李蓮英(李連英、1848~1911年)は、清末の慈禧太后(西太后)に長く仕えた宦官である。
安徳海のように若くして処刑されることもなく、
清朝の宦官として異例の二品頂戴まで与えられ、慈禧の晩年までその側近であり続けた。
そのため後世には、慈禧の権力を利用して政治を操り、
巨額の賄賂を集めた「清末最大の悪宦官」という像が形成された。
しかし李蓮英自身が政策決定を左右したことを具体的に示す史料は意外に少なく、
同時代にはむしろ、皇太后に寵愛された宦官が政治へ介入することへの警戒が強かった。
一方で、李蓮英が単なる身辺係ではなかったことも確かである。
醇親王奕譞の海軍巡閲に随行したことは朝廷で問題となり、
官僚から繰り返し弾劾を受けながら、慈禧の庇護のもとで高い地位を保った。
清末の宮廷で李蓮英は、どこまで権力を持っていたのか。
伝説と史実を分けながら、その生涯をたどる。
出自と宮廷入り
李蓮英とは
李蓮英は道光28年(1848年)、直隷河間府大城県に生まれた。
一般には「李蓮英」の表記で知られており、『清史稿』にもこの字で記されているが、
清宮档案や李氏の家譜などでは「李連英」となっている。
そのため、現在では李連英が本来の名であり、「李蓮英」は後世に広まった表記と考えられている。
宮中に入ってからは李進喜と称し、のちに慈禧から「連英」の名を与えられたとされる。
李蓮英については、「皮硝李」と呼ばれる皮革職人だった、硝石の密売で投獄された、
慈禧の好む髪型を習得して梳頭太監となった、といった話が広く知られている。
しかし、これらの多くは後世の伝説である。
墓誌では幼少時に入宮したとされ、清宮档案にも咸豊年間に宮中へ入った記録がある。
成人してから皮革業者として働いたのちに宦官になったという有名な物語とは年代が合わない。
李蓮英の出世を考えるうえでは、
こうした「梳髪の技術だけで慈禧に気に入られた男」という伝説から離れる必要がある。
↓↓「連英」の名を与えられたとされる慈禧太后(西太后)についての個別記事は、こちら

幼くして宦官となり宮中へ
李蓮英が宦官となった正確な事情については、史料によって細部が一致しない。
墓碑関係の記録では道光28年10月17日(1848年11月12日)生まれとされ、
幼少期に去勢を受けて宮中へ入った。
清宮档案では咸豊7年(1857年)、鄭親王端華の府から宮中へ送られた記録が確認されている。
後世には「貧困のため自ら宦官になった」という説明も広まったが、
李氏一族に関する調査では、病気と当時の民間信仰が去勢の背景にあったとする説も提示されている。
少なくとも、現行記事でしばしば語られる
「家計を助けるため自ら去勢した」と断定できるだけの史料はない。
入宮後の李蓮英は、最初から慈禧の側近だったわけではない。
宮中で李進喜と呼ばれ、奏事処や景仁宮などで勤務したのち、
同治年間に慈禧の居所である長春宮へ移ったとされる。
当時、慈禧の側近宦官として圧倒的な存在感を持っていたのは李蓮英ではなく、安徳海だった。
↓↓慈禧の側近宦官・安徳海についての個別記事は、こちら

安徳海の処刑と李蓮英の台頭
安徳海は慈禧の信任を背景に急速に出世した宦官で、辛酉政変以後の宮廷で強い存在感を持った。
しかし、その振る舞いは次第に大胆になり、王公や官僚との対立を深めていった。
同治8年(1869年)、安徳海は北京を離れて山東へ入り、山東巡撫の丁宝楨に拘束された。
清朝では宦官の勝手な出京が厳しく制限されており、
安徳海は勅命を持たずに地方を通行したことなどを問題とされ、済南で処刑された。
李蓮英が慈禧の側近として存在感を強めていくのは、この安徳海の失脚後である。
ただし、「安徳海が死んだため、その地位をそのまま李蓮英が継承した」
と単純に考えるのは適切ではない。李蓮英は安徳海と異なる行動様式を取った。
安徳海が皇太后の寵愛を表に出して敵を増やしたのに対し、
李蓮英は宮廷内の上下関係に敏感で、
王公大臣に対しても露骨に尊大な態度を取ることを避けたと伝えられる。
宦官の地位が皇帝や皇太后の寵愛一つで成り立っていることを、
安徳海の最期から理解していたとも考えられる。
李蓮英の長期的な成功は、単に慈禧に気に入られたことだけではなく、
その寵愛をどこまで表に出すかを慎重に判断した点にあった。
慈禧太后の側近として出世
李蓮英は慈禧の身辺に長く仕え、やがて内廷の有力宦官となった。
清朝は明代の宦官政治を強く警戒していたため、宦官の官位や行動には厳しい制限を設けていた。
乾隆年間には宦官の品級を四品までとする原則も定められている。
ところが李蓮英は、この慣例を越えて昇進した。
光緒20年(1894年)には二品花翎頂戴を与えられたことが確認できる。
さらに光緒30年(1904年)には蟒袍・補服一式を賜り、
光緒33年(1907年)にも慈禧から「福」「寿」の大字や絵を下賜された。
二品という待遇は清代の宦官として異例であり、
それ自体が慈禧から受けていた寵遇の大きさを示している。
ただし、李蓮英が「後宮の人事・財政・儀礼をすべて掌握した」
とするような説明には注意が必要である。
清朝の内廷には内務府や敬事房などの制度があり、
宮廷運営を李蓮英一人が支配していたわけではない。
彼の権力の核心は正式な行政権ではなく、
最高権力者である慈禧の身近に常時出入りできたことにあった。
皇太后の意向を直接知ることができ、
外部から皇太后へ何かを伝えようとする者にとっても無視できない存在だった。
李蓮英の政治的影響力を考える場合、
この「慈禧への近さ」と正式な官僚機構上の権限を区別する必要がある。
醇親王の海軍巡閲に随行
李蓮英の名が朝廷の政治問題として大きく浮上したのが、光緒12年(1886年)の海軍巡閲だった。
清朝では洋務運動の一環として近代海軍の整備が進められ、
醇親王奕譞が李鴻章とともに北洋海軍を巡閲することになった。
慈禧はこの巡閲に李蓮英を随行させた。
皇太后の身辺に仕える宦官が、軍事に関わる重要な視察に同行する。
この事実は官僚たちを強く刺激した。
清朝が宦官の政治・軍事への介入を警戒してきた背景には、
唐代や明代に宦官が軍権を握った歴史がある。
李蓮英の随行は、単なる身辺奉仕であったとしても、
官僚側から見れば「宦官監軍」へ発展しかねない前例だった。
御史の朱一新は、李蓮英の随行を問題視して上奏した。
朱一新が恐れたのは、李蓮英個人がただちに海軍を指揮することではなく、
このような前例を認めれば、やがて宦官が軍事へ介入するようになることだった。
さらに李鴻章が用意した船を李蓮英が使用したため、
地方の将官らが醇親王の船と誤認したとの話まで問題になった。
慈禧は朱一新の上奏に不快感を示し、醇親王に事実関係を確認した。
醇親王が問題を否定すると、朱一新は降格された。
『清史稿』にもこの事件は記録されており、
李蓮英が慈禧の寵臣として朝廷から注視されていたことを示す重要な事例となっている。
官僚から相次いだ弾劾
海軍巡閲問題は一度きりでは終わらなかった。
李蓮英が慈禧の寵愛を受け続けることに対して、
官僚の間には「宦官が本来の分限を越えている」という警戒が残った。
光緒14年(1888年)には国子監祭酒の王先謙も李蓮英を批判し、
その振る舞いが内外を騒がせているとして処分を求めた。
しかし、この上奏によって李蓮英が失脚することはなかった。
重要なのは、
こうした弾劾が「李蓮英が清朝の政策を実際に決定していた証拠」とは必ずしもならないことである。
むしろ、官僚たちが恐れていたのは皇太后と宦官との個人的な関係が、
制度の外側に政治的な影響力を生み出すことだった。
慈禧に直接会うことのできる人物は限られている。
その身辺に仕える李蓮英に頼めば、皇太后へ情報を伝えられるのではないか、
逆に李蓮英に嫌われれば皇太后への印象を悪くされるのではないかという疑念が生じる。
実際にどれほど政治を動かしたかとは別に、
「李蓮英を通さなければ慈禧に近づけない」という認識そのものが彼の権力を拡大させた。
李蓮英は賄賂で巨万の富を築いたのか
李蓮英には、生前から収賄や蓄財をめぐる噂が絶えなかった。
地方官や王公大臣が慈禧への取り次ぎを求めて李蓮英に金品を贈り、
李蓮英が莫大な財産を築いたという話は数多い。
後世には財産が数百万両、あるいは一千万両に達したとする説まで現れた。
しかし、その数字をそのまま史実として扱うことはできない。
清末の政界では李蓮英に対する反感が強く、宦官に対する伝統的な偏見も重なっていた。
政治腐敗や宮廷の浪費を説明する際、慈禧の側近だった李蓮英は格好の標的となった。
一方で、李蓮英が非常に裕福だったこと自体は否定しにくい。
慈禧から長年にわたって多額の賞賜を受け、李氏一族にも相当な財産が残された。
墓も一般の宦官とは比較にならない規模で造営されている。
したがって、「賄賂だけで巨万の富を築いた」と断定することも、
「すべて慈禧からの正当な賞賜だった」と見ることも難しい。
李蓮英をめぐる蓄財伝説は、実際の富裕さを土台として、
清末の宮廷腐敗への批判が重なって拡大していったと見るのが妥当である。
光緒帝と李蓮英
光緒帝との関係
李蓮英は慈禧の側近だったため、光緒帝を迫害した人物として描かれることも多い。
とくに戊戌政変後、光緒帝が中南海の瀛台に事実上幽閉されると、
李蓮英がその監視役を務めたとする記録がある。
この点だけを見れば、李蓮英は慈禧側の人物として
光緒帝の自由を奪う体制に加わっていたことになる。
しかし、宮廷関係者の回想には別の姿も残されている。
『宮女談往録』では、戊戌政変後の李蓮英が慈禧と光緒帝の間で慎重に立ち回り、
庚子事変後の帰京途中には光緒帝にも気を配ったと伝えられる。
有名なのが、宿泊先で慈禧には十分な寝具が用意されている一方、
光緒帝には満足な寝具がなかったため、李蓮英が自分の寝具を差し出したという逸話である。
こうした回想録は後年の聞き取りを含むため、そのまま事実と断定することはできない。
それでも李蓮英を「慈禧の命令で光緒帝を徹底的に虐待した人物」とだけ見ることにも問題がある。
宮廷で生き続けるには、慈禧の寵愛を維持すると同時に、
皇帝そのものを完全な敵に回すことも危険だった。
慈禧が先に死ねば、次に権力を握る可能性があるのは光緒帝である。
李蓮英が両者の間で一定の距離を計っていたとすれば、
それは慈善心だけではなく、宮廷人としての自己防衛でもあった。
珍妃の死に関与したのか
光緒26年(1900年)、
義和団事件と八カ国連合軍の北京侵攻によって、慈禧と光緒帝は北京から西安方面へ逃れた。
その直前、光緒帝の寵妃だった珍妃が紫禁城の井戸に落とされて死亡している。
この事件について李蓮英が関与したとする俗説もあるが、
後世の宮廷回想では、実行役として名前が挙がるのは崔玉貴である。
李蓮英が直接珍妃を珍妃へ投げ込んだとする確実な史料はない。
むしろ戊戌政変以降、慈禧の身辺では崔玉貴の存在感が増していたとする証言もある。
李蓮英を慈禧の側近だったという理由だけで、
慈禧に関係するすべての事件の実行者とみなすことはできない。
↓↓光緒帝の寵妃・珍妃についての個別記事は、こちら

義和団事件と慈禧太后の晩年
八カ国連合軍の北京侵攻と西安への逃避
1900年8月、八カ国連合軍が北京へ迫ると、慈禧は光緒帝や皇族、側近らを伴って北京を脱出した。
李蓮英も一行に加わり、陝西の西安まで随行した。
紫禁城や頤和園で生活してきた慈禧にとって、この逃避行は極めて厳しいものだった。
食料や宿泊施設が不足するなか、李蓮英ら側近宦官は移動中の身辺奉仕や宿泊の準備にあたった。
一方、西安滞在中にも李蓮英の権勢を批判する噂は広がった。
当時の外国紙には、賞罰や官僚人事に李蓮英が大きな影響を及ぼしているとする報道も見られる。
ただし、これも李蓮英が正式な政治権限を持っていたことを意味しない。
庚子事変という非常時において、慈禧の身近にいる人物への接触が平時以上に重要になり、
その結果として李蓮英の存在感も強まったと考えられる。
辛丑条約締結後の光緒27年(1901年)、慈禧と光緒帝は北京へ帰還し、李蓮英も宮廷生活へ戻った。
慈禧太后の晩年を支える
北京帰還後の慈禧は、清朝の体制を維持するため「新政」と呼ばれる一連の改革を進める一方、
頤和園などで従来の宮廷生活も続けた。
この時期にも李蓮英は慈禧の近くにいた。
晩年の慈禧を撮影した写真には、李蓮英がほかの宦官とともに写っているものが残されている。
頤和園の楽寿堂前で撮影された写真では、慈禧や光緒帝の皇后、瑾妃らの周囲に宦官たちが並び、
李蓮英と崔玉貴もその中に確認できる。
若い頃から慈禧に仕えてきた李蓮英にとって、慈禧は単なる主人ではなく、
自らの宮廷内での地位そのものを成立させている存在だった。
そして光緒34年(1908年)、その関係は終わりを迎える。
光緒帝と慈禧太后の死
光緒34年10月21日(1908年11月14日)、光緒帝が37歳で死去した。
翌22日(11月15日)、慈禧も死去した。
清朝の最高権力者と皇帝がわずか一日の間に相次いで死亡し、宣統帝溥儀が即位した。
新たに皇太后となったのは光緒帝の皇后だった隆裕である。
慈禧という最大の後ろ盾を失った李蓮英にとって、
これ以上宮廷にとどまることには大きな危険が伴った。
長年にわたって慈禧の寵愛を独占した宦官であり、多数の王公・官僚から反感を持たれていた。
政権交代後も以前と同じように振る舞えば、安徳海と同じ運命をたどる可能性もあった。
李蓮英は慈禧の死後、その賞賜品を隆裕皇太后へ差し出したと伝えられる。
そのうえで慈禧の喪に服し、宮廷を離れた。
権力者の死とともに自らも失脚する宦官が珍しくなかった中国史のなかで、
李蓮英は最高位近くまで上りながら、自ら退くことに成功した。
宮廷を退いた李蓮英
宣統元年(1909年)、李蓮英は長年暮らした宮廷を離れた。
退宮後は北京で生活し、宮廷政治の表舞台に戻ることはなかった。
慈禧の死から清朝滅亡までの期間はわずか数年であり、
李蓮英自身もその終焉を見る直前に世を去ることになる。
宣統3年(1911年)2月、李蓮英は死去した。63歳だった。
隆裕皇太后はその死に際して祭壇を賜り、
葬儀費用として銀千両を下賜したことが墓碑に記されている。
慈禧亡き後も清朝皇室から一定の待遇を受けていたことがわかる。
李蓮英の墓と「首のない遺体」
李蓮英の死をめぐっては、現在も謎が残っている。
公式には病死したとされる一方、
暗殺された、移動中に殺害された、恨みを持つ者に襲われたなど、さまざまな説が語られてきた。
その背景にあるのが李蓮英の墓である。
李蓮英は北京西郊の恩済荘に葬られた。
恩済荘は清代の宦官墓地として知られ、李蓮英の墓はそのなかでも非常に豪華だった。
墓碑には800字を超える文章が刻まれ、一般の総管・首領太監では青砂石の墓碑が多かったのに対し、李蓮英の碑には漢白玉が用いられていた。
20世紀に墓が発掘された際、棺内の状態から「頭部だけが葬られていた」とする報告が広まり、
李蓮英暗殺説を強めることになった。
もし本当に頭部しか残されていなかったのであれば、通常の病死では説明しにくい。
しかし、墓が過去に荒らされていた可能性や、遺骨の保存状況なども考慮する必要があり、
それだけで殺害方法や犯人を特定することはできない。
そのため、李蓮英の最期については病死説と他殺説が並存しており、現在も確定していない。
李蓮英の人物像
李蓮英はしばしば、趙高や魏忠賢と同じ「悪宦官」の系譜に置かれる。
しかし、その権力の性質は彼らとは大きく異なる。
趙高は秦の中央政府で丞相にまで上り、皇帝の擁立や政敵の粛清に直接関与した。
魏忠賢も明の天啓年間に東廠を掌握し、官僚人事や政治弾圧に巨大な力を振るった。
李蓮英には、それに相当する公的な政治権力は確認できない。
軍隊を指揮したわけでも、独自の秘密警察を持ったわけでも、
朝廷の官職を自由に任免できる制度上の地位にあったわけでもない。
それでも李蓮英が恐れられたのは、清末最大の権力者である慈禧のすぐそばにいたからだった。
誰を慈禧に会わせるのか、どの情報が慈禧の耳に届くのか、
慈禧が誰に好意や不快感を抱いているのか。
そうした宮廷内部の情報に接することのできる立場は、
官僚制度上の官位だけでは測れない力を生み出した。
一方、李蓮英は安徳海のようにその力を露骨に誇示することを避けた。
王公大臣との正面衝突をなるべく避け、慈禧の機嫌を読みながら行動し、
光緒帝との関係も完全には断たなかったと伝えられる。
その慎重さがあったからこそ、官僚から何度弾劾されても失脚せず、
慈禧の死まで宮廷で生き残ることができた。
李蓮英の特徴は、清末政治を裏から自由に操ったことよりも、
皇帝・皇太后・王公・官僚が複雑に対立する晩清宮廷で、
自らの立場を半世紀近く維持したことにあった。
↓↓悪宦官と名高い趙高・魏忠賢についての個別記事は、こちら


歴史的評価
李蓮英に対する評価が難しい理由は、史実上の李蓮英と、
清朝滅亡後に形成された「大太監李蓮英」のイメージが大きく重なっていることにある。
『清史稿』には李蓮英の独立した列伝さえなく、慈禧の伝記などに断片的に登場するにすぎない。
その一方、清末以来の筆記、新聞、回想録、野史、小説などには、
賄賂、蓄財、密謀、暗殺といった大量の逸話が残された。
そのすべてを史実として採用すれば、李蓮英は慈禧を操って清朝を腐敗させた巨大な黒幕になる。
しかし史料を絞って見ると、そこまで強い政治的権限を確認することはできない。
だからといって、単なる無害な身辺奉仕者だったともいえない。
海軍巡閲への随行が朝廷で問題となり、朱一新や王先謙ら官僚から警戒されたこと、
清朝の原則を越える二品頂戴を許されたことは事実である。
最高権力者との私的な近さが公的な秩序へ影響し得る存在だったからこそ、
官僚たちは李蓮英を問題視した。
李蓮英は清朝を動かした「影の宰相」ではなかったが、単なる使用人でもなかった。
制度上は政治権力を持たない宦官でありながら、慈禧という巨大な権力のすぐ近くにいることで、
制度では説明しきれない影響力を獲得した人物だったのである。
まとめ
李蓮英は幼くして宮中に入り、同治・光緒年間を通じて慈禧太后の身辺に仕え、
清代の宦官として異例の二品頂戴にまで達した。
安徳海のように寵愛を露骨に誇示することを避けながらも、
醇親王の海軍巡閲への随行をめぐって官僚から批判されるなど、
その存在はたびたび政治問題となった。
慈禧との距離の近さそのものが、李蓮英に正式な官位を越えた影響力を与えていたためである。
一方、後世に語られた巨額の収賄、後宮の全面支配、官僚人事の自由な操作などには、
伝説や誇張が少なくない。
李蓮英を趙高や魏忠賢のような専権宦官と同一視することも、史実とは距離がある。
1908年に慈禧が死去すると宮廷から退き、1911年に死去した。
慈禧の寵臣として頂点に上りながら、その死後まで生き延びた点にも、
安徳海とは異なる李蓮英の慎重な生き方が表れている。
清末という王朝そのものが揺らいだ時代に、李蓮英が長く権勢を保てた最大の理由は、
政治家として清朝を支配したからではない。
慈禧に仕える者として自らの立場を見極め、
宮廷内の微妙な力関係から大きく踏み外さなかったことにあった。
史書・参考文献
・『清史稿』「孝欽顕皇后伝」
・『清史稿』「朱一新伝」
・『清史稿』「王先謙伝」
・李連英墓誌・墓碑関係資料
・金易・沈義羚『宮女談往録』
・信修明ほか『太監談往録』
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