革を行った人物でも、大軍を率いた武将でもない。
掖庭令としての職務を越えて劉病已を支えたことによって歴史に名を残した。
巫蠱の獄によって張賀自身も宮刑を受け、仕えていた劉拠も命を失った。
その張賀が、同じ事件によって家族を失った劉拠の孫を掖庭で見つけ、
私財を使って養い、学問を受けさせ、成人後には婚姻まで整えた。
ただし、張賀一人が宣帝を「守り育てた」と考えると、宣帝の幼少期を単純化しすぎる。
乳児だった劉病已を獄中で保護して命を救った最大の功労者は丙吉であり、
胡組らの女性囚人が乳母として養育した。
その後には祖母の実家である史氏が引き取り、さらに掖庭へ移された後に張賀が保護した。
宣帝の生存と成長には複数の人物が関わっている。
その中で張賀が特に重要なのは、単に命を守っただけではなく、
劉病已が成長して社会へ出ていくための基盤を作った点にある。
教育を受けさせ、生活を支え、妻を迎えるところまで世話をした。
そして皇位から遠いと思われていた少年の資質を認め、周囲に語っていた。
宣帝自身も、張賀の役割を「輔導」「文学経術を修む」「恩恵卓異」と表現している。
後世の評価ではなく、実際にその保護を受けた皇帝本人が
張賀の教育と恩を明確に認めている点が重要である。
また張賀は、後漢以降に見られるような皇帝の側近として権力を独占した宦官とは性格が異なる。
宮刑によって宦官となった人物であり、その立場を利用して政治権力を握ったという記録もない。
むしろ張賀の生涯には、巫蠱の獄によって破壊された二つの人生が再び交わったという側面がある。
皇太子劉拠に仕えたため宮刑を受けた張賀と、
劉拠の孫として生まれたため乳児のうちから獄につながれた劉病已。
その二人が掖庭で出会い、張賀がかつての主人への思いをその孫へ向けた。
張賀は宣帝の即位を見ることなく死んだが、宣帝は皇帝となった後もその恩を忘れなかった。
墓守を置き、養子と孫を厚遇し、最後には侯の諡まで贈った事実は、
張賀が若き日の宣帝にとってどれほど重要な存在だったのかを示している。
まとめ
張賀は、武帝期を代表する官僚・張湯の子として生まれ、皇太子劉拠の側近となった。
しかし紀元前91年の巫蠱の獄で劉拠が敗死すると、張賀も連座し、
弟・張安世の嘆願によって死刑を免れたものの宮刑を受けた。
その後、掖庭令となった張賀は、掖庭で養育されることになった劉拠の孫・劉病已を保護した。
かつての主人が無実のまま死んだことを悲しみ、その孫が孤児となったことを憐れんだ張賀は、
私財を使って生活を支え、教育を受けさせた。
成長後には許広漢の娘・許平君との結婚を取り計らい、その費用も負担した。
この夫婦から生まれた劉奭は、のちに元帝となる。
張賀は劉病已の才能を高く評価していたが、弟の張安世は昭帝が在位している以上、
衛太子の子孫を称賛することは危険だとして兄を制止した。
張賀自身は宣帝即位を見ることなく亡くなったが、皇帝となった劉病已はその恩を生涯忘れなかった。
宣帝は張賀の墓に墓守を置き、養子の張彭祖を陽都侯に封じ、孫の張霸も厚遇し、
張賀自身には「陽都哀侯」の諡を追贈した。
張賀を単に「善良な宦官」と分類するだけでは、その人物像は十分に捉えられない。
彼自身も巫蠱の獄の犠牲者であり、その事件で滅びかけた劉拠の血統を引く少年を支えた人物だった。
張賀が保護した少年が宣帝となり、その子が元帝として皇位を継いだことを考えれば、
張賀の行動は結果として前漢皇統のその後にも大きく関わることになったのである。
史書・参考文献
・班固『漢書』巻8「宣帝紀」
・班固『漢書』巻59「張湯伝」
・班固『漢書』巻97上「外戚伝上・孝宣許皇后」
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