南北朝時代の北朝の国。首都は長安。
春秋戦国時代の周や武則天の周などと区別するために「北周」と呼ぶ。
魏晋南北朝は、王朝の分裂・推移が激しいため、以下略図にて補足する。

北周:略家系図

北周(556–581):皇帝一覧
| 代 | 廟号 | 諡号 | 名前(諱) | 生年-没年 (没年齢) | 在位ー退位 (年齢) | 在位期間 |
| ① | ― | 孝閔帝 | 宇文覚 | 542–557 (16歳) | 557 (16歳) | 約数ヶ月 |
| ② | 世宗 | 明帝 | 宇文毓 | 534–560 (27歳) | 557–560 (23–27歳) | 約3年 |
| ③ | 高祖 | 武帝 | 宇文邕 | 543–578 (36歳) | 560–578 (18–36歳) | 約18年 |
| ④ | ― | 宣帝 | 宇文贇 | 559–580 (22歳) | 578–579 (19–20歳) | 約1年 |
| ⑤ | ― | 静帝 | 宇文衍 | 573–581 (9歳) | 579–581 (6–8歳) | 約2年 |
補足
■実質的支配
・西魏〜初期北周 → 宇文泰 → 宇文護
■完全な親政
・宇文邕(武帝)のみ
■崩壊
・宇文贇 → 急速に統治崩壊
・宇文衍 → 楊堅に禅譲(隋成立)
建国者
北魏の孝武帝(元脩)が高歓の圧力を受け、関中に拠る宇文泰のもとに身を寄せる。
孝武帝(元脩)を毒殺し、元宝炬(孝武帝の従兄)を擁立して西魏を成立させた。
西魏は約二十年余にわたり存続するが、そのほぼ全期間において宇文泰が国家運営を主導。
宇文泰が死去した際、その子供たちが幼かったことから、
遺命によって宇文護が、後継の宇文覚(後の孝閔帝)を補佐する。
西魏の恭帝から禅譲させて、最初に北周の皇帝になったのは、宇文覚(孝閔帝)。
①孝閔帝(宇文覚)
・『周書』によると孝閔帝の性格は剛毅果敢とされる。
・成長するにつれ、宇文護の専横を嫌い、彼を排除しようとした。
しかし宇文護に察知され、即位から間もなく廃位、さらに殺害された。
②明帝(宇文毓)
・寛大なで情け深く、度量が大きい性格。学問を好んだ。
・重ねての要請を容れ即位を承諾し、宇文護により擁立された。
・弟の宇文邕とは特に仲が良く、彼を柱国とした国家体制を整えた。
内政は親政が行われたが、軍事に関しては宇文護が継続して統括していた。
・宇文護は、明帝が賢明で識見がある優れた君主であるのを懼れて、
食事係の李安に毒入り餅を勧めて毒殺しようとした。明帝はこれを悟ったがあえて食べ、
「弟の宇文邕を支えて天下人にして欲しい」と遺言し、27歳で崩御した。
③武帝(宇文邕)
・北朝最高の名君の一人であり、華北を統一し、北周を最盛期へと導いた。
・宇文護による専横を十年以上耐えた末、誅殺し、親政を開始。
・政治の安定化、軍事力の強化、廃仏政策。
④宣帝(宇文贇)
・史書では、「暗愚」「暴虐」「放縦」といった言葉で記される。
~父 武帝の棺に向かって「死ぬのが遅い」と罵った
~父 武帝の通夜が済まないうちから、父 武帝の宮人たちに淫行を迫った
~複数の皇后を同時に立てる(皇后の一人は、楊麗華)
~鞭打ちを好み、120回を一単位とする刑を「天杖」と称する
~後宮を際限なく拡張し、宗廟で用いるべき礼器を日常で使用
・在位1年足らずで幼い長男・宇文衍(静帝)に譲位し、
自らは「天元皇帝」と称して宮中にとどまり、なお上位の存在として振る舞った。
・政治が機能不全に陥り、実務は外戚である楊堅らに委ねられた。
⑤静帝(宇文衍)
・わずか7歳で宣帝から譲位された。
幼少のため、嫡母の天元皇太后の父である丞相の楊堅が摂政として全権を掌握。
・楊堅に帝位禅譲を迫られ、北周は滅亡し、
隋を建国した楊堅により殺害された。享年9。
王朝らしさ:
「質実剛健の軍事国家 → 隋唐の母体へ」
キーワード
・府兵制・六官制・均田制
・宇文護の専横
・武帝の親政
・北斉滅亡
・廃仏・道教保護
・隋文帝の簒奪
空気感
・禁欲・質素・軍事的
・周礼思想に基づく理念国家
・皇帝が優秀でストイック
物語性
・宇文泰の改革
・宇文護の影の支配
・宇文邕のクーデターと北斉滅亡
・楊堅による乗っ取り
崩壊パターン
「名君の死 → 暴君 → 外戚(楊堅)による簒奪」

