司馬遷は前漢の武帝時代に活躍した歴史家で、
中国初の通史『史記』を完成させた人物。
しかしその生涯は、李陵事件による投獄と宮刑という苛烈な苦難に満ちていた。
司馬遷とは
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前漢の武帝に仕えた歴史家
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父・司馬談の遺志を継ぎ『史記』を完成
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李陵事件で武帝の怒りを買い宮刑に処される
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宮刑後も執筆を続け、全130巻の『史記』を完成させた
家系と青年期まで
代々“史官”の名門に生まれる
司馬遷は、天文・暦法・歴史記録を司る司馬氏の家に生まれた。
父・司馬談は太史令(国家の天文・歴史を司る官職)で、
司馬遷は幼い頃から高度な教育を受けた。
儒学・古文の学者に師事
司馬遷は孔安国や董仲舒など、当時の一流学者に学び、
古文研究・儒学・天文・易学など幅広い知識を身につけた。
中国各地を巡り歴史資料を収集
20歳頃から各地を旅し、古い記録や伝承を集めた。
この旅が後の『史記』の土台となる。
前漢王朝での仕官
武帝に仕え、太史令へ
父・司馬談の死から3年後、司馬遷は太史令の官職を継承した。
父・司馬談は、歴史書を記そうという構想を持っていたが、
着手できないまま亡くなり、その構想は子の司馬遷に引き継がれた。
李陵事件と宮刑
李陵を弁護して武帝の怒りを買う
匈奴との戦いで将軍・李陵が敗戦。
司馬遷ただ一人彼を擁護したため、 武帝の怒りを買い投獄される。
司馬遷は「死刑」か「宮刑(去勢)」の選択を迫られ、
『史記』完成のために生きる道=宮刑を選んだ。
この決断は後世に「不屈の精神」として語り継がれる。
宮刑後の苦悩と執筆
宮刑の屈辱に耐えながら執筆
宮刑は当時、最も屈辱的な刑罰だった。
司馬遷は社会的地位も名誉も失ったが、
後に中書令として復帰し、 宮刑後も官職に就きながら
「父の遺志を継ぐ」「歴史を後世に残す」という信念で『史記』執筆を続けた。
「自分は死を恐れない。
あの事件の時、死を選ぶのは実に簡単だったが、
もし死んでしまっては自分の命など九頭の牛の一本の毛の価値すらなかった。
死ぬことが難しいのではない、死に対処することが難しかったのだ。
死んでしまえば史記を完成させることが出来ず、
仕事が途中のままで終わるのを自分はもっとも恥とした。
今の自分はただ、『史記』の完成のためだけに生き永らえている身であり、
この本を完成させることが出来たなら、自分は八つ裂きにされようともかまわない。」
『漢書』「司馬遷傳」21-27
<引用:Wikipedia>
『史記』の完成
全130巻・52万字の大著
『史記』は
・本紀12巻
・表10巻
・書8巻
・世家30巻
・列伝70巻
の全130巻から成り、総字数は52万字以上。
中国初の“通史”
殷・周の伝説時代から前漢までを一貫して記した、
中国初の通史であり、後世の正史の模範となった。
独立した視点と寄り添う姿勢
司馬遷は儒家・道家・法家の思想を学びつつ、
権力に迎合しない独立した視点で歴史を記した。
また、屈辱と苦悩の経験は、「李陵伝」「屈原列伝」「刺客列伝」 など、
弱者や敗者に寄り添う筆致に強く表れている。
晩年に『史記』を完成
前91年頃、『史記』を完成させた。 その後まもなく亡くなったとされる。
歴史家の祖としての評価
司馬遷は
・中国史上最大の歴史家
・「太史公」として尊敬される存在
・歴史叙述の基礎を築いた人物
として、今も絶大な評価を受けている。

