劉季述(りゅうきじゅつ、?〜901年)は、
唐末の昭宗に仕え、左神策軍護軍中尉として宮廷の軍事権を握った宦官である。
昭宗が宰相の崔胤とともに宦官勢力の排除を進めると、
右神策軍護軍中尉の王仲先、枢密使の王彦範・薛斉偓らと結んで皇帝の廃位を計画した。
光化3年(900)11月には禁軍を率いて宮中を制圧し、昭宗と何皇后を少陽院に幽閉すると、
皇太子の李裕を新たな皇帝に擁立した。
しかし、翌901年正月、崔胤と結んだ神策軍将校の孫徳昭らが蜂起し、
劉季述は捕らえられて殺害された。
皇帝を守るはずの禁軍が皇帝を廃位し、さらに禁軍内部の反乱によって皇帝が復位するという、
唐末の宮廷政治を代表する政変を主導した人物である。
出自と神策軍護軍中尉への出世
劉季述の生年や出身地は明らかではない。
左神策軍護軍中尉を務めた宦官の劉行深の養子となり、宮廷で地位を高めた。
唐後期の宦官社会では、有力者が養子を迎えて官職や人脈を継承させることが行われていた。
僖宗の時代に権力を握った田令孜や、昭宗を擁立した楊復恭も養子を通じて勢力を広げた人物であり、
劉季述もこうした宦官の養子関係を背景に出世した。
劉季述は僖宗・昭宗の時代に宮廷で昇進し、左神策軍護軍中尉となった。
枢密使としての経歴も伝えられるが、
光化3年の政変当時、枢密使を務めていたのは王彦範と薛斉偓であり、
劉季述の役職は左神策軍護軍中尉だった。
神策軍を掌握した宦官の権力
神策軍は唐後期の皇帝直属の禁軍であり、長安の宮城を守る軍事組織だった。
安史の乱以後、皇帝が地方の節度使に対抗できる軍事力を必要とするなかで重要性を増し、
左右の神策軍護軍中尉には宦官が任命されるようになった。
神策軍護軍中尉は禁軍の兵士を指揮し、宮城の門や皇帝の身辺警護を管理していた。
枢密使が皇帝の命令伝達や宮廷の機密政務に関与する一方、
神策軍護軍中尉は兵力を直接動かせる立場にあり、
両者は唐後期の宦官政治を支える重要な役職だった。
劉季述が左神策軍護軍中尉となった頃、右神策軍護軍中尉には王仲先が就いていた。
両者が協力すれば、皇帝の居所を包囲し、宮廷の出入りを封鎖することも可能だった。
ただし、神策軍が全国の軍隊を統率していたわけではない。
地方では李克用、朱全忠、李茂貞らの節度使が独自の軍事力を持っており、
中央政府は彼らの勢力争いに左右されていた。
昭宗と宦官勢力の対立
888年、僖宗が死去すると、宦官の楊復恭らによって寿王李傑が擁立され、昭宗として即位した。
昭宗は衰退した唐王朝の権威を回復しようとし、
宦官による軍事支配や地方の節度使による政治介入を抑えようとした。
しかし、昭宗の治世には軍事的な失敗が相次いだ。
890年には河東節度使の李克用を討伐しようとして敗れ、
891年には楊復恭を失脚させたものの、
楊復恭の養子勢力を討つために李茂貞らの軍事力を利用しなければならなかった。
さらに896年には李茂貞の軍事的圧力によって長安を離れ、華州の韓建を頼った。
898年に長安へ帰還した後も、昭宗が神策軍を自由に指揮できる状態にはなっていなかった。
崔胤による宦官排除の計画
昭宗の側近として宦官の排除を強く主張したのが、宰相の崔胤だった。
崔胤は、宦官が神策軍と宮廷の機密命令を握っている限り、
皇帝が政治の主導権を取り戻すことはできないとして、昭宗に宦官勢力の排除を進言した。
一方、宰相の王摶は急激な宦官排除に慎重だった。
王摶は宦官の専横を問題視しながらも、
各地で戦乱が続く状況で一度に排除すれば、さらに大きな混乱を招くと主張した。
崔胤は王摶が宦官と結んでいると昭宗に訴え、宣武節度使の朱全忠にも協力を求めた。
朱全忠は朝廷に圧力をかけて崔胤を支援し、王摶や枢密使の宋道弼・景務脩らは失脚して殺害された。
これによって崔胤の権勢は強まったが、宦官たちは自分たちも排除されることを恐れるようになった。
昭宗と崔胤が朱全忠を後ろ盾にする一方、宦官たちは李茂貞や韓建らの勢力を頼ろうとしており、
宮廷内の対立には地方の節度使も関わっていた。
昭宗の飲酒と近侍殺害事件
光化3年(900)11月、
昭宗は宮苑で狩猟を行った後、酒を飲んで夜に宮中へ戻り、宦官や宮女数人を自ら殺害した。
『資治通鑑』によれば、昭宗は華州から長安へ戻った後、
気分が晴れず、酒を飲むことが多くなっていた。
怒りをあらわにすることもあり、近侍たちは皇帝の機嫌を恐れていたという。
翌朝になっても宮門が開かなかったため、宮廷では異変が疑われた。
劉季述らは昭宗の行動を問題視し、
このままでは皇帝が宰相たちの意見を聞いて自分たちを処罰するかもしれないと恐れた。
劉季述は王仲先、枢密使の王彦範・薛斉偓らと結び、
昭宗を太上皇として退け、皇太子を新たな皇帝に擁立する計画を立てた。
さらに李茂貞や韓建の軍事力を後ろ盾にすれば、地方の藩鎮も抑えられると見込んでいた。
光化三年の政変|昭宗廃位と李裕擁立
禁軍千人を率いて宮中へ突入
光化3年11月、劉季述は宮門が開かないことを理由に宰相崔胤のもとへ赴き、
宮中で異変が起きた可能性があるため、自分たちが調査すると申し出た。
劉季述は禁軍千人を率いて宮門を破り、昭宗が前夜に近侍を殺害したことを確認した。
そして崔胤に対し、このような皇帝に天下を治めさせることはできず、
暗愚な皇帝を廃して賢明な人物を立てるのは国家のためだと主張した。
崔胤は兵を動員した劉季述に逆らえば殺害されるおそれがあり、表立って反対できなかった。
劉季述は百官を集め、宮殿の庭に兵士を並べて威圧したうえで、
皇太子に国政を監督させるよう求める連名の文書を作成した。
崔胤をはじめとする官僚たちは署名を強制され、劉季述らの要求を認める形となった。
この文書は、官僚たちが自発的に昭宗の廃位を求めたことを示すものではない。
劉季述らは武装した禁軍を背景に百官の署名を集め、その連名文書を皇帝に示すことで、
廃位を朝廷全体の意思であるかのように扱ったのである。
昭宗と何皇后への退位要求
このとき昭宗は乞巧楼にいた。
劉季述と王仲先は、宣化門の外に甲冑を着けた兵士千人を伏せ、
宣武の進奏官である程巌ら十数人とともに皇帝への面会を求めた。
劉季述らが楼上へ上がると、兵士たちは大声を上げて宣化門へ突入した。
兵士は思政殿の前まで進み、途中で出会った宮人を殺害した。
突然兵士が押し寄せたため、昭宗は驚いて寝台から落ち、逃げようとした。
劉季述と王仲先は昭宗を両側から支え、座らせた。
何皇后は異変を聞いて駆けつけ、劉季述らに皇帝を驚かせないよう懇願し、
何か問題があるなら相談してほしいと訴えた。
しかし劉季述らは、百官の連名文書を昭宗に示し、
皇帝が政治に疲れたため、内外の人々が皇太子による監国を望んでいると告げた。
昭宗は、前日に酒を飲み過ぎただけなのに、どうしてこのような事態になったのかと反論した。
劉季述らは、これは自分たちだけの意思ではなく、官僚たちの要求であると説明し、
昭宗を東宮へ移して情勢が落ち着けば再び宮中へ迎えると述べた。
何皇后は昭宗に劉季述らの要求に従うよう促し、伝国の宝璽を渡した。
昭宗は皇后とともに輿に乗せられ、少数の妃嬪や近侍を伴って少陽院へ移された。
少陽院に幽閉された昭宗と何皇后
少陽院へ移された昭宗に対し、劉季述は銀の鞭で地面に線を引きながら、
過去に皇帝が自分の忠告を聞かなかった出来事を一つずつ数え上げた。
『資治通鑑』によれば、
劉季述は「あるときのある出来事で、私の言葉に従わなかった。これが一つ目の罪だ」
というように昭宗を責め、その数は数十件に及んだ。
劉季述は少陽院の門を自ら閉じ、溶かした鉄で封鎖した。
さらに左神策軍副使の李師虔に兵を率いさせて周囲を包囲し、昭宗の行動を逐一報告させた。
食事は壁に穴を開けて差し入れられ、武器はもちろん、針や小刀も持ち込めなかった。
昭宗が金銭や布を求めても与えられず、紙や筆を求めることさえ拒まれた。
当時は厳しい寒さだったが、幽閉された妃嬪や公主たちには十分な衣服や寝具もなく、
その泣き声が外に聞こえたと記されている。
劉季述らは昭宗の周囲から支持者を排除するため、皇帝が寵愛していた宮女や近侍たちも殺害した。
皇帝と皇后を隔離するだけでなく、宮廷内で昭宗の復位を企てる動きが生まれることも警戒していた。
皇后名義の詔書と百官への署名強制
劉季述らは昭宗の退位と皇太子の監国を正当化するため、
皇帝側が同意したかのような文書を利用した。
『資治通鑑』には、皇后が壁の穴から皇太子を迎えた、
あるいは皇后が皇帝の療養を申し出たとする別系統の記録が紹介されている。
しかし司馬光は、これらを宦官の行動を弁護するための記述として採用していない。
そのため、皇后名義の詔書によって昭宗が自発的に退位したと説明することはできない。
実際に記録されているのは、劉季述が兵士を使って百官に署名を強制し、
昭宗と何皇后から宝璽を受け取ったうえで、
皇太子の監国を命じる詔書を偽って発したという経緯である。
翌日には皇太子に皇位を継がせる詔書が出され、李裕は李縝と改名した。
昭宗は太上皇、何皇后は太上皇后とされ、少陽院は問安宮と改称された。
李裕は正式に皇帝として即位したが、実際の軍事権は劉季述らが握っていた。
皇太子は宦官たちによって擁立されたものであり、自ら政変を主導したわけではなかった。
崔胤の反撃と孫徳昭らの蜂起
劉季述らは李裕を皇帝に擁立したが、地方の節度使たちが新政権を支持するとは限らなかった。
『資治通鑑』によれば、
李裕の即位から数十日が過ぎても、多くの藩鎮から通常の上表が届かなかった。
さらに、王仲先が神策軍内部の財政を厳しく調査したことで、将兵の不満が高まった。
王仲先は軍費や穀物を隠していた者を発見すると、激しく鞭打って返済を迫った。
これまで禁軍の将兵は宦官の指揮に従っていたが、
厳しい取り立てによって新政権を支える軍隊の内部にも反発が広がった。
崔胤と孫徳昭の密約
左神策軍指揮使の孫徳昭は、劉季述による昭宗の廃位を不当と考えていた。
孫徳昭はもともと塩州の雄毅軍使を務めた軍人で、禁軍の将校として宮廷の警備に関わっていた。
崔胤は孫徳昭が廃位を憤っていることを知り、判官の石戩を派遣して接触させた。
石戩は孫徳昭と親しく交わり、酒を飲んだ際に孫徳昭が昭宗の境遇を嘆いて涙を流すのを見て、
復位計画への協力を持ちかけた。
石戩は、劉季述と王仲先を討ち、昭宗を復位させれば、富貴と名声を得られると説いた。
孫徳昭は自分一人で国家の大事を決めることはできないと答えながらも、
崔胤の命令があれば命を惜しまないと約束した。
報告を受けた崔胤は、自分の衣帯を切り取り、その上に直筆の命令を書いて孫徳昭に渡した。
孫徳昭はさらに董彦弼と周承誨を仲間に引き入れ、左右の神策軍の将校による協力体制を整えた。
彼らは大晦日の夜、安福門の外に兵を伏せ、劉季述らを討つ計画を立てた。
崔胤は宮廷の外から大軍を呼び込むのではなく、神策軍内部の将校を動かすことで、
劉季述らの軍事的な基盤を崩そうとしたのである。
王仲先の斬首と昭宗の救出
天復元年(901)正月1日、孫徳昭らは計画を実行した。
王仲先が朝廷へ向かって安福門に到着すると、孫徳昭はこれを捕らえて斬首した。
続いて少陽院へ急行し、門をたたいて逆賊を討ったことを告げ、昭宗に外へ出るよう求めた。
しかし、長期間幽閉されていた昭宗と何皇后は、その知らせをすぐには信じなかった。
何皇后は、本当に逆賊を討ったのであれば、その首を見せるよう求めた。
孫徳昭が王仲先の首を差し出すと、昭宗と何皇后はようやく復位の動きが本物であることを確認した。
少陽院の門は破られ、昭宗は幽閉から解放された。
崔胤は昭宗を迎え、皇帝は長楽門の楼上に姿を現した。
百官は昭宗の復位を祝賀し、劉季述らによって成立した政権は崩壊した。
劉季述の最期と李裕の処遇
王仲先が殺害された後、周承誨は劉季述と王彦範を捕らえた。
『資治通鑑』によれば、劉季述と王彦範は捕らえられて連行されたが、
罪状を問いただされる前に周囲の者たちによって棍棒で打ち殺された。
薛斉偓は井戸に身を投げて自殺を図ったものの、引き上げられて斬首された。
劉季述は捕縛後、正式な尋問に至る前に殺害された。
朝廷は劉季述・王仲先・王彦範・薛斉偓の一族を処罰し、政変に加わった者二十余人も処刑した。
昭宗を廃位した四人の宦官は、901年正月の政変によって全員が死亡した。
劉季述らが擁立した李裕は、政変の際に宦官たちによって左神策軍の中に隠された。
昭宗が復位すると、李裕は伝国の宝璽を返還した。
昭宗は、李裕が幼く、宦官たちによって擁立されたのであって、本人の罪ではないと述べた。
そして李裕を東宮へ戻し、皇太子の地位を解いて徳王に復した。
一方、昭宗の復位に功績のあった孫徳昭には、
同平章事の称号と静海節度使の職が与えられ、李継昭という姓名を賜った。
董彦弼や周承誨も功績を認められた。
劉季述の死後と宦官政治の終焉
劉季述らが殺害されても、宦官による軍事支配が直ちに終わったわけではなかった。
神策軍の指揮権は引き続き宦官に委ねられ、韓全誨らが新たな有力者として台頭した。
昭宗は復位後も宦官の権限を制限しようとしたが、
宰相の崔胤はそのために朱全忠の軍事力を利用していた。
朱全忠は宣武節度使として河南方面を中心に勢力を拡大しており、朝廷への介入を強めていた。
901年、韓全誨らは朱全忠による宦官排除を恐れ、昭宗を連れて鳳翔へ移り、李茂貞の保護を求めた。
これに対して朱全忠は鳳翔へ進軍し、李茂貞との戦いを開始した。
鳳翔は長期間にわたって包囲され、903年には李茂貞が昭宗を朱全忠側に引き渡した。
朱全忠は昭宗を長安へ戻すと、宦官の大規模な粛清を実施した。
これによって唐後期に長く続いた宦官による神策軍支配は終焉を迎えた。
朱全忠による唐王朝の支配
宦官の軍事権力が排除された後も、昭宗が政治的な主導権を回復することはなかった。
朱全忠は朝廷への影響力をさらに強め、904年には昭宗を殺害した。
その後、昭宗の子である哀帝が即位したが、皇帝の権限は朱全忠によって制約された。
907年、哀帝は朱全忠に皇位を譲り、唐王朝は滅亡した。
劉季述の死から唐の滅亡まで、わずか六年だった。
劉季述を排除した崔胤も朱全忠に殺害され、
昭宗の復位に協力した軍事勢力が唐の政治を安定させることはできなかった。
劉季述の歴史的評価
劉季述は、唐後期の宦官が皇帝の廃立に直接関与した人物の一人である。
田令孜や楊復恭も皇帝の擁立や政治に深く介入していたが、
劉季述は現職の皇帝を武力で幽閉し、その皇太子を新皇帝に即位させた。
劉季述が廃位の理由として掲げたのは、昭宗の飲酒や近侍の殺害、政務への不適切な対応だった。
しかし、劉季述らは皇帝の行動を問題視するだけでなく、宰相たちによる宦官排除を恐れていた。
『資治通鑑』には、劉季述らが自分たちの身に災いが及ぶことを警戒し、
皇太子を擁立する計画を立てたことが記されている。
また、劉季述は皇帝を廃位するために百官の署名を強制し、
皇后が同意したかのような形式を利用した。
兵力だけで皇帝を退けるのではなく、
官僚たちの連名文書や詔書によって政変を正当化しようとしたのである。
しかし、新政権を支える神策軍では王仲先の厳しい軍政によって不満が高まり、
孫徳昭らの離反を招いた。
宮廷の軍事力を掌握して皇帝を廃位した劉季述は、その軍隊の将校たちによって権力を奪われた。
昭宗が復位した後も、宦官と文官の対立は続き、崔胤は朱全忠の軍事力への依存を強めた。
劉季述の政変は宦官政治の終結そのものではなく、
宦官を排除するために有力藩鎮の介入が拡大していく過程で起きた事件だった。
まとめ
劉季述は、劉行深の養子として宮廷に仕え、左神策軍護軍中尉となって昭宗の身辺を守る軍事権を握った。900年には王仲先・王彦範・薛斉偓らと結んで昭宗を廃位し、何皇后とともに少陽院へ幽閉すると、皇太子李裕を即位させた。
しかし、宰相崔胤が神策軍指揮使の孫徳昭らと結んで反撃し、901年正月に劉季述らは殺害された。昭宗は復位したものの、宦官の軍事権力は残り、韓全誨らによる新たな政変が発生した。
その後、朱全忠が宦官勢力を粛清し、昭宗を殺害して唐の政治を掌握した。劉季述が皇帝を廃位した事件は、唐末の中央政府において、皇帝の地位が禁軍を指揮する宦官の行動によって左右されていたことを示している。
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史書・参考文献
・『旧唐書』巻二十上「本紀第二十上 昭宗」
・『新唐書』巻十「本紀第十 昭宗・哀帝」
・『新唐書』巻二百八「列伝第一百三十三 宦者下」
・『資治通鑑』巻二百六十二「唐紀第七十八」
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