趙福金|靖康の変で運命を翻弄された宋徽宗の娘

北宋の皇女・趙福金(茂徳帝姫) 公主

代の皇女の中でも、最も悲劇的な運命を辿った人物の一人が
趙福金(ちょうふくきん)である。

彼女は北宋の皇帝・宋徽宗の娘であり、皇女の中でも特に美貌で知られていた。
しかし1127年、金軍が北宋の都・開封を占領した「靖康の変」によって人生は大きく変わる。

王朝の皇族は捕虜として北方へ連行され、趙福金もまた異国の地へ送られることとなった。

彼女は「茂徳帝姫」として知られ、

 ・徽宗の娘として生まれた皇女
 ・宰相蔡京の一族との政略結婚
 ・靖康の変で金に連行された皇族女性
 ・屈辱的な運命を辿った王朝の皇女

として、中国史でも特に悲劇的な女性の一人として語られている。

宋徽宗の娘として生まれる

趙福金は北宋の皇帝・徽宗の娘として生まれた。
彼女は皇女の中でも特に美しいことで知られていたと伝えられる。

代の皇女は「公主」ではなく「帝姫」と呼ばれることが多く、
彼女も後に 茂徳帝姫 の称号を与えられた。

宮廷では華やかな生活を送り、
芸術を愛した父・徽宗のもとで育った。

宰相蔡京の一族との結婚

趙福金は若くして、宰相 蔡京 の五男である蔡鞗と結婚した。

これは皇族と権力者の結びつきを強めるための政略結婚だった。

当時の北宋宮廷では蔡京が大きな権力を握っており、
この婚姻は政治的な意味合いを持っていたと考えられている。

夫婦の間には子供も生まれたとされる。

靖康の変

北宋滅亡の危機

1126年、女真族の建てた金王朝が北宋へ侵攻し、
翌1127年、金軍は首都開封を占領した。
この事件は中国史で「靖康の変」と呼ばれる。

このとき
 ・皇帝徽宗
 ・欽宗
 ・皇族
 ・后妃
 ・多くの皇女

が捕虜として北方へ連行された。

金軍が求めた皇女

金軍の将軍 完顔宗望 は、
徽宗の娘の中でも美貌で知られた趙福金を強く望んだと言われる。

和平交渉の一環として、の宮廷は多くの女性を金軍へ差し出すことになった。
趙福金もその一人であった。

金王朝での運命

北方へ連行される

靖康の変の後、趙福金は他の皇族女性たちとともに
金王朝の都へ連行された。

王朝の皇女たちは捕虜として扱われ、
多くが金の皇族や貴族の側室とされた。

これは王朝に対する屈辱的な処遇でもあった。

金の皇族に与えられる

趙福金は当初、金軍の将軍である完顔宗望のもとに送られた。

しかし彼は帰還途中に病死したため、
その後、別の金の貴族へ与えられたとされる。

王朝の皇女だった彼女の人生は、
完全に異国の支配下に置かれてしまった。

異国での死

趙福金は金の宮廷で生活を送ることになったが、
その後まもなく亡くなったと伝えられている。

王朝の皇女として生まれながら、
祖国を失い、異国の地で生涯を終えたのである。

趙福金と靖康の変

靖康の変は王朝にとって大きな屈辱であり、
多くの皇族女性が捕虜として北方へ送られた。

その中でも趙福金の物語は象徴的なものとされる。

北宋皇女として育った彼女の人生は、
王朝の滅亡によって一変した。

この出来事は、中国史における
王朝滅亡の悲劇を象徴する出来事として語られている。

史書・参考文献

・『宋史』公主伝
・『靖康稗史』
・『三朝北盟会編』
・靖康の変関連史料

関連リンク

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