02.妃賓

鄭皇貴妃|万暦帝の寵妃と国本問題・梃撃の案をめぐる皇位継承争い

鄭皇貴妃(てい こうきひ/孝寧太后)は明の万暦帝に寵愛され、皇三子・朱常洵を産んだ后妃。皇長子・朱常洛の立太子をめぐる国本問題では、息子を皇位に就けようとしたと批判された。三王並封案、二度の妖書案、皇太子襲撃事件「梃撃の案」、泰昌帝急死をめぐる紅丸の案、移宮の案との関係、南明の弘光帝による孝寧太皇太后への追尊まで、その生涯と疑惑の実態をたどる。
031.皇帝

朱載坖(隆慶帝)|隆慶新政・隆慶開関・俺答封貢で明朝中興の礎を築いた皇帝

隆慶帝・朱載坖(しゅさいき)は、明の第13代皇帝として嘉靖帝の死後に即位し、6年間の治世で政治と対外政策の転換を進めた。皇子の相次ぐ夭折や景王との後継者問題を経て皇位を継ぎ、徐階・高拱・張居正らを重用して隆慶新政を推進。海禁を緩和した隆慶開関によって民間の海外貿易を認め、北方では俺答汗との和平と封貢関係を成立させた。戚継光による北辺防衛、後宮と万暦帝への皇位継承、36歳での崩御まで、その治世を紹介する。
037.宦官

劉瑾|正徳帝に寵愛された「八虎」筆頭の宦官と専権政治・凌遅刑の最期

劉瑾(りゅうきん)明の正徳帝に仕え、宦官集団「八虎」の筆頭として朝廷の実権を握った。皇太子時代から朱厚照に近侍し、即位後は劉健・謝遷ら重臣を追放して司礼監を掌握。官僚人事や財政に介入し、内行廠を設置して東廠・西廠の関係者まで監視するなど、強権的な政治を進めた。罰米の徴収や賄賂によって巨額の財産を蓄えたが、1510年の安化王の乱を機に楊一清と張永が排除を画策。謀反の疑いで逮捕され、凌遅刑に処された。
031.皇帝

朱厚㷖(正徳帝)|豹房・劉瑾の専横・応州の戦い・寧王の乱と波乱の生涯

正徳帝(朱厚㷖/しゅこうしょう)は明の第11代皇帝。弘治帝の跡を継いで即位したが、宦官劉瑾ら八虎の専横を許し、豹房での遊興や女性関係で朝臣の反発を招いた。一方、劉瑾を処刑し、自ら朱寿を名乗ってモンゴル軍と戦うなど、軍事には積極的だった。寧王の乱では王陽明が反乱を鎮圧した後も南征を続け、落水事故後に病死。実子を残さず、皇位は嘉靖帝へ移った。
031.皇帝

朱祐樘(弘治帝)|「弘治中興」を築いた明朝中期の皇帝

弘治帝・朱祐樘(しゅゆうとう)は、明朝第9代皇帝として18年間統治し、「弘治中興」と呼ばれる政治の安定を実現した。万貴妃が権勢を握る後宮で出生を隠され、母の紀氏を幼くして失いながら皇太子となった。即位後は宦官・梁芳や万安らを排除し、劉健・李東陽・謝遷らを重用して朝政を立て直した。張皇后以外に妃嬪を置かなかったとされる私生活、息子・正徳帝への皇位継承まで紹介する。
037.宦官

汪直|成化帝の西廠を率いた宦官の権勢と失脚・北辺遠征

汪直(おうちょく)は明の成化帝に重用された宦官。万貴妃に仕えた後、1477年に設置された西廠の長官となり、錦衣衛を使って官僚の逮捕や拷問を進めた。商輅らによる弾劾、西廠の廃止と復活、王越と結んだモンゴル遠征、東廠の尚銘との対立、1482年の失脚まで、その権勢と政治的影響をたどる。
02.妃賓

万貴妃|成化帝の19歳年上の寵妃と皇后廃位・皇位継承をめぐる暗闘

万貴妃(ばんきひ)は明の成化帝に寵愛された19歳年上の妃。呉皇后の廃位、皇子の夭折、妃嬪への堕胎強要や弘治帝暗殺未遂の疑惑など、後宮での権力争いに深く関わった。皇子を密かに育てた張敏と呉氏、宦官や外戚との結託、万貴妃の死後に一族が受けた処分まで、史実と伝承を区別してたどる。
031.皇帝

朱見深(成化帝)|土木の変と奪門の変という大混乱の中で成長した皇帝

成化帝(朱見深/しゅけんしん)は、明朝第8代皇帝として23年間在位した。土木の変で父の英宗が捕虜となり、皇太子の地位を奪われた幼少期を経て即位。于謙の名誉を回復し、荊襄流民の反乱や北方の女真勢力への対応を進めた。一方、年上の万貴妃を寵愛し、宦官・汪直に西廠を監督させて官僚への監視を強め、道士の李孜省らも重用した。紀氏が産んだ朱祐樘の出生と養育、弘治帝への皇位継承まで、その治世をたどる。
中国語

【中国の省・省都一覧】地図つき(ピンイン・声調付き)直轄市/自治区/特別行政区まとめ

中国の地図を見ながら、それぞれ日本語・中国語(ピンイン・4声)ではどのように言うのか、地区毎にまとめました。中国の一級行政区には、22省(除く 台湾)・5自治区・4直轄市・2特別行政区(計34)があります。中国の地理(山脈、高原など)についても載せています。
037.宦官

曹吉祥|奪門の変で英宗を復位させ、曹欽の乱で一族とともに滅んだ宦官

曹吉祥(そうきっしょう)は明代の宦官で、王振の配下として麓川征討や鄧茂七の乱の鎮圧に従軍し、奪門の変では石亨・徐有貞らと結んで英宗を復位させた。司礼監と京軍を掌握し、養子の曹欽ら一族を重用したが、言官への弾圧や人事への介入によって皇帝の警戒を招いた。石亨の失脚後、曹欽と反乱を企て、計画の発覚によって一族とともに滅亡した。