欒巴|儒者のように善政を行い、外戚の暴政を諫めて死んだ“異色の宦官”

後漢の宦官 欒巴 024.宦官

欒巴は後漢の順帝〜桓帝〜霊帝期に生きた宦官で、
宦官でありながら儒学を好み、地方太守として善政を行い、
外戚の暴政を諫めた人物。

その清廉さと実直さは、後漢宦官の中でも極めて異例である。

最終的には、外戚・梁氏の専横を諫めたことで投獄され、
霊帝期に復権しかけるも、竇武・陳蕃の誅殺後に連座して自殺した。

欒巴とは

  • 若い頃から道学(儒学・道術)を好む

  • 順帝期:黄門令に任じられるが宦官仲間と交わらず

  • その後、桂陽太守・豫章太守・沛国相など地方官として善政

  • 洛陽に召還され尚書に昇進

  • 梁太后の暴政を諫めて投獄

  • 霊帝即位で復権するが、竇武・陳蕃の誅殺後に連座し自殺

若年期:儒学を好み、俗事を嫌った“異色の宦官”

宦官でありながら儒者の気質

欒巴は若い頃から道学(儒学・道術)を好み、俗事を嫌ったとされる。
政治においても正しい道を守ることを重視していたため、
宦官の政治介入に対して強い批判を持っていたとされている。

これは後漢宦官としては非常に珍しい。

順帝期に黄門令となるが、宦官仲間と交わらず、実直で孤高の人物だった。

男性の特徴が現れたため辞職を願う

宦官でありながら、後年「男性的特徴が現れた」とされ、
辞職を願い出たが、逆に才能を買われて郎中に抜擢された。

桂陽太守としての善政:婚姻・葬礼の整備、学校設立、官吏教育

南方の未開地域で教化を進める

桂陽郡は南方で儒教的教化が弱かった。 欒巴はここで

 ・婚姻・葬儀の礼を整備
 ・学校を建てて教育を普及
 ・官吏に読み書きを教え、試験で昇進させる

という、儒者のような善政を行った。

7年間の太守任期で治績を挙げ、荊州刺史・李固が朝廷に推薦した。

洛陽での活躍:尚書として外戚の暴政を諫める

順帝の死後、陵墓造営で民墓が破壊される

順帝の陵墓(憲陵)造営の際、 周囲の民衆の墓が多数破壊された。

欒巴はこれを諫め、「民の墓を壊すのは不義である」 と上書した。

梁太后の怒りを買い、投獄される

当時、朝政を握っていたのは梁太后(梁妠)。
欒巴の諫言は「朝政批判」とされ、投獄・禁錮となった。

霊帝期:竇武・陳蕃の誅殺に連座し、自殺

霊帝即位で復権

168年、霊帝が即位すると、
大将軍・竇武、太傅・陳蕃が政権を握り、
欒巴は議郎として復帰した。

宦官側の反撃で竇武・陳蕃が誅殺

しかし、曹節・王甫ら宦官勢力が反撃し、
竇武・陳蕃は殺害される。

欒巴は“竇武派”として左遷される

欒巴は永昌太守に左遷されるが、病と称して赴任せず、
竇武・陳蕃の冤罪を訴える上書を行った。

霊帝は激怒し、廷尉に送致。 欒巴は自殺した。

人物像と逸話:神通力を持つ“仙人宦官”

後漢書には、欒巴の不思議な逸話が多数記録されている。

  • 成都の火災を“酒の雨”で消した

  • 大風の日に忽然と姿を消し、成都の親に別れを告げて戻った

  • 妖怪を鎮め、巫覡を裁いた

これらは「仙人伝」にも記録され、 “仙人のような宦官”として語られた。

歴史的評価

宦官としては極めて異例の“清廉・善政型”

欒巴は

  • 宦官でありながら儒者のような善政

  • 外戚の暴政を諫める勇気

  • 妖怪退治などの怪異鎮圧

  • 最後は正義を貫いて自死

という、後漢史でも稀有な人物。

宦官政治の腐敗とは無縁の存在

曹節・王甫・十常侍らとは全く異なり、
宦官政治の腐敗とは距離を置いた“異端の宦官だった。

関連リンク

後漢王朝の皇帝家系図と一覧|光武帝から献帝まで

中国の宦官とは?歴史・制度・役割・有名宦官をわかりやすく解説【東廠/西廠/錦衣衛】

曹節|霊帝を操り、後漢の宦官政治を決定づけた実質的な主導者