陳円円(ちんえんえん)は、明末清初に生きた名妓で、
後世「秦淮八艶」の一人に数えられた女性である。
蘇州で名を上げたのち北京へ連れ去られ、やがて明の武将・呉三桂(ごさんけい)のもとに入った。1644年、李自成(りじせい)が北京を攻略すると、陳円円もその軍勢に捕らえられたと伝えられ、
この出来事が呉三桂による清軍との提携に結びつけられた。
呉偉業(ごいぎょう)の長詩「円円曲」に詠まれた「衝冠一怒為紅顔」の一句によって、
陳円円は「一人の美女が王朝の運命を変えた」という伝説の中心人物となった。
しかし、同時代に近い史料を比較すると、陳円円と呉三桂をめぐる話には多くの異同がある。
出自や北京へ連れて行かれた経緯、李自成軍による連行、晩年の出家や死についても、
後世の伝承と確実な記録を分けて考える必要がある。
陳円円の出自
陳円円の生年については確定していない。
一般には1620年代前半の生まれとされ、1624年説が広く知られている。
本姓を邢(けい)、名を沅(げん)、字を畹芬(えんぷん)とし、
後に陳姓を名乗ったとする説がある。
清初の陳維崧(ちんいすう)が編んだ『婦人集』では、
「姑蘇女子円円、字は畹芬」と記され、蘇州の女性として紹介されている。
ただし、現在広く流布している「幼くして母を失い、姨母の陳氏に養われたため陳姓となった」
といった詳しい出自は、後世の記述によるところが大きい。
出身地についても、蘇州とする記録が基本となる一方、
現在の江蘇省常州市武進区周辺を出生地とする説もあり、詳細は明らかではない。
確かなのは、若いころ蘇州の妓楼・梨園文化のなかで活動し、
歌舞と美貌によって名声を得たことである。
『婦人集』は陳円円を「色芸、一時に擅(ほしいまま)にす」と記している。
単に容貌が美しいだけではなく、歌や舞などの芸能にも優れ、
当時を代表する名妓の一人として知られていた。
蘇州で名を上げる
明末の蘇州は、南京と並んで江南の文人文化が栄えた都市だった。
富裕商人や士大夫が集まり、庭園、書画、演劇、音楽、詩文などの文化が発達した。
そのなかで高級妓女には、容貌だけでなく、歌舞や楽器、詩文、会話など多様な教養が求められた。
陳円円はこの環境のなかで頭角を現した。
清初の文人・冒襄(ぼうじょう)は、陳円円を実際に知った人物の一人である。
後に陳維崧が『婦人集』に記したところでは、
冒襄は女性について「姿致」、すなわち容貌だけでなく立ち居振る舞いや雰囲気を重視し、
自分が生涯で見たなかでは陳円円が唯一抜きん出ていたと評したという。
『婦人集』では、陳円円について「蕙心紈質、澹秀天然」と表現されている。
聡明さと上品さを備え、作為的ではない自然な美しさを持っていたという意味である。
冒襄との関係については後世さまざまに恋愛物語化されているが、
少なくとも冒襄が陳円円を非常に高く評価していたことは、比較的早い時期の記録から確認できる。
冒襄との出会い
冒襄は如皋(じょこう)の名家に生まれ、
方以智(ほういち)、陳貞慧(ちんていけい)、侯方域(こうほういき)とともに
「明末四公子」の一人に数えられた文人である。
冒襄は南京や蘇州をたびたび訪れ、名妓たちとも広く交流していた。
陳円円との出会いについては、冒襄自身の回想や、その周辺の記録から、
二人に親しい関係があったことがうかがえる。
後世には、二人が将来を誓い合ったものの、冒襄が父の救援や科挙などの事情で離れ、
その間に陳円円が権力者によって連れ去られたという物語が広く知られるようになった。
ただし、二人の関係が正式な婚約だったのか、
その約束がどこまで具体的なものだったのかについては慎重に見る必要がある。
それでも、陳円円が姿を消した後も冒襄が彼女を忘れていなかったことは確かで、
後年にもその美しさを高く評価する言葉を残している。
権力者によって北京へ
陳円円の人生が大きく変わったのは、崇禎帝の治世末期である。
崇禎十五年(1642年)頃、陳円円は江南から北京へ連れて行かれたと考えられている。
問題は、誰が彼女を連れ去ったのかである。
史料には大きく二つの系統がある。
陳維崧の『婦人集』は、「戚畹武安侯」が陳円円を奪い、別邸に置いたと記している。
「武安侯」は一般に、崇禎帝の寵妃・田貴妃の父である田弘遇を指すと解釈されている。
一方、別系統の記録では、崇禎帝の皇后・周皇后の父である周奎が、
陳円円を北京へ連れて行ったとする説もある。
そのため、陳円円を江南から北京へ連れて行った人物については、
田弘遇とする説と周奎とする説があり、史料によって一致していない。
崇禎帝への献上説
後世には、陳円円が崇禎帝へ献上するため北京へ連れて行かれたという話も広く伝わっている。
当時の明朝は李自成らの反乱と清の圧力によって危機的な状況にあり、
崇禎帝は政治・軍事問題に追われていた。
そこで外戚が美女を献じようとしたものの、崇禎帝は受け入れなかったとされる。
ただし、この逸話も諸史料で細部が一致しているわけではない。
陳円円が皇帝の後宮へ正式に入った形跡はなく、
最終的には外戚の邸宅に留め置かれていたと考えられる。
『婦人集』は、この時期の陳円円について、
武安侯のもとに置かれながら「若(も)し自得せざる者のごとし」と記している。
つまり、華やかな暮らしを与えられていたとしても、本人は満足していなかったようだと伝えている。
↓↓明朝最後の皇帝・崇禎帝についての個別記事は、こちら

呉三桂との出会い
陳円円が北京へ連れて行かれた後、
その生涯に深く関わることになったのが、明の武将・呉三桂である。
呉三桂は遼東の軍人一族に生まれ、崇禎年間には明朝の有力武将として頭角を現し、
明末には山海関方面の防衛を担って清軍と対峙していた。
陳円円がどのような経緯で呉三桂のもとへ入ったのかについては、史料によって細部が異なる。
清初の劉健が著した『庭聞録』には、
呉三桂が「円円」という呉門の名妓を外戚の家から得たことが記されている。
一方、後世には、外戚の邸宅で開かれた宴席で呉三桂が陳円円の歌舞を見て気に入り、
彼女を譲り受けたという逸話も広く伝えられた。
呉偉業の長詩「円円曲」にも、権門の宴席で陳円円と呉三桂が出会う場面が描かれている。
ただし、「円円曲」は史書ではなく文学作品であり、描写のすべてを史実とみなすことはできない。
出会いの具体的な経緯には不明な点が残るものの、
1644年の北京陥落以前には、陳円円は呉三桂のもとに入っていたと考えられている。
呉三桂が山海関へ戻る
明末、明朝は東北から勢力を拡大する清だけでなく、国内で相次ぐ反乱にも直面していた。
なかでも李自成の勢力は急速に拡大し、1644年初頭には西安を占領して大順政権を樹立すると、
そのまま北京を目指して進軍した。
李自成軍が北京へ迫るなか、
崇禎帝は山海関方面の防衛にあたっていた呉三桂に北京への帰還を命じた。
呉三桂は軍を率いて山海関を離れたものの、北京へ到着する前に李自成軍が都へ迫り、
崇禎十七年三月十九日(1644年4月)、北京は陥落した。
追い詰められた崇禎帝は煤山で自害し、明の中央政権はここに崩壊した。
このとき北京には、呉三桂の父・呉襄をはじめとする呉氏一族が残されていた。
陳円円も北京にいたとする記録があり、
李自成軍による北京占領によって、呉三桂の家族と陳円円も新政権の支配下に置かれることになった。
李自成軍による陳円円の連行
北京を占領した李自成軍は、旧明朝の官僚や富裕層から財産を取り立てた。
この過程で呉三桂の父・呉襄も拘束され、呉家の財産も没収された。
さらに、陳円円が李自成配下の武将・劉宗敏に奪われたという話が伝わる。
これは非常に有名な逸話だが、史料によって記述が異なる。
『婦人集』は、李自成の乱によって陳円円が劉宗敏に略奪されたと明確に記している。
一方、陳円円がその時点で北京にいたのかどうか自体を疑問視する議論も存在する。
そのため、「劉宗敏が陳円円を奪った」という話は清初から存在した有力な伝承ではあるものの、
事件の細部まで確定した史実として扱うことは難しい。
「衝冠一怒為紅顔」
陳円円の名を中国史上最も有名な美女の一人にしたのが、呉偉業の「円円曲」である。
この長詩の冒頭近くに、「慟哭六軍俱縞素、衝冠一怒為紅顔」という有名な句がある。
皇帝の死を悼んで軍全体が喪服を着る一方、
呉三桂は愛する女性を奪われた怒りで冠を突き上げるほど激怒した、という意味である。
ここから「呉三桂は陳円円を奪われたため、怒って清軍を中国へ引き入れた」
という物語が広く定着した。
しかし、実際の政治・軍事情勢はそれほど単純ではない。
呉三桂は本当に陳円円のため清と結んだのか
北京が陥落した後、呉三桂はすぐに李自成との対決を決めたわけではなく、
一時は大順政権への帰順に傾いていたとする記録がある。
しかしその後、北京に残していた父・呉襄が拘束され、呉家の財産も没収されたことを知ると、
李自成側との関係は急速に悪化した。
さらに陳円円が李自成配下の劉宗敏に奪われたという報せを受けて激怒したとも伝えられ、
これらの出来事が後世の「陳円円のために呉三桂が清を引き入れた」という物語につながっていく。
李自成との対決を決意した呉三桂は山海関へ戻り、清の摂政王ドルゴンに援軍を求めた。
崇禎十七年(1644年)四月、李自成は自ら大軍を率いて山海関へ進み、呉三桂軍との戦闘が始まった。
呉三桂だけでは李自成軍を退けることができず、
そこへドルゴン率いる清軍が参戦したことで戦況は大きく変わり、李自成軍は敗れて北京へ撤退した。
清軍はその後北京へ入り、これを足がかりとして中国本土への支配を拡大していくことになる。
この経緯だけを見ると、陳円円を奪われたことが呉三桂を清との提携へ向かわせたようにも見える。
しかし実際には、明朝そのものがすでに崩壊し、李自成が北京を支配する一方、
山海関の外には清の大軍が迫っていた。
北京に残された父や一族の処遇、李自成政権との関係、手元の軍勢を維持する必要、
清との軍事的な力関係など、呉三桂の判断には複数の要因が絡んでいたと考えるべきである。
陳円円がその決断にどの程度影響したのかを史料から確定することはできない。
「愛する女性を奪われた呉三桂が怒り、清軍を引き入れた」
という単純明快な物語を広く定着させたのは、むしろ後に呉偉業が詠んだ「円円曲」だった。
同作の「衝冠一怒為紅顔」という一句はあまりにも有名になったが、
そこには陳円円への愛によって呉三桂の行動を美化するというより、
王朝の興亡にかかわる政治的選択を一人の女性への愛情に帰することへの皮肉も込められている。
呉家一族の殺害
呉三桂が李自成と決定的に敵対すると、北京にいた呉家の人々は報復を受けた。
李自成は呉三桂の父・呉襄ら一族を殺害したと伝えられる。
これによって呉三桂と李自成の和解の可能性はほぼ失われた。
山海関で敗れた李自成は北京へ戻った後、大順皇帝として即位したものの、
ほどなく北京を放棄して西へ撤退した。
呉三桂は清軍とともに追撃に加わり、以後は清朝の有力武将として活動することになる。
陳円円との再会
山海関の戦いの後、陳円円は再び呉三桂のもとへ戻ったと伝えられる。
「円円曲」では、戦乱のさなかに陳円円が馬上で呉三桂の陣営へ迎えられ、
乱れた髪と涙の跡を残した姿で再会する場面が劇的に描かれている。
もちろん、これは詩的表現を含む。
実際にいつ、どこで、どのように再会したのかははっきりしない。
『婦人集』には別系統の記録もあり、
清軍が北京へ入った後、陳円円は「某王」の宮中に入り次妃となったと記されている。
これは一般に知られる呉三桂との再会物語とは食い違う部分であり、
清初の段階から陳円円の動向に異説が存在していたことを示している。
後世の伝記では呉三桂のもとへ戻ったとする話が主流となった。
呉三桂に従う
清朝に仕えた呉三桂は、李自成軍や南明勢力の討伐に参加し、勢力を拡大した。
順治年間には平西王として西南方面へ進軍し、
最終的に雲南を中心とする広大な地域を支配するようになる。
陳円円も呉三桂に従い、西南へ移ったと一般に伝えられている。
「円円曲」には、陳円円が豪華な車列とともに蜀方面へ移動する様子が描かれ、
かつて江南で歌舞を学んだ仲間たちが、
彼女が今や王侯の女性となったことを聞く場面も詠まれている。
呉三桂が雲南に定着すると、昆明には大規模な王府が築かれた。
陳円円もこの時期まで呉三桂の側にいたとされるが、
雲南時代の具体的な生活について信頼性の高い記録は多くない。
色衰えて寵愛を失ったという話
後世の陳円円伝には、年齢を重ねるにつれて呉三桂の寵愛を失ったという話がしばしば現れる。
呉三桂が別の女性を寵愛するようになり、陳円円は王府内での立場を失ったというものである。
しかし、こうした後半生の描写には後世の伝承がかなり混入している。
陳円円が呉三桂の正妻ではなく妾・側室の位置にあったことから、
呉家内部での立場が安定していたとは限らない。
一方で、「若い美女が老いて寵愛を失い仏門に入る」という物語は、
中国の美女伝に繰り返し現れる典型的な筋書きでもある。
したがって、個々の逸話は史料の成立年代を確認しながら扱う必要がある。
出家して「寂静」と号したという伝承
陳円円の晩年について最も有名なのが、出家説である。
呉三桂が雲南を支配していたころ、陳円円は仏門に入り、
「寂静」と名乗った、あるいは「玉庵」と号したと伝えられている。
昆明の三聖庵などを陳円円の出家地とする伝承もある。
出家の理由については諸説あり、
呉三桂の寵愛を失ったためとするもの、
老後を静かに過ごすためとするもの、
さらには呉三桂が清に反乱することを諫めたが聞き入れられず王府を離れたとするものまである。
特に「三藩の乱を起こす呉三桂を陳円円が諫めた」という話は、
後世の陳円円を政治的良識を持った女性として描く伝承の一つである。
ただし、これを裏付ける同時代の強い証拠は乏しい。
出家そのものについては雲南地方の伝承が長く残っており、完全な創作と断定することも難しいが、
その時期や経緯については確定できない。
三藩の乱
康熙十二年(1673年)、清朝が各地の藩王勢力を削減する撤藩政策を進めると、
雲南を支配していた呉三桂はこれに反発して挙兵した。
のちに尚可喜の子・尚之信や耿精忠らも清朝に反旗を翻し、戦乱は中国南部の広い地域へ拡大した。
これが三藩の乱である。
呉三桂は一時大きく勢力を伸ばし、
康熙十七年(1678年)には衡州で皇帝を称して国号を「周」としたが、同年に病死した。
このころの陳円円については、確実な記録がほとんど残っていない。
すでに呉三桂のもとを離れて出家し、政治から距離を置いていたとする伝承がある一方、
引き続き雲南で呉氏一族とともに暮らしていたとも伝えられる。
三藩の乱が始まった時点で陳円円がどこにおり、
呉三桂の挙兵をどのように受け止めたのかは明らかではない。
陳円円の死
陳円円の最期については確かな記録が乏しく、没年も死因も明らかになっていない。
一般には三藩の乱が終結した1681年前後に雲南で死去したとされることが多い。
この年、清軍は昆明を攻略し、
呉三桂の孫・呉世璠が自害したことで、8年に及んだ三藩の乱は終結した。
陳円円も呉氏政権の滅亡に伴って命を絶ったとする伝承があり、なかでもよく知られているのが、
清軍が昆明へ迫った際に蓮花池へ身を投げたという入水自殺説である。
しかし、これとは別に呉氏政権の滅亡後に自縊したとも、病死したとも伝えられ、
すでにそれ以前に尼僧として生涯を終えていたとする説もある。
いずれも決定的な史料を欠いており、
「1681年に昆明で入水自殺した」という最期を確定した史実として扱うことはできない。
さらに後世には、陳円円は三藩の乱を生き延び、雲南から別の土地へ逃れたとする伝承まで生まれた。
この説に従えば、当然ながら1681年の昆明での死亡説そのものが成り立たなくなる。
陳円円の晩年について確実にたどれる史料は限られており、
出家の時期や場所と同様、その死についても複数の伝承を区別して考える必要がある。
岑鞏に残る「陳円円の墓」
陳円円が1681年に昆明で死んだとする説とはまったく異なる伝承が、
現在の貴州省岑鞏県に残されている。
現地には陳円円の墓と伝えられる墓所があり、
呉氏政権の滅亡後、陳円円は関係者とともに雲南を脱出し、
人目を避けて貴州の山間部へ移り住んだとされている。
この伝承では、陳円円は素性を隠して余生を送り、墓碑にも本名を刻まず、別の名を用いたという。
さらに、呉三桂との間に男子をもうけており、その子孫が当地に定住したという話も伝わっている。
このため、岑鞏に残る墓や一族の伝承を根拠として、陳円円は三藩の乱を生き延び、
従来考えられていたより長く生存していたとする説も唱えられるようになった。
ただし、こうした話が広く注目されるようになったのは近現代になってからであり、
陳円円が実際に岑鞏へ移住したことを裏付ける同時代史料は確認されていない。
陳円円の墓とされる場所は昆明周辺などにも存在し、墓所についても諸説がある。
岑鞏に残る墓と子孫の伝承は陳円円の最期を考えるうえで興味深い資料ではあるが、
現段階では本人の墓や子孫であることが確定した史実ではなく、
地方に伝わる有力な伝承の一つとして扱うのが適切である。
「円円曲」が作った陳円円像
陳円円という人物を後世に決定的に印象づけたのは、歴史書よりも呉偉業の「円円曲」だった。
呉偉業は明末清初を代表する詩人で、自身も明朝滅亡を経験した。
「円円曲」は陳円円の美貌と数奇な運命を描きながら、
その背後で呉三桂の政治的選択を批判的に描いている。
冒頭では明王朝の滅亡と山海関の戦いを描き、
そこから陳円円の過去へ遡り、江南から権門へ連れ去られ、
呉三桂と出会い、李自成軍によって奪われ、再び呉三桂のもとへ戻るまでを物語る。
「衝冠一怒為紅顔」という一句だけが独立して有名になった結果、
陳円円は「呉三桂に清軍を引き入れさせた美女」として記憶されるようになった。
しかし、この詩の主眼は陳円円を国家滅亡の原因として非難することではない。
むしろ、王朝の興亡を一人の女性への愛にすり替えて自己正当化する武将への
皮肉が込められていると読むことができる。
陳円円は明を滅ぼした「傾国の美女」なのか
陳円円はしばしば中国史上の「傾国の美女」の一人として扱われる。
しかし、明王朝が滅亡した原因を陳円円に求めることはできない。
明末にはすでに財政危機、農民反乱、軍事制度の疲弊、官僚間の対立、気候変動と飢饉、
清の軍事的圧力などが複雑に絡み合っていた。
1644年に北京を陥落させたのは李自成軍であり、崇禎帝は清軍が北京に入る前に自害している。
呉三桂が清と連携したことは清の中国本土進出に大きな影響を与えたが、
その決断も陳円円だけで説明できるものではない。
「美女によって王朝が滅びた」という物語は、
巨大な政治的失敗を女性個人へ帰属させる古典的な歴史叙述の型でもある。
陳円円について考える場合には、この後世の物語と、
実際に史料から確認できる彼女の人生を分ける必要がある。
史料から見える人物像
陳円円自身が書いたまとまった文章や回想録は残っていない。
そのため、彼女の性格や考え方を直接知ることは難しい。
一方、冒襄の評価を伝える『婦人集』からは、
同時代の文人が陳円円を単なる美貌だけで評価していなかったことが分かる。
「蕙心紈質、澹秀天然」と表現されるように、
聡明さ、上品さ、自然な立ち居振る舞いが高く評価されていた。
冒襄が生涯に見た女性のなかで陳円円を特別視していたという記録も、
当時の評判の高さを示している。
また「色芸擅一時」とあることから、歌舞をはじめとする芸能でも当時屈指の存在だった。
その一方、彼女自身の意志とは無関係に権力者の邸宅へ移され、
戦乱によって別の勢力に捕らえられたという記録が繰り返し現れる。
後世の物語では「呉三桂が国を捨てるほど愛した美女」として描かれるが、
陳円円自身にとっては、明末の権力者や軍人の間を転々とさせられた人生でもあった。
「秦淮八艶」の一人として
陳円円は現在、柳如是(りゅうじょぜ)、顧横波(こおうは)、馬湘蘭(ばしょうらん)、
董小宛(とうしょうえん)、卞玉京(べんぎょくきょう)、寇白門(こうはくもん)、
李香君(りこうくん)とともに「秦淮八艶」の一人に数えられている。
ただし、陳円円は主として蘇州で活動した名妓であり、
「秦淮八艶」という八人組自体も明末当時に固定されていたものではない。
後世、明末江南を代表する名妓たちをまとめる過程で、
その一人として定着したと考えるのが適切である。
八人のなかでも陳円円が特異なのは、その名が文学や芸術だけでなく、
明朝滅亡、李自成の北京占領、山海関の戦い、清軍入関、
呉三桂の生涯といった中国史上の大事件と結びついている点である。
↓↓南京や江南で名を知られた名妓「秦淮八艶」についての個別記事は、こちら

死後に広がった伝説
陳円円の死後、その生涯は史実以上に大きな物語へと発展した。
呉偉業の「円円曲」によって「衝冠一怒為紅顔」が広まり、
後世の戯曲、小説、説話では、呉三桂と陳円円の恋愛が明清交代を左右したかのように描かれた。
さらに出家説、入水説、貴州逃亡説、秘密の子孫説などが次々と加わり、
史料上の陳円円と伝説上の陳円円を切り分けることは次第に難しくなった。
その意味で陳円円は、実在した一人の女性であると同時に、
明朝の滅亡を後世の人々がどのように記憶したかを映す存在でもある。
明末の蘇州で歌舞によって名を上げた名妓が、
外戚の邸宅、呉三桂、李自成軍、清朝の入関という巨大な歴史の流れに巻き込まれ、
やがて「王朝を動かした美女」の象徴へと変わっていったのである。
まとめ
陳円円は、明末の蘇州で美貌と歌舞によって名を知られ、
やがて北京へ連れられたのち、呉三桂と関係を結んだ名妓である。
1644年の北京陥落後に李自成軍へ奪われたという話と、呉三桂による清軍への援軍要請が結びつき、
後世には「衝冠一怒為紅顔」の美女として語り継がれた。
しかし、呉三桂が清と結んだ理由を陳円円一人に求めることはできず、
彼女の出自や晩年、死についても不明な点が多い。
確かな史料から見える陳円円は、美貌だけでなく歌舞に優れ、
冒襄ら同時代の文人から高く評価された女性である。
その一方で、明末の戦乱と権力者たちの都合によって人生を大きく左右された人物でもあった。
後世に作られた伝説を取り除いていくと、
「明を滅ぼした傾国の美女」という単純な人物像とは異なる、
明清交代の激動を生きた一人の女性の姿が見えてくる。
史書・参考文献
・陳維崧『婦人集』
・劉健『庭聞録』
・計六奇『明季北略』
・『甲申伝信録』
・『甲申核真略』
・呉偉業「円円曲」
・冒襄『影梅庵憶語』
・余懐『板橋雑記』
・『清実録』
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