南朝宋とは?劉氏家系図と自壊王朝の実態

皇帝一覧・家系図

南北朝時代の南朝の国。首都は建康。
周代の諸侯国の宋や趙匡胤が建てたなどと区別するために、
帝室の姓を冠し劉宋(りゅうそう)とも呼ばれる。

魏晋南北朝は、王朝の分裂・推移が激しいため、以下略図にて補足する。

魏晋南北朝。王朝の分裂・推移図
王朝の分裂・推移図

南朝宋:略家系図

南朝宋劉氏家系図
南朝宋劉氏家系図

南朝宋(420–479):皇帝一覧

 代 廟号諡号名前(諱)生年-没年
(没年齢)
在位ー退位
(年齢)
 在位期間 
高祖武皇帝劉裕りゅう・ゆう363ー422
(60歳)
420ー422
(58歳ー60歳)
約2年
なし少帝劉義符りゅう・ぎふ406ー424
(19歳)
422ー424
(16歳ー18歳)
約2年
太祖文皇帝劉義隆りゅう・ぎりゅう407ー453
(47歳)
424ー453
(17歳ー46歳)
約29年
なし元凶
(※廟号なし) 
劉劭りゅう・しょう426ー453
(28歳)
453
(27歳)
数ヶ月
世祖孝武皇帝劉駿りゅう・しゅん430ー464
(35歳)
453ー464
(23歳ー34歳)
約11年
なし前廃帝劉子業りゅう・しぎょう449ー465
(17歳)
464ー465
(15歳ー16歳)
約1年
太宗明皇帝劉彧りゅう・いく439ー472
(34歳)
465ー472
(26歳ー33歳)
約7年
なし後廃帝劉昱りゅう・いく463ー477
(15歳)
472ー477
(9歳ー14歳)
約5年
なし順皇帝劉準りゅう・じゅん
467ー479
(13歳)
477ー479
(10歳ー12歳)
約2年

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劉裕(武皇帝)|建国者

・劉裕は貧しい家に生まれ、東晋の軍人として孫恩の乱などで軍功を重ねて頭角を現した。
 桓玄が東晋から帝位を奪うと404年に挙兵してこれを打倒し、
 安帝を復位させたことで政権の実権を握った。
・その後は国内の政敵を抑える一方、南燕を滅ぼし、さらに後秦への北伐では洛陽・長安を奪回した。
 長安はのちに失われたものの、南朝から北方へ大きく勢力を伸ばした劉裕の軍事的成功は、
 南朝諸帝の中でも際立っている。
・軍事的成功を背景に相国・宋王へと昇り、420年、東晋の恭帝から禅譲を受けて即位した。
 ここに約100年続いた東晋は滅亡し、南朝最初の王朝である宋(劉宋)が成立した。
・劉裕は門閥貴族が大きな力を持った東晋の政治秩序を受け継ぎながらも、
 軍事力を基盤とする新たな皇帝権力を築いた。しかし422年、即位からわずか2年余りで崩御。
 後を継いだ少帝劉義符は若く、劉裕が後事を託した重臣たちが実権を握ったため、
 その死後まもなく皇位をめぐる政争が始まった。

劉義符(少帝)|重臣に廃された若き皇帝

・①劉裕(宋武帝)の長男。16歳で即位。
・父の死後、徐羨之・傅亮・謝晦ら重臣が朝政を主導した。
 少帝は遊興にふけり政務を顧みなかったと史書に記され、重臣たちとの関係も悪化した。
・徐羨之らはまず少帝の弟・劉義真を排除し、424年には少帝自身も廃位して営陽王に降格した。
 少帝はその後まもなく殺害され、代わって弟の劉義隆(文帝)が擁立された。

③劉義隆(文帝)|「元嘉の治」を築いた長期政権

・少帝劉義符の廃位後、弟の③劉義隆(文帝)が擁立された。
 当初は徐羨之・傅亮・謝晦ら重臣が政権を主導したが、
 文帝は即位後まもなく彼らを排除し、皇帝親政の体制を確立した。
約30年に及ぶ治世は「元嘉の治」と呼ばれ、農業生産や財政の安定、官僚政治の整備が進み、
 劉宋は南朝初期の安定期を迎えた。

 文化・学問も栄え、范曄が『後漢書』を編纂したのもこの時代である。
・一方、軍事面では問題も残した。
 北魏への備えを理由に名将・檀道済を警戒し、436年に処刑したことは、
 劉宋の軍事力にとって大きな損失となった。
・北魏に対してはたびたび北伐を行ったものの、決定的な成果を得ることはできなかった。
 特に450年の大規模な北伐は北魏の反撃を招き、太武帝率いる軍が長江北岸まで南下。
 江北地域は大きな被害を受け、「元嘉の治」で築かれた劉宋の国力にも打撃を与えた。

<主な実績>
・長期政権による国内政治の安定
・農業生産の回復と財政基盤の整備
・官僚制度の運用と人材登用
・学問・文化が発展する政治的環境を形成

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劉劭|父殺しの簒奪者

・③劉義隆(文帝)の皇太子。弟の始興王・劉濬とともに巫蠱によって父を呪詛したことが発覚し、
 文帝は劉劭の廃太子と劉濬の処分を検討するようになった。
・これを察知した劉劭は453年、先手を打って宮中を襲撃し、
 父③劉義隆(文帝)を殺害して自ら皇帝に即位した。
・しかし即位直後、弟の武陵王・劉駿(後の④孝武帝)が討伐の兵を挙げた
 劉劭の政権はわずか数か月で崩壊し、捕らえられて処刑された
 その遺体は焼かれ、灰を長江に投じられたと『宋書』は伝える。

④劉駿(孝武帝)|皇帝権力の強化と皇族粛清

・父③劉義隆(文帝)を殺害して即位した劉劭に対して挙兵し、453年に建康を攻略。
 劉劭を処刑して皇帝に即位した。
・即位後は中央への権力集中を進め、寒門出身者を側近や実務官僚として登用することで、
 門閥貴族や地方に強大な軍事力を持つ皇族を牽制した。
・一方で、有力皇族への警戒を強め、叔父の劉義宣や弟の劉誕らを相次いで排除した。
 こうした皇族粛清は皇帝権力を強めた反面、劉宋皇室内部の対立をさらに深刻化させた。
・治世後半には奢侈や大規模な造営によって財政負担が増大した。
 孝武帝の治世は中央集権化を進めた時期であると同時に、
 皇族間の相互不信と粛清が常態化していく転換期でもあった。

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⑤劉子業(前廃帝)|最悪クラスの暴君

・④劉駿(孝武帝)の息子で、劉楚玉の弟。
・464年、父の死によって即位したが、まだ少年であり、
 自らの地位を脅かしかねない有力な皇族を強く警戒した。
 叔父の劉義恭を殺害するなど粛清を進め、近親者であっても容赦なく排除した。
・特に叔父の湘東王劉彧らを宮中に拘束し、
 その肥満した体格を理由に「猪王」などと呼んで侮辱したと『宋書』は伝える。
 皇族を殺害するだけでなく、屈辱を与えて服従させることで、自らへの反抗を抑えようとした。
残虐な処刑や殺人を見世物として楽しんだという記事も多く、
 臣下や宮中の人々を恐怖によって支配した。
 また姉の山陰公主劉楚玉に多数の男性を与えたという逸話など、
 宮廷の伝統的な規範を逸脱した行動が『宋書』に数多く記録されている。
・こうした統治によって皇族や側近からも恐れられるようになり、
 465年、劉子業が叔父の劉彧(のちの⑥明帝)を殺害しようとしていることを知った側近らが
 先に動いた。劉子業は宮中で殺害され、在位約1年でその治世を終えた。
・その後、叔父の劉彧が⑥明帝として即位する。
 しかし劉子業の死によって皇族間の殺し合いが終わったわけではなく、
 ⑥劉彧(明帝)と④劉駿(孝武帝)の子供たちとの間でさらに激しい皇位争いが続き、
 劉宋皇族の弱体化は一段と進んでいった。

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⑥劉彧(明帝)|内戦と宗室粛清

・③文帝の子で、⑤劉子業(前廃帝)の叔父。
 前廃帝のもとでは肥満した体格から「猪王」と呼ばれ、宮中に拘束されてたびたび侮辱を受けた。
 殺害されかねない状況に置かれていたが、465年に前廃帝が側近らによって殺害されると、
 その後を受けて皇帝に即位した。
・しかし即位直後、④劉駿(孝武帝)の子・劉子勛も尋陽で皇帝を称した。
 各地の刺史や皇族の多くが劉子勛を支持したため、劉宋を二分する大規模な内戦に発展したが、
 ⑥劉彧(明帝)側が勝利し、劉子勛は殺害された。
・皇位を確立した⑥劉彧(明帝)は、その後も④劉駿(孝武帝)の子らを潜在的な脅威として警戒し、
 相次いで処刑した。④劉駿(孝武帝)には多数の男子がいたが、
 前廃帝期から明帝期にかけてその多くが殺害され、
 劉駿(孝武帝)の男子の系統はほぼ一掃された。
・この大規模な宗室粛清によって⑥劉彧(明帝)自身の皇位は守られたが、
 劉宋皇室は自ら有力な皇族を失うことになった。
 また内戦に乗じて北魏が淮北へ進出し、劉宋は北方の広大な領土を失った。
 ⑥劉彧(明帝)の治世は、皇族の大量粛清と領土喪失によって
 王朝の基盤が大きく弱まった時期でもある。
・『宋書』には、⑥劉彧(明帝)が肥満によって性的能力を失っていたため、
 諸王や側近の女性を利用して生まれた男子を自らの皇子としたという記事もある。
 ただし、これは明帝の皇子たちの出生をめぐる史書上の逸話であり、
 そのまま事実と断定することはできない。

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⑦劉昱(後廃帝)|殺戮を繰り返した少年皇帝

・⑥劉彧(明帝)の長男。472年、父の死によって9歳で即位した。
 当初は重臣たちが政権を支えたが、桂陽王劉休範の反乱などが相次ぎ、
 その鎮圧を通じて将軍蕭道成が急速に力を伸ばした。
・成長すると自ら武器を持って夜間や市中を徘徊し、人を理由なく殺害したと『宋書』は伝える。
 殺人を行わない日には不満を示し、側近や臣下にも気まぐれに危害を加えるなど、
 その残虐な行動は宮廷内でも制御できなくなっていった。
・やがて実力者となった蕭道成にも矛先を向けた。
 蕭道成の腹を射的の標的にしようとしたという逸話まで残されており、
 蕭道成自身も生命の危険を感じる状況となった。
・477年、後廃帝は側近によって宮中で殺害された。
 その背後では蕭道成が動いており、後廃帝の死後、弟の劉準(順帝)が擁立された。
 しかし実権はすでに蕭道成の手に移り、劉宋は滅亡へ向かうことになる。

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⑧劉準(順皇帝)|劉宋最後の皇帝

・⑥劉彧(明帝)の子。
 477年、⑦劉昱(後廃帝)が殺害されると、
 実権を握った蕭道成によって幼くして皇帝に擁立された。
・しかし政治の実権は完全に蕭道成の手にあり、順帝は名目上の皇帝にすぎなかった。
 各地では蕭道成に反対する勢力が挙兵したが、これらも鎮圧され、
 蕭道成による王朝交代を阻止できる勢力は失われていった。
479年、順帝は蕭道成に帝位を禅譲し、ここに約60年続いた劉宋は滅亡。
 蕭道成南朝斉を建国して高帝となった。

・退位した順帝は汝陰王に封じられたが、その後まもなく殺害された。
 『南史』などには、退位に際して「後世、生まれ変わっても帝王の家には生まれたくない」
 という趣旨の言葉を残したと伝えられる。
 父や兄弟、叔父・従兄弟らが皇位をめぐって殺し合った
 劉宋皇室の末路を象徴する言葉として知られている。

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順帝(劉準)の最期|「帝王の家に生まれたくない」と泣いた少年皇帝の結末

王朝らしさ:

皇族同士の殺し合い → 皇位をめぐる内戦 → 宗室の大量粛清 → 幼帝の続出 → 軍人・蕭道成の台頭 → 禅譲

キーワード

<親子・兄弟間の殺し合い> 
 ・父殺し(劉劭)
 ・兄弟殺し
 ・叔父殺し
 ・宗族粛清(劉彧

<皇位継承の不安定さ>
 ・廃位
 ・クーデター
 ・僭称皇帝

空気感

 ・猜疑心、皇族同士の殺し合い
 ・倫理崩壊、性的逸脱
 ・残虐趣味

物語性

<皇族の暴走>
 ・劉子業:残虐趣味、性的逸脱
 ・劉楚玉:倫理崩壊
 ・劉昱幼帝の残虐趣味

崩壊パターン

「内部崩壊により → 宋内の有力部将 蕭道成しょうどうせいに禅譲を迫られる」

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