竇皇后(とうこうごう、生年不詳-97年)は、
後漢第3代皇帝・章帝の皇后で、諡号を章徳皇后という。
後漢建国の功臣・竇融の曾孫に生まれ、
章帝の寵愛を得て皇后となったが、自身には子がなかった。
そのため宋貴人が生んだ皇太子劉慶を廃位に追い込み、
梁貴人が生んだ劉肇を養子として皇太子に立てた。
劉肇が和帝として即位すると皇太后として臨朝し、
兄の竇憲ら竇氏一族が朝廷で急速に勢力を拡大した。
竇皇后の生涯は、後漢の外戚政治を考えるうえでも重要である。
後漢では幼帝の即位と皇太后の臨朝が繰り返され、
その実家である外戚が政治権力を握る構造が形成されていった。
竇皇后はその初期に位置する皇太后であり、
彼女の時代には兄の竇憲が大将軍として三公を上回る地位にまで達した。
一方、竇皇后自身について史書が詳しく伝えるのは、政治政策よりも後宮での権力形成である。
宋氏・梁氏を排除して和帝を自らの子として養育した過程と、
その死後に和帝が実母梁貴人の名誉を回復した事実は、竇皇后の評価を大きく左右している。
竇皇后の出自と幼少期
後漢屈指の名門・竇氏
竇皇后は扶風郡平陵県の出身。実名は伝わっていない。
曾祖父の竇融は、後漢建国期に河西を支配し、光武帝に帰順した功臣だった。
さらに竇融の七世祖・竇広国は前漢文帝の皇后である竇皇后の弟であり、
竇氏は前漢以来、皇室との結びつきを持つ家系でもあった。
祖父は竇穆、父は竇勛。母の沘陽公主は、光武帝の長男である東海恭王劉彊の娘だった。
したがって竇皇后は父方では後漢功臣の子孫、母方では光武帝の曾孫にあたる。
竇氏は竇融の時代から皇室との婚姻を重ねていた。
竇融の長男である竇穆は内黄公主を妻とし、その子竇勛も沘陽公主を妻とした。
一族には「一公・二侯・三公主・四二千石」が同時に存在したと
『後漢書』が記すほどの繁栄を見せた。
しかし明帝期になると一族の横暴が問題となった。
竇穆らは地方政治に介入し、皇族の婚姻にまで干渉したため処罰され、竇氏の勢力は一時衰退した。
父の竇勛も罪によって死亡し、竇皇后が成長した頃の家はかつての繁栄を失っていた。
幼い頃から「大尊貴」と予言される
家勢が衰えるなか、竇皇后の家ではたびたび人相を見る者を呼び、子供たちの将来を占わせた。
『後漢書』によれば、竇皇后を見た相工はいずれも、将来「大尊貴」となる相であり、
普通の臣下の妻妾となるような容貌ではないと評したという。
また六歳ですでに書を理解し、親族からその才を珍しがられた。
『続漢書』には少し異なる記録が残り、二歳の頃に占わせたところ「大貴」と予言されたともいう。
さらに母の沘陽公主が娘を宮中へ入れようと考えていたことも伝えている。
これらは後に皇后となった人物の幼少期に付加された予兆的な逸話として扱う必要があるが、
少なくとも早い時期から才色について評価されていた女性として史書に描かれている。
章帝の後宮に入り皇后となる
妹とともに宮中へ入る
建初2年(77)、竇氏は妹とともに後宮候補として長楽宮に入った。
『後漢書』は、この時の竇氏について立ち居振る舞いに秩序があり、容姿も非常に優れていたと記す。
章帝は以前から竇氏に才色があるとの評判を聞き、宮中の傅母らにたびたび彼女について尋ねていた。
実際に竇氏を見ると章帝は気に入り、章帝の養母である明徳馬太后も高く評価した。
竇氏は掖庭に入り、北宮の章徳殿で章帝に謁見した。
竇氏は機敏で応対にも優れ、周囲への接し方にも注意を払い、宮中での評判を高めていった。
『続漢書』には、長楽宮に仕える者から侍御に至るまで、
それぞれへの贈答や応対によって相手の心を得たという、より具体的な記述も残されている。
建初3年、皇后に冊立される
建初3年(78)3月、竇氏は皇后に冊立された。妹も貴人となった。
竇皇后は章帝から特別な寵愛を受け、後宮で強い地位を占めた。
建初7年(82)には、すでに亡くなっていた父の竇勛が安成思侯として追封されている。
しかし竇皇后自身には子が生まれなかった。
当時の後宮では宋貴人姉妹と梁貴人姉妹も章帝の寵愛を受けており、
宋大貴人は劉慶を、梁小貴人は劉肇を生んでいた。
劉慶は建初4年(79)に皇太子となっていたため、
実子のいない竇皇后にとって宋氏母子の存在は後宮での地位に直接関わるものとなった。
宋貴人と皇太子劉慶の失脚
母・沘陽公主と宋氏を陥れる
明徳馬太后が存命中、宋貴人は太后からも信頼されていた。
ところが建初4年(79)に馬太后が死去すると、竇皇后の後宮における影響力が強まった。
『後漢書』清河孝王慶伝は、竇皇后が宋貴人姉妹がともに章帝の寵愛を受け、
その子劉慶が皇太子であることを内心で嫌っていたと記している。
竇皇后は母の沘陽公主と相談して宋氏を失脚させようとした。
宮外では兄弟らに宋氏一族のわずかな過失まで探させ、
宮中では側近を使って宋貴人の言動を監視させた。
単に章帝へ讒言しただけではなく、宮内外から宋氏の弱点を探す体制を作っていたことになる。
「生菟」を呪詛の道具とする
やがて宋貴人が病気になり、「生菟」を食べたいので家族に探してほしいという手紙を書いた。
「菟」は兔、すなわちウサギを指す。
竇皇后側は掖庭門でこの手紙を入手し、
宋貴人がウサギを使って厭勝、すなわち呪術による呪詛を行おうとしていると主張した。
竇皇后はこれを材料に日夜章帝へ讒言し、宋貴人母子は次第に皇帝から遠ざけられた。
皇太子劉慶は宮中の承禄観へ移された。
その数か月後、竇皇后は掖庭令を通じて宋氏の罪を正式に上奏させ、詳しい取り調べを求めた。
劉慶を皇太子から廃する
建初7年(82)、章帝は劉慶を皇太子から廃し、清河王とした。
代わって皇太子に立てられたのが、梁貴人の子である劉肇だった。
劉肇はすでに竇皇后が引き取って養育していた。
章帝が劉肇を皇太子とする詔では、
皇后に養育され、その教えを受けて成長したことが立太子の理由の一つとして掲げられている。
宋貴人姉妹は宮中の丙舍へ移され、小黄門の蔡倫が取り調べを担当した。
『後漢書』は、蔡倫らが上意を察して罪状を作り上げたと記している。
宋貴人姉妹はともに毒を飲んで自殺した。
章帝はその死を哀れみ、掖庭令に命じて洛陽城北の樊濯聚に葬らせた。
父の宋楊も官を免じられて故郷へ戻された。
↓↓新しい製紙法(蔡侯紙)を確立した宦官・蔡倫についての個別記事は、こちら

廃太子劉慶への待遇
興味深いのは、竇皇后が劉慶を廃位させた後、章帝が彼を完全に排除したわけではないことである。
劉慶はまだ幼かったが、宋氏について口にすれば災いを招くことを理解し、
母について語ろうとしなかったという。
章帝はかえって劉慶を憐れみ、竇皇后に対して劉慶の衣服を皇太子劉肇と同等にするよう命じた。
劉肇自身も劉慶を慕い、宮中では同じ部屋で過ごし、外出時には同じ車に乗ったと伝えられている。
後に和帝となった劉肇が竇氏を粛清する際、この異母兄劉慶が重要な協力者となる。
和帝の生母・梁氏も排除する
梁貴人の子・劉肇を自分の子として養う
劉肇は建初4年(79)、梁小貴人と章帝の間に生まれた。
梁氏も名門の出身で、梁貴人の父は梁竦。
梁竦の父方は後漢初期の功臣梁統につながり、
梁貴人自身は幼くして母を失った後、伯母にあたる舞陰長公主のもとで養育されていた。
梁貴人は十六歳だった建初2年(77)、姉とともに後宮へ入り、貴人となった。
劉肇が生まれると、子のない竇皇后が引き取って自分の子として育てた。
後漢皇室では、生母とは別の皇后が皇子を養育すること自体は異例ではない。
章帝自身も賈貴人の実子だったが、子のなかった明徳馬皇后に養育され、
馬氏を外戚として扱っている。
竇皇后も同じように、劉肇を自らの子として皇位継承者にした。
梁氏との血縁を隠す
しかし竇皇后は養母となるだけでなく、劉肇と実母の梁氏との関係を切り離そうとした。
『後漢書』は、その理由を「外家の名を独占しようとして梁氏を忌んだ」と記している。
劉肇が皇帝となれば、生母梁貴人の一族も外戚として勢力を持つ可能性があったためである。
劉肇が生まれた時、梁竦ら梁氏一族は公然と祝うことができず、ひそかに喜び合った。
しかしその話が漏れて竇氏側に伝わった。
これが梁氏への警戒をさらに強めたとされる。
匿名の告発文で梁竦を陥れる
建初8年(83)、竇皇后は「飛書」を作って梁竦を陥れた。
飛書とは差出人を明らかにしない告発文、いわば匿名の告発書である。
梁竦は悪逆の罪を問われ、漢陽太守鄭拠の取り調べを受けて獄死した。
梁氏一族は遠く九真郡へ流された。
事件は舞陰長公主にも及び、彼女も新城へ移された。
梁貴人姉妹も深い憂いのうちに死去した。
『後漢書』皇后紀は、この事件以後、後宮の女性たちは恐れおののき、
竇皇后への寵愛はいっそう強まったと記している。
こうして宋氏に続いて梁氏も宮廷から排除され、
劉肇は自分が梁貴人の実子であることを知らされないまま、竇皇后の子として育てられた。
皇太后として臨朝する
章帝の死と和帝即位
章和2年(88)、章帝が死去した。
皇太子劉肇が即位し、第4代皇帝・和帝となった。
まだ十歳前後の幼帝だったため、竇皇后は皇太后となって臨朝し、皇帝に代わって朝政を処理した。
竇太后は母の沘陽公主を長公主とし、湯沐邑三千戸を加増した。
兄の竇憲をはじめ、竇篤・竇景ら兄弟も要職へ進み、竇氏一族の権勢は急速に拡大した。
竇憲を中心とする外戚政権
竇憲は章帝時代から侍中・虎賁中郎将として宮中に出入りしていた。
すでに沁水公主の園田を強引に取得して章帝から厳しく叱責されるなど、
その権勢は問題視されていた。
和帝即位後、竇太后が臨朝すると竇憲の政治的地位はさらに高まった。
竇憲は太傅に鄧彪を推薦し、宮中では桓郁に和帝へ経書を講義させた。
政策は外では鄧彪から上奏させ、内では竇太后へ報告する形を取り、
竇氏を中心とする政治体制が形成された。
ただし、竇太后自身の具体的な政策判断について『後漢書』皇后紀はほとんど記していない。
史料上明確なのは、彼女が皇太后として臨朝し、そのもとで兄弟が顕職を占めたという点である。
↓↓兄・竇憲についての個別記事は、こちら

劉暢暗殺事件と竇憲
竇氏政権の内部では、竇憲が重大事件を起こした。
章帝の喪のため洛陽へ来ていた都郷侯劉暢が竇太后に接近し、寵愛を受けるようになった。
竇憲は劉暢によって宮中での自分の権限が分けられることを恐れ、配下を使って劉暢を暗殺させた。
さらに劉暢の弟・劉剛へ罪を着せようとしたが、真相が発覚した。
竇太后は激怒し、竇憲を宮中に閉じ込めた。
処刑を恐れた竇憲は、北匈奴を討って罪を償うことを願い出た。
ちょうど南匈奴から北匈奴討伐の要請があったこともあり、
竇憲は車騎将軍として出征することになった。
この事件は、竇太后が兄の行動を常に容認していたわけではないことを示している。
北匈奴遠征と竇憲の権力拡大
永元元年(89)、竇憲は北匈奴を攻撃し、稽落山で大勝した。
さらに燕然山まで進み、班固に戦勝を記念する「封燕然山銘」を作らせた。
「燕然勒石」として後世に知られる遠征である。
竇憲は大将軍となり、その席次は三公より上に置かれた。
弟の竇篤・竇景・竇瓌らも高官となり、竇氏一族は後漢朝廷を覆うほどの勢力を持つようになった。
この権力拡大は竇太后の臨朝期に起きたものだが、
軍事・人事を具体的に動かしていた中心人物は竇憲だった。
竇皇后の記事で、竇憲の行動と竇太后自身の行動を同一視しないことは重要である。
和帝による竇氏粛清
成長した和帝が竇氏排除へ動く
和帝は成長すると、竇氏の支配から離れようとした。
永元4年(92)、
竇憲の女婿郭挙らが和帝に危害を加えようとする計画が発覚したと『後漢書』は記す。
和帝は中常侍の鄭衆と密かに協議し、竇憲が軍を率いて洛陽へ戻るのを待って行動した。
宮城と洛陽の城門を軍で固め、郭挙・郭璜・鄧疊らを逮捕・処刑したうえで、
竇憲から大将軍の印綬を取り上げた。
竇憲、竇篤、竇景らは封国へ送られ、その後自殺を命じられた。
↓↓外戚排除に協力した宦官・鄭衆についての個別記事は、こちら

清河王劉慶が和帝を助ける
この粛清では、かつて竇皇后によって皇太子を廃された清河王劉慶も和帝を助けた。
和帝は竇氏を排除するにあたり、過去の外戚粛清の先例を調べようとした。
しかし側近にも竇氏の息がかかっている可能性があり、公然と資料を求めることができなかった。
そこで劉慶に命じ、千乗王から『漢書』の「外戚伝」をひそかに借りさせた。
さらに劉慶を通して鄭衆に連絡し、文帝が薄昭を処罰した例など、外戚処分の故事を調べさせた。
かつて竇皇后が廃位に追い込んだ劉慶が、
竇皇后に養育された和帝による竇氏排除を助けることになった。
竇太后は廃されなかった
兄たちが粛清された後も、竇太后自身は皇太后の地位を失わなかった。
『後漢書』は竇憲兄弟の粛清を記す一方で、竇太后が処罰されたとは記していない。
和帝は実権を取り戻した後も養母である竇太后を皇太后として遇した。
さらに重要なのは、この時点でも和帝が自分の実母が梁貴人であることを知らなかったことである。
梁氏一族の事件は厳重に秘されており、和帝に出生の真相が明らかになるのは竇太后の死後だった。
竇太后の死と死後の廃号論争
永元9年、竇太后死去
永元9年(97)、竇太后が死去した。生年が分からないため享年は不明である。
竇氏が粛清されてから約五年後の死だった。
皇后となった建初3年(78)から数えると、
皇后・皇太后として十八年余りにわたり後宮の最高位にあった。
しかし、竇太后の死によって、それまで封じられていた梁氏事件の真相が表面化した。
和帝が初めて実母の真相を知る
竇太后の死後、梁貴人の姉で南陽の樊調に嫁いでいた梁嫕が和帝へ上書した。
梁嫕は、妹の梁貴人が章帝の寵愛を受けて和帝を生んだにもかかわらず、
竇憲兄弟の讒言によって父の梁竦が獄死し、母や弟たちは遠く九真へ流され、
梁貴人自身も不遇のうちに死んだことを訴えた。
梁氏側からは梁松の子孫である梁扈も三公府へ訴え、
皇帝の生母である梁貴人に尊号を贈り、梁氏一族の名誉を回復するよう求めた。
和帝はここで自らの出生と梁氏事件の真相を知った。
太尉張酺から事情を聞いた和帝は悲しみ、梁氏の名誉回復を進めた。
「呂后のように廃すべき」と議論される
梁氏事件が明らかになると、すでに死去していた竇太后の処遇まで問題となった。
太尉張酺・司徒劉方・司空張奮らは、光武帝が前漢の呂后を高祖の廟から外した先例にならい、
竇太后の尊号を貶し、章帝と合葬すべきではないと上奏した。
百官からも同様の意見が相次いだ。
宋貴人を陥れて自殺に追い込み、その子劉慶を皇太子から廃し、
さらに梁氏を排除して和帝を実母から切り離したことが、
竇太后の死後に改めて問題とされたのである。
↓↓前漢の高祖劉邦の皇后・呂后についての個別記事は、こちら

和帝は養母の尊号を守る
しかし和帝は竇太后の廃号を認めなかった。
和帝の詔によれば、竇氏一族が法に従わなかったこと自体は認めながらも、
太后自身は常に自らを慎んでいたとした。
また、自分は十年にわたって太后に仕えてきたのであり、
臣子が尊長を死後に貶める礼はないと述べた。
さらに前漢昭帝の皇后・上官皇后も、父の上官安が謀反事件で処刑された後に
皇后の地位を剥奪されなかったことを先例として挙げ、竇太后の尊号をそのままとするよう命じた。
こうして竇太后は「章徳皇后」の地位を維持し、章帝の敬陵へ合葬された。
この判断は、和帝が竇皇后によって
実母梁貴人から引き離された被害者だったというだけでは説明できない。
和帝にとって竇皇后は、自分を幼少期から育てた嫡母でもあった。
実母の名誉を回復する一方、養母の皇后としての地位も否定しないという処置が取られた。
実母・梁貴人を恭懐皇后として追尊する
竇太后の葬儀後、和帝は梁貴人の名誉回復を行った。
梁貴人は生前、十分な葬礼を受けていなかったため、
遺骸を承光宮へ改めて殯し、恭懐皇后の諡号を贈った。
和帝は実母のために服喪し、百官も白い喪服を着用した。
梁貴人は姉の大貴人とともに西陵へ改葬された。
父の梁竦も褒親愍侯として追封され、九真へ流されていた梁氏一族は帰還を許された。
一方、かつて皇太子だった清河王劉慶も、
竇太后の死後になって実母宋貴人の墓へ赴いて哀悼することを許された。
劉慶は長年、母の墓を正式に祭ることさえできず、私室でひそかに祭祀を続けていたという。
竇太后の死は、宋氏・梁氏に対して二十年近く続いていた抑圧が解かれる契機ともなった。
竇皇后の人物像と歴史的評価
『後漢書』が描く竇皇后
『後漢書』の竇皇后像には明確な二面性がある。
若い頃については、容貌だけでなく六歳で書を理解した才知、
宮中での整った振る舞い、機敏な応対能力などが肯定的に記されている。
後宮へ入った後も、章帝や馬太后だけでなく周囲から評価を得て皇后となった過程が描かれている。
一方、皇后となってからは、子がないことを背景に宋貴人・梁貴人を警戒し、
皇位継承と外戚の地位をめぐって両家を排除した人物として描かれる。
特に清河孝王慶伝は、宋貴人の手紙を利用した呪詛疑惑、宮中での監視、掖庭令を通じた告発など、
皇后紀より詳しい経緯を伝えている。
梁氏についても、匿名の告発文によって梁竦を陥れ、和帝と実母一族の関係を隠したと記される。
ただし、これらの記述は竇皇后の死後、
和帝が梁氏の名誉を回復した後に形成された史料を含んでいる。
個々の罪状について、史書の記述と実際の事件経過を完全に同一視することには慎重さが必要である。
「無子」が意味したもの
竇皇后に実子がなかったことは、その後の行動を理解する重要な条件だった。
皇后に実子がなく、別の后妃が皇子を生んだ場合、
その皇子が即位すれば生母の一族が外戚として浮上する可能性がある。
竇皇后は梁貴人の子劉肇を養子とすることで、皇位継承者の嫡母となった。
さらに梁氏を排除することで、劉肇の「外家」を竇氏に一本化しようとした
と『後漢書』は説明している。
実際、和帝即位後には竇太后が臨朝し、竇憲ら兄弟が中央政治の要職を占めた。
その意味で宋氏・梁氏の排除は単なる後宮内の寵愛争いではなく、
皇位継承者を誰が掌握し、即位後にどの一族が外戚となるかという政治問題でもあった。
竇皇后と後漢の外戚政治
後漢の外戚政治そのものが竇皇后から始まったわけではない。
明帝の馬皇后と馬氏など、それ以前にも皇后の実家が政治的影響力を持つ例は存在した。
しかし竇皇后の時代には、幼帝の即位、皇太后の臨朝、
皇太后の兄弟の政権参加という構造が明確に現れた。
竇太后の臨朝下で兄の竇憲は大将軍となり、北匈奴遠征の成功によって軍事的威望まで獲得した。
その結果、大将軍の席次が三公より上へ変更されるほどの権力を持つに至った。
一方で和帝は成長すると、宦官の鄭衆と協力して竇氏を排除した。
後漢ではこの後も、鄧太后と鄧氏、梁太后と梁冀、桓帝期の竇氏、霊帝期の何氏など、
幼帝・皇太后・外戚をめぐる政治が繰り返される。
さらに皇帝が外戚を排除する際に宦官の力を借り、その宦官が新たな政治勢力となる構図も現れる。
竇皇后と竇憲の時代は、後漢中後期に繰り返される外戚と皇帝・宦官をめぐる政治構造が
早い段階で現れた事例と位置づけられる。
↓↓班昭から直接講義を受けた鄧綏についての個別記事は、こちら

死後に尊号を守った和帝
竇皇后の評価で見落とせないのが、
最大の被害者ともいえる和帝自身が、彼女の死後の廃号を拒否したことである。
和帝は実母梁貴人が竇氏によって陥れられたことを知り、梁氏の名誉を回復した。
しかし同時に、竇太后を章帝の皇后として敬陵へ合葬した。
史書には、和帝がその理由として「太后常自減損」と述べたことが残されている。
これは竇憲ら外戚の違法行為と竇太后自身を一定程度区別していたことを示す。
また和帝にとっては、血縁上の母が梁貴人であっても、
幼少期から皇太子・皇帝として育てた嫡母は竇皇后だった。
竇皇后は宋氏・梁氏の失脚と切り離せない人物である一方、
後世に単純な「悪后」として追廃されたわけではない。
死後に激しい批判が起こりながらも、
養子である和帝自身の判断によって章徳皇后としての地位を保ったことまで含めて、
その生涯を見る必要がある。
まとめ
竇皇后は後漢建国の功臣竇融の曾孫で、母方でも光武帝の血を引く名門に生まれた。
幼少期から才知と容貌を評価され、建初2年に妹とともに宮中へ入り、翌年に章帝の皇后となった。
実子がなかった竇皇后は、宋貴人の子で皇太子だった劉慶を失脚させ、
梁貴人の子劉肇を養子として皇太子に立てた。
さらに梁氏一族も排除し、劉肇を竇氏の外孫に近い立場で育てた。
章帝の死後、劉肇が和帝として即位すると皇太后として臨朝し、
兄の竇憲を中心とする竇氏一族が朝廷で大きな権力を握った。
しかし永元4年、成長した和帝は鄭衆らと協力して竇氏を粛清し、竇憲らは自殺に追い込まれた。
竇太后自身はその後も皇太后の地位を保ち、永元9年に死去した。
死後、宋氏・梁氏に対する過去の事件が改めて問題となり、
臣下から尊号を剥奪して章帝との合葬を取りやめるべきだとの意見まで出たが、和帝はこれを退けた。
和帝は実母梁貴人を恭懐皇后として追尊する一方、
養母竇皇后についても章徳皇后の尊号を維持して章帝の敬陵へ合葬した。
宋氏・梁氏の排除、養子による皇位継承、皇太后の臨朝、
外戚竇氏の台頭と粛清という一連の出来事は、
後漢の外戚政治がどのように形成されていったかを示す重要な事例となっている。
史書・参考文献
『後漢書』巻4「孝和孝殤帝紀」
『後漢書』巻10上「皇后紀上・章徳竇皇后」
『後漢書』巻23「竇融列伝」
『後漢書』「清河孝王慶伝」
『後漢書』「梁統列伝」
『後漢書』「竇憲伝」
司馬彪『続漢書』逸文
袁宏『後漢紀』
司馬光『資治通鑑』漢紀(章帝・和帝期)
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