裴行倹は唐代中期に活躍した将軍・政治家である。
中央アジアで反乱を起こした突厥勢力を平定したことで知られ、
唐の西域支配を支えた名将の一人として評価されている。
彼は単なる武将ではなく、文才と戦略を兼ね備えた人物であり、
しばしば「儒将」と呼ばれる。
さらに人材を見抜く能力にも優れており、多くの名将を見出した人物としても知られる。
名門・河東裴氏の出身
裴行倹は名門貴族 河東裴氏 の出身である。
河東裴氏は南北朝から唐代にかけて多くの高官を輩出した名族で、
関隴貴族社会の中でも特に影響力の強い門閥の一つだった。
この一族からは多くの宰相や将軍が生まれ、唐代政治の中心的存在となった。
裴行倹の父 裴仁基 は隋末の武将であり、隋の混乱期に活躍した人物だった。
しかし隋末の戦乱の中で王世充の政権に仕えた後、政治闘争によって処刑されてしまう。
兄の 裴行儼 も同様に殺害された。
このため裴行倹は幼い頃に父と兄を失うことになった。
五姓七望の名門
河東裴氏は唐代の名門貴族として知られ、
いわゆる 五姓七望 の一つに数えられる家系である。
五姓七望とは、南北朝から唐代にかけて名門とされた有力貴族を指す言葉で、
代表的な家系として
・清河崔氏
・博陵崔氏
・范陽盧氏
・隴西李氏
・趙郡李氏
・太原王氏
・河東裴氏
などが挙げられる。
これらの家系は長く官僚を輩出し、唐代の政治や社会に大きな影響力を持っていた。
裴行倹もまた、この名門 河東裴氏 の出身であり、
貴族社会の中でも高い家格を持つ家に生まれていた。
若き日の裴行倹
弘文館で学ぶ
裴行倹は学問に優れた人物だった。
唐の貴族子弟が学ぶ教育機関 弘文館 で学び、儒学を修めた。
その後、科挙の 明経科 に合格し、官僚としての道を歩み始める。
蘇定方に認められる
若い頃、裴行倹は唐の名将 蘇定方 に目をかけられた。
蘇定方は唐軍でも屈指の名将であり、突厥討伐で大きな功績を挙げた人物である。
蘇定方は裴行倹の才能を見抜き、
・軍の運用
・戦術
・用兵術
を教えた。
この経験が後の裴行倹の軍事的成功につながる。
官僚としての出世
裴行倹は官僚としても能力を発揮し、やがて 長安令 に任命された。
長安令は唐の都の治安を担当する重要な役職であり、有能な官僚が任命される職だった。
彼の行政能力が高く評価されていたことを示している。
武則天問題と左遷
唐高宗の時代、宮廷では「王皇后廃立事件」が起きた。
高宗は王皇后を廃し、武昭儀(後の武則天)を皇后にしようとした。
裴行倹はこの問題について
・長孫無忌
・褚遂良
などの反対派と議論していた。
そのため武則天派から疑われ、地方へ左遷されてしまう。
彼は 西州長史 として西域へ送られた。
しかしこの左遷が、後の名将としての名声を生むことになる。
西域での活躍
安西都護府
裴行倹は西域の要地 安西都護府 に赴任する。
当時の西域は、突厥、吐蕃、ソグド人など多くの勢力が争う地域だった。
彼は外交と軍事を組み合わせて支配を安定させ、多くの部族を帰順させた。
この統治能力が評価され、彼は安西都護府の中心人物となる。
突厥反乱の平定
679年、西突厥系勢力が反乱を起こした。
首領は
・阿史德温傅
・阿史那伏念
である。
裴行倹は直接戦うのではなく、反間計を使った。
二人の首領の間に不信を生じさせ、互いに疑い合うよう仕向けた。
その結果、阿史那伏念は阿史德温傅を殺し、唐へ降伏する。
こうして反乱軍は自滅する形で崩壊した。
この出来事は、「兵を大きく動かさずして敵を崩した戦略」として評価され、
裴行倹の知略を示す代表的な逸話となっている。
降伏者処刑事件
しかしこの事件には後日談がある。
裴行倹は降伏した阿史那伏念に、「命を保証する」と約束していた。
しかし唐の朝廷は彼を処刑してしまう。
この出来事に裴行倹は深く失望した。
自分の約束が破られたことを恥じ、しばらく政治から距離を置いたと言われる。
裴行倹の人物像
人材を見抜く力
裴行倹は唐代の将軍の中でも、文才と軍略を兼ね備えた人物として知られる。
「学者」「官僚」「軍人」という三つの能力を兼ね備えた人物だったため、
後世では、儒将と呼ばれる。
史書では、特にその知略と人材を見る目が高く評価されている。
彼は若い武将の中から将来有望な人物を見抜き、積極的に登用した。
彼が見出した人物には
・王方翼
・程務挺
・黒歯常之
などがおり、これらの人物は後に唐軍の名将として活躍した。
このため裴行倹は当時、「知人の名手」とも評された。
初唐四傑の評価
裴行倹は文学者についても評価を残している。
・王勃
・楊炯
・盧照鄰
・駱賓王
といった 初唐四傑 を見て、
「楊炯には才能があるが、他の者は華やかなだけで長くは続かない」
と評したと伝えられている。
実際、王勃は二十代で早逝し、盧照鄰は晩年に自殺、
駱賓王は反乱に加わって行方不明となった。
このため裴行倹の人物鑑識眼は鋭かったと後世に語られている。
兵法書「四十六訣」
裴行倹は軍事理論家でもあった。
彼は
・行軍
・布陣
・情報分析
などについてまとめた兵法書を書いた。
これらは全部で 四十六訣 と呼ばれた。
武則天はこれを貴重な兵法として秘蔵したという。
裴行倹の死
682年、再び突厥の反乱が起きた。
裴行倹は再び討伐軍の指揮官に任命されるが、出発前に病に倒れてしまう。
682年、裴行倹は長安で死去した。享年64。
死後、太尉、諡号「献」が贈られた。
裴行倹の家族
裴行倹には複数の妻がいた。
その一人は鮮卑系貴族の女性で、もう一人は突厥系の女性だった。
息子 裴光庭 は後に唐の宰相となった。
裴行倹の評価
裴行倹は
・西域政策
・突厥討伐
・人材登用
など多くの功績を残した。
特に西域政策において重要な役割を果たし、唐帝国の中央アジア支配を安定させた。
また人材発掘能力にも優れ、多くの名将を育てたことでも知られている。
その知略と人格から、後世では唐代屈指の儒将と評価されている。
史書・参考文献
・『旧唐書』巻84
・『旧唐書』巻198
・『新唐書』巻108
・『資治通鑑』
・裴行倹神道碑
・唐代西域史研究

