中国史

01.皇后

【隋】独孤伽羅|隋の建国を支え「二聖」と称された文献皇后

独孤伽羅(どっこから/独孤皇后)は北周の重臣・独孤信の娘として生まれ、14歳で楊堅に嫁ぎ、隋建国後に皇后となった女性である。文帝と政治を論じ「二聖」と称された一方、夫に他の女性との子を持たせず、寵愛した尉遅氏をめぐる激しい逸話も残る。皇太子楊勇を嫌い、晋王楊広を支持したことは隋の皇位継承にも影響した。夫婦の誓いから政治参加、楊広が皇太子となるまでを詳しく解説する。
03.公主

【南朝宋】劉楚玉|「三十人の面首」で知られる山陰公主

劉楚玉(りゅうそぎょく)は南朝宋の孝武帝劉駿の娘で、前廃帝劉子業の同母姉にあたる山陰公主である。何戢と結婚したが、弟に男女の不公平を訴え、30人の面首を与えられたと史書は伝える。さらに褚淵を求めた逸話でも知られ、劉子業殺害後の465年、明帝劉彧の命で賜死となった。その生涯と史書が描く実像を詳しく解説する。
01.皇后

【唐】韋皇后|中宗と流謫を耐え、唐隆の変に倒れた「第二の武則天」

韋皇后(いこうごう)は唐中宗・李顕の皇后で、武則天による夫の廃位と房州流謫をともに経験した。中宗復位後は安楽公主・武三思・上官婉児らと宮廷政治に深く関与し、李重俊の反乱を経て権勢を拡大。中宗急死後に温王李重茂を擁立したが、710年に李隆基と太平公主が起こした唐隆政変で殺害された。中宗毒殺説を含む生涯と実像を詳しく解説する。
03.公主

【北周】楊麗華|北周最後の皇后となり隋の楽平公主として生きた生涯

楊麗華(ようれいか)は楊堅と独孤伽羅の長女で、北周宣帝・宇文贇の皇后となった女性である。夫から死を命じられかけるが母の嘆願で助かり、宣帝の死後には父・楊堅が北周の実権を掌握。581年に父が隋を建国すると楽平公主となったが、北周を奪った父の行動を喜ばなかったと史書は伝える。娘・宇文娥英への愛情や李敏との婚姻、煬帝時代まで生きたその生涯を詳しく解説する。
01.皇后

【隋】蕭皇后|隋煬帝の皇后、亡国後も各地を流転した南朝皇族の女性

蕭皇后(しょうこうごう)は後梁皇族に生まれ、晋王・楊広の妃を経て隋煬帝の皇后となった女性である。618年に江都の政変で煬帝を失うと、宇文化及、竇建徳の勢力下を経て東突厥へ渡り、孫の楊政道らと暮らした。630年に李靖の東突厥征服によって唐へ帰還し、長安で晩年を過ごした後、煬帝と合葬されるまでの数奇な生涯を詳しく解説する。
03.公主

【北宋】趙福金|靖康の変で運命を翻弄された徽宗の娘

趙福金(ちょうふくきん)は、北宋の徽宗と明達皇后劉氏の娘で、茂徳帝姫の称号を持つ皇女。宰相蔡京の子・蔡鞗に嫁いだが、1127年の靖康の変で金軍に引き渡され、完顔宗望のもとへ送られた。宗望の死後は完顔希尹に引き取られ、1128年8月、その陣営で死去した。美貌を理由に金側から指名された経緯、宋朝廷による引き渡し、捕虜となった皇族女性の境遇と短い生涯をたどる。
01.皇后

【西晋】賈南風|司馬遹廃殺による「八王の乱」の引き金

賈南風(かなんぷう)は賈充の娘で、西晋恵帝・司馬衷の皇后として朝廷の実権を握った。楊駿一族の粛清、司馬亮・司馬瑋をめぐる政変、張華らを登用した賈氏政権、皇太子司馬遹の廃位と殺害、趙王司馬倫の政変による失脚と賜死、八王の乱へ至る政治過程まで、『晋書』『資治通鑑』をもとに生涯を詳しく解説する。
01.皇后

【唐】長孫皇后|唐太宗を支えた「賢后」とその実像

長孫皇后は唐太宗・李世民の皇后で、長孫無忌の妹にあたる。玄武門の変で将兵を慰労し、皇后となった後は外戚である兄の重用を戒め、魏徴を擁護するなど太宗を諫めた。質素を重んじた宮廷生活、『女則』の編纂、36歳で迎えた最期まで、『旧唐書』『新唐書』をもとにその生涯と人物像を詳しく解説する。
04.美女

【春秋】西施|越王勾践と呉王夫差を巡る春秋時代の中国四大美女伝説

西施(せいし)は春秋時代の越の美女で、中国四大美女の一人である。会稽の敗戦後、越王勾践が呉王夫差へ送った美女として語られ、范蠡や文種の復讐策、呉滅亡と結びつけられた。史料から見る実在性、美人計の成立、范蠡と五湖へ去った説と沈江説、「沈魚」や東施の故事まで、生涯と後世の伝説を詳しく解説する。
04.美女

息嬀|楚文王に奪われた息国の夫人「桃花夫人」の生涯と伝説

息嬀(そくぎ)は春秋時代の息侯の夫人で、楚文王に国を滅ぼされ、妻として迎えられた女性。蔡哀侯の無礼から始まった息侯の報復、楚軍による息国滅亡、楚文王との間に生まれた堵敖と楚成王、二人の夫に仕えた苦悩と沈黙の逸話、王維や杜牧の詩に描かれた「桃花夫人」の伝説まで、史実と後世の創作を交えて紹介する。