北周とは?宇文氏家系図と質実剛健王朝の実態

010.家系図

南北朝時代の北朝の国。首都は長安。
春秋戦国時代の周や武則天の周などと区別するために「北周と呼ぶ。

魏晋南北朝は、王朝の分裂・推移が激しいため、以下略図にて補足する。

魏晋南北朝(王朝の分裂・推移図)
王朝の分裂・推移図

北周:略家系図

北周宇文氏家系図
北周宇文氏家系図

北周(556–581):皇帝一覧

廟号 諡号  名前(諱)生年-没年
  (没年齢)  
  在位ー退位
 (年齢)
 在位期間 
孝閔帝宇文覚うぶんかく542–557
(16歳)
557
(16歳)
約数ヶ月
世宗明帝宇文毓うぶんいく534–560
(27歳)
557–560
(23–27歳)
約3年
高祖武帝宇文邕うぶんよう543–578
(36歳)
560–578
(18–36歳)
約18年
宣帝宇文贇うぶんいん559–580
(22歳)
578–579
(19–20歳)
約1年
静帝宇文衍うぶんえん573–581
(9歳)
579–581
(6–8歳)
約2年

補足

■実質的支配
 ・西魏〜初期北周 → 宇文泰宇文護
■完全な親政
 ・宇文邕(武帝)のみ
■崩壊
 ・宇文贇 → 急速に統治崩壊
 ・宇文衍 → 楊堅に禅譲(隋成立)

建国者

実質的に北周の基礎を築いたのは、宇文泰

北魏の孝武帝(元脩)が高歓の圧力を受け、関中に拠る宇文泰のもとに身を寄せる。
孝武帝(元脩)を毒殺し、元宝炬(孝武帝の従兄)を擁立して西魏を成立させた。
西魏は約二十年余にわたり存続するが、そのほぼ全期間において宇文泰が国家運営を主導。

宇文泰が死去した際、その子供たちが幼かったことから、
遺命によって宇文護が、後継の宇文覚(後の孝閔帝)を補佐する。

西魏の恭帝から禅譲させて、最初に北周の皇帝になったのは、宇文覚(孝閔帝)。

①孝閔帝(宇文覚)

・『周書』によると孝閔帝の性格は剛毅果敢とされる。
・成長するにつれ、宇文護の専横を嫌い、彼を排除しようとした。
 しかし宇文護に察知され、即位から間もなく廃位、さらに殺害された。

②明帝(宇文毓)

・寛大なで情け深く、度量が大きい性格。学問を好んだ。
・重ねての要請を容れ即位を承諾し、宇文護により擁立された。
・弟の宇文邕とは特に仲が良く、彼を柱国とした国家体制を整えた。
 内政は親政が行われたが、軍事に関しては宇文護が継続して統括していた。
宇文護は、明帝が賢明で識見がある優れた君主であるのを懼れて、
 食事係の李安に毒入り餅を勧めて毒殺しようとした。明帝はこれを悟ったがあえて食べ、
 「弟の宇文邕を支えて天下人にして欲しい」と遺言し、27歳で崩御した。

③武帝(宇文邕)

・北朝最高の名君の一人であり、華北を統一し、北周を最盛期へと導いた。
宇文護による専横を十年以上耐えた末、誅殺し、親政を開始。
・政治の安定化、軍事力の強化、廃仏政策。

④宣帝(宇文贇)

・史書では、「暗愚」「暴虐」「放縦」といった言葉で記される。
  ~父 武帝の棺に向かって「死ぬのが遅い」と罵った
  ~父 武帝の通夜が済まないうちから、父 武帝の宮人たちに淫行を迫った
  ~複数の皇后を同時に立てる(皇后の一人は、楊麗華
  ~鞭打ちを好み、120回を一単位とする刑を「天杖」と称する
  ~後宮を際限なく拡張し、宗廟で用いるべき礼器を日常で使用
・在位1年足らずで幼い長男・宇文衍(静帝)に譲位し、
 自らは「天元皇帝」と称して宮中にとどまり、なお上位の存在として振る舞った。
・政治が機能不全に陥り、実務は外戚である楊堅らに委ねられた。

⑤静帝(宇文衍)

・わずか7歳で宣帝から譲位された。
 幼少のため、嫡母の天元皇太后の父である丞相の楊堅が摂政として全権を掌握。
・楊堅に帝位禅譲を迫られ、北周は滅亡し、
 を建国した楊堅により殺害された。享年9。

王朝らしさ:

「質実剛健の軍事国家 → 隋唐の母体へ」

キーワード

・府兵制・六官制・均田制
宇文護の専横
武帝の親政
北斉滅亡
・廃仏・道教保護
文帝の簒奪

空気感

・禁欲・質素・軍事的
・周礼思想に基づく理念国家
・皇帝が優秀でストイック

物語性

宇文泰の改革
宇文護の影の支配
宇文邕のクーデターと北斉滅亡
・楊堅による乗っ取り

崩壊パターン

「名君の死 → 暴君 → 外戚(楊堅)による簒奪」

関連リンク

中国王朝の皇帝家系図まとめ(完全版)

前漢
後漢
隋・唐


(その他)
南朝宋
北斉
北周

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