孝荘文皇后(こうそうぶんこうごう、1613年~1688年)は、
清の太宗ホンタイジの側妃であり、順治帝の生母、康熙帝の祖母にあたる女性である。
モンゴル・ホルチン部のボルジギト氏に生まれ、若くしてホンタイジに嫁いだ。
ホンタイジの死後、わずか6歳の息子・福臨が順治帝として即位すると皇太后となり、
さらに順治帝の死後、8歳の康熙帝が即位すると太皇太后となった。
後世には「清朝三代を支えた賢太后」として語られ、順治帝擁立への関与、摂政王ドルゴンとの関係、
康熙帝への影響など、さまざまな逸話や伝説が生まれた。
なかでも有名なのが、夫の弟ドルゴンに再嫁したという「太后下嫁」説である。
しかし、後世に形成された「清朝を陰から動かした女性政治家」という孝荘太后像には、
史料から確認できる事実と、後世の推測や伝説が入り混じっている。
では、史実の孝荘文皇后とはどのような女性だったのか。
ホンタイジの妃となった少女時代から、順治帝・康熙帝の二代にわたる皇帝との関係、
ドルゴンとの「太后下嫁」説、そして75歳で迎えた最期まで、その生涯をたどっていく。
出自とホンタイジ時代
孝荘文皇后は1613年、モンゴル・ホルチン部に生まれた。
姓はボルジギト(博爾済吉特)氏。
父はホルチン部のベイレ・ジャイサン(寨桑)で、のちにホショイ忠親王を追贈されている。
一般にブムブタイ(布木布泰)の名で知られている。
ただし、「布木布泰」を本人の実名とすることについては史料上明確でない点もあり、
同時代の公的記録では主にボルジギト氏、荘妃、皇太后、太皇太后などの
身分・称号によって記されている。
当時のホルチン部は、ヌルハチが率いる後金と婚姻関係を結び、
政治的・軍事的な結びつきを強めていた。
孝荘文皇后の一族も、この満洲とモンゴルの婚姻関係に深く関わっている。
姑の哲哲と姉の海蘭珠
孝荘文皇后より先にホンタイジへ嫁いでいたのが、父ジャイサンの姉にあたる哲哲である。
つまり哲哲は孝荘文皇后の実の姑であった。
哲哲はのちにホンタイジの皇后となり、孝端文皇后と諡される。
1625年、孝荘文皇后もホンタイジのもとへ嫁いだ。
『清史稿』はこの婚姻を「天命十年二月、来帰」と記している。
さらに1634年には、孝荘文皇后の姉である海蘭珠もホンタイジに嫁いだ。
こうしてホンタイジの後宮には、同じホルチン部ボルジギト氏の哲哲、孝荘文皇后、海蘭珠という
姑・姪・姉妹の三人がそろうことになった。
これは単なる偶然ではなく、
後金とホルチン部との政治的同盟を婚姻によって強化する意味を持っていた。
海蘭珠はホンタイジから特に深く寵愛されたことで知られる。
1636年、ホンタイジが国号を大清と改めて皇帝となり、
後宮の制度を整えると、哲哲は皇后、海蘭珠は関雎宮宸妃、孝荘文皇后は永福宮荘妃となった。
宸妃となった海蘭珠の地位は皇后に次ぎ、荘妃より上であった。
そのため、後世の孝荘太后の名声から、
彼女がホンタイジ時代から後宮の中心人物だったように描かれることがあるが、
少なくとも当時の後宮における序列では、皇后哲哲や宸妃海蘭珠の下に位置していた。
三人の皇女と福臨の誕生
孝荘文皇后はホンタイジとの間に一男三女をもうけた。
1629年に生まれた皇四女ヤトゥは、のちの固倫雍穆長公主である。
1632年には皇五女アトゥが生まれ、のちに固倫淑慧長公主となった。
1633年に生まれた皇七女は、のちに固倫端献長公主と諡された。
三人はいずれもモンゴル系の有力者と婚姻を結んでおり、
清朝皇室とモンゴル諸部との関係を支える存在となった。
なかでも皇五女の淑慧長公主は母から特に愛されたと『清史稿』に記されている。
康熙12年(1673年)に孝荘太后が病気になった際には、
康熙帝が彼女を北京へ呼び寄せ、その後もたびたび入朝している。
そして1638年、孝荘文皇后は男子を出産した。
ホンタイジの第九子、福臨である。後の順治帝だった。
ただし、この時点で福臨が皇位継承者として特別な立場に置かれていたわけではない。
ホンタイジにはすでに複数の皇子がおり、なかでも長男ホーゲは軍功を重ねた有力な皇族だった。
福臨とその母の運命が大きく変わるのは、1643年にホンタイジが急死してからである。
↓↓息子・福臨(後の順治帝)についての個別記事は、こちら

順治帝の即位と皇太后時代
1643年、ホンタイジは後継者を明確に定めないまま急死した。
清朝は重大な皇位継承問題に直面する。
有力候補となったのは、ホンタイジの長男ホーゲと、
ホンタイジの異母弟で軍事的実力を持つドルゴンだった。
皇族・諸王の勢力が対立するなか、最終的に皇帝として選ばれたのは、どちらでもなかった。
孝荘文皇后が生んだ6歳の福臨である。
福臨が即位して順治帝となり、ドルゴンとジルガランが摂政として幼帝を補佐する体制が成立した。
孝荘文皇后は皇帝の生母として皇太后となった。
後世には、孝荘太后がドルゴンと密かに交渉し、
息子を皇帝にすることに成功したという物語が広く語られるようになる。
しかし、1643年の皇位継承交渉に彼女がどこまで直接関与したのかは明確ではない。
福臨即位の背後で孝荘太后が政治工作を行ったと断定できる確実な史料はなく、
「孝荘太后がドルゴンを説得して息子を皇帝にした」という筋書きを、
そのまま史実として扱うことはできない。
清の北京入城とドルゴン
順治帝即位の翌1644年、明では李自成が北京を攻略し、崇禎帝が自害した。
山海関を守っていた明将・呉三桂は清に援軍を求め、
ドルゴン率いる清軍は山海関を越えて李自成軍を破った。
清軍は北京へ入り、順治帝も北京へ移る。
これによって清は、満洲を本拠とする王朝から、
中国全土の支配を目指す王朝へ大きく変わっていった。
この時期の政治を主導したのは摂政王ドルゴンだった。
ドルゴンの権力は次第に強まり、「皇叔父摂政王」、さらに「皇父摂政王」と称されるようになる。
一方、孝荘太后がドルゴン政権下で具体的にどのような政治活動を行ったのかについて、
史料は必ずしも多くを語っていない。
後世の作品では、ドルゴンと孝荘太后が協力して清朝を支えたように描かれることが多いが、
両者の政治的関係を具体的に復元することは難しい。
そして、この史料上の空白から生まれた有名な説が「太后下嫁」である。
ドルゴンとの関係と「太后下嫁」説
ホンタイジの死後、孝荘太后がその異母弟ドルゴンに再嫁したという「太后下嫁説」は、
清初をめぐる有名な論争の一つである。
この説が生まれた背景には、当時の満洲社会の婚姻習慣と、
ドルゴンが順治帝の摂政として極めて大きな権力を握ったことがある。
満洲社会には、夫の死後、その妻が夫の兄弟などと再婚するレビラト婚の慣習があり、
こうした婚姻そのものは前代には珍しいものではなかった。
さらにドルゴンは、順治帝即位後に「皇叔父摂政王」、
のちには「皇父摂政王」と称されるまでになった。
「皇父」という異例の称号は、後世に孝荘太后との関係を疑わせる材料の一つとなった。
もう一つ、下嫁説と結びつけられてきたのが孝荘太后の埋葬場所である。
彼女は夫ホンタイジが眠る盛京の昭陵には合葬されず、
順治帝の孝陵に近い清東陵に昭西陵が築かれた。
この異例の埋葬も、「ドルゴンに再嫁したため、ホンタイジと合葬されなかったのではないか」
とする説の根拠に挙げられてきた。
しかし、孝荘太后とドルゴンが正式に婚姻したことを明確に記した
同時代の公的記録は確認されていない。
また、ホンタイジの時代には、満洲社会に残っていた旧来の婚姻慣行を改める動きも進んでいたため、
レビラト婚の慣習が存在したことだけで再婚を裏づけることはできない。
「皇父摂政王」という称号についても、
ドルゴンの政治的権威を示す尊称とみることができ、婚姻関係を直接示すものではない。
埋葬については、孝荘太后自身の遺言が『清史稿』に記されている。
そこでは、ホンタイジの昭陵はすでに長く安置されているため自分のために動かすべきではなく、
順治帝と康熙帝を慕っているため、孝陵の近くに葬ってほしいという意向が示されている。
このように、太后下嫁説が生まれた背景には複数の事情があるものの、
いずれも再婚を直接証明するものではない。
孝荘太后とドルゴンの関係には不明な部分が残るが、
現在確認できる史料から、二人が正式に婚姻したと史実として断定することはできない。
ドルゴンの死と順治帝の親政
1650年、ドルゴンは狩猟中に病に倒れ、39歳で死去した。
当初、順治帝はドルゴンを手厚く弔ったが、
その後ドルゴンに対する告発が相次ぎ、生前の専横が追及された。
爵位や尊号は剥奪され、墓も暴かれた。
ドルゴンの死によって、13歳の順治帝は親政へ移行する。
順治帝は生母に尊号を奉り、孝荘太后の地位も改めて確立された。
順治11年(1654年)には、孝荘太后の父ジャイサンにホショイ忠親王、母に賢妃が追贈されている。
順治13年(1656年)の孝荘太后の誕生日には、順治帝が自ら三十首の詩を作って献上した。
また、母の教えを受けて『内則衍義』を編纂し、
序文を添えて進呈したことも『清史稿』に記録されている。
母子関係を単純に「政治的対立」と捉えることはできず、
少なくとも公式記録には、順治帝が母后に敬意を示した事例が残されている。
順治帝は董鄂妃を深く寵愛したが、1660年に彼女が若くして死去すると大きな悲しみに沈んだ。
翌1661年、順治帝自身も天然痘により24歳で死去した。
孝荘太后は夫ホンタイジに続き、息子にも先立たれることになった。
しかし、清朝には再び幼い皇帝が残された。順治帝の第三皇子・玄燁、後の康熙帝である。
↓↓順治帝の寵妃・董鄂妃についての個別記事は、こちら

康熙帝と孝荘太后
1661年、順治帝が24歳で死去すると、第三皇子の玄燁が8歳で即位した。康熙帝である。
孝荘太后は太皇太后となり、夫ホンタイジの時代から数えて三代目の皇帝を見守る立場となった。
康熙帝はまだ幼く、順治帝の遺詔によって
ソニン、スクサハ、エビルン、オボイの四人が輔政大臣となり、政務を補佐した。
孝荘太后自身が表立って政務を執ったわけではないが、
幼くして父を失った康熙帝にとって、祖母である彼女は皇室内の重要な存在だった。
祖母と孫の関係については、具体的な記録が残されている。
康熙9年(1670年)、康熙帝は太皇太后を奉じて順治帝の孝陵へ参詣した。
翌年には盛京へ赴き、ヌルハチの福陵とホンタイジの昭陵にも参詣している。
康熙11年(1672年)、太皇太后が赤城の温泉へ向かった際には、
険しい長安嶺で康熙帝が馬を降り、自ら輿のそばに付き従った。
帰路に大雨となっても徒歩で進み、太皇太后が馬に乗るよう命じても従わず、
山を下りてからようやく騎乗したという。
康熙帝が成長して親政を行うようになってからも、この関係は変わらなかった。
孝荘太后は政治の表舞台に立つ摂政ではなく、太皇太后として皇室の最上位にあり、
康熙帝から厚い孝養を受け続けた。
三藩の乱と宮中の財物
1673年、呉三桂が反乱を起こし、三藩の乱が始まった。
清朝にとって国家存亡にも関わる大規模な内戦となり、鎮圧には長い年月を要した。
この戦乱の際、孝荘太后が具体的な軍事作戦を指揮したわけではない。
しかし『清史稿』には、彼女自身の行動として興味深い記録が残っている。
長年にわたって戦地で戦う将兵の苦労を思い、宮中の金銀や絹を出して恩賞に加えさせたのである。
また、各地で災害が起きたと聞くと、宮中の財物を出して救済に充てたとも記されている。
1675年にチャハル部のブルニが反乱を起こした際にも、孝荘太后はある老女を気遣っている。
慈寧宮に仕える庶妃の母親が90歳を超えてチャハル地方に暮らしていると知ると、
康熙帝に対し、出征軍が現地で略奪を行わないよう命じてほしいと伝えた。
後世の「賢太后」像とは別に、こうした具体的な行動は史料にも残されている。
また、清初には皇后・妃や王侯の妻たちのもとへ、命婦たちを交替で出仕させる慣習があったが、
孝荘太后はこれを廃止させたとされる。
彼女を単純に「政治の黒幕」と見るよりも、
皇室の最高長老として宮廷秩序や皇族社会に影響を与えた人物と捉えるほうが、
史料に見える姿には近い。
オボイ排除への関与は不明
康熙帝の幼少期には、四大臣の一人オボイが次第に強大な権力を握った。
1669年、康熙帝はオボイを捕らえ、親政を本格化させる。
このオボイ排除についても、後世には孝荘太后が背後で康熙帝を助けたという物語が語られてきた。
しかし、孝荘太后がオボイ逮捕の計画を
具体的に立案・指導したことを明確に示す史料は確認できない。
孝荘太后が幼い康熙帝にとって重要な存在だったことと、
個々の政治事件を彼女が裏から操ったことは分けて考える必要がある。
晩年と死
康熙帝の成長後も、孝荘太后は太皇太后として宮廷の最上位にあり続けた。
康熙帝との関係も晩年まで深かった。
康熙24年(1685年)、康熙帝が塞外へ避暑に出ていたとき、
孝荘太后が病気になったとの知らせが届き、康熙帝は滞在先から急いで北京へ戻っている。
幸いこのときは回復したが、康熙26年(1687年)9月、再び病に倒れた。
康熙帝は昼夜を問わず祖母のそばで看病した。
12月には天壇へ赴き、自分の寿命を削ってでも祖母の命を延ばしてほしいと天に祈ったという。
祝文を読みながら康熙帝が涙を流し、
陪祀していた諸王・大臣たちも泣いたと『清史稿』は伝えている。
しかし孝荘太后の病状は回復しなかった。
臨終を迎えるにあたり、彼女は康熙帝に自らの埋葬について言い残した。
夫ホンタイジが眠る昭陵はすでに長く安置されているので、自分のために動かしてはならない。
そして自分は順治帝と康熙帝を慕っているので、順治帝の孝陵の近くに安置してほしい、
という内容だった。
康熙26年12月25日、孝荘太后は死去した。75歳だった。
康熙帝の悲嘆は深く、本来より長い服喪を望んだが、
王・大臣たちから遺詔に従うよう繰り返し求められ、最終的に受け入れた。
37年間埋葬されなかった孝荘太后
孝荘太后の死後、康熙帝は難しい問題に直面した。
清朝の祖制に従えば、ホンタイジの妃だった彼女は盛京の昭陵に葬られるのが自然だった。
しかし、それでは孝陵の近くに葬ってほしいという祖母の遺言に反する。
康熙帝は孝荘太后が生前暮らしていた宮殿の建物を移し、
河北・遵化の清東陵に「暫安奉殿」を建て、1688年に棺を安置した。
ところが康熙帝は、祖母の正式な陵墓を最終的に決定しないまま死去する。
孝荘太后の棺は、長期間にわたって暫安奉殿に置かれ続けた。
問題を解決したのは康熙帝の子、雍正帝である。
雍正3年(1725年)、暫安奉殿の場所を正式な陵墓として整備し、「昭西陵」と命名した。
孝荘太后の死から38年後、棺が暫安奉殿に移されてから数えて37年後のことだった。
昭西陵が清東陵の風水牆の外側に位置する特殊な陵墓となったことは、
のちに「太后下嫁」説と結びつけられることになる。
しかし、孝荘太后自身の遺言が記録されている以上、
昭西陵の位置だけをドルゴンとの再婚の証拠とすることはできない。
孝荘文皇后の人物像と評価
孝荘文皇后については、後世に非常に強い「賢太后」のイメージが形成された。
ホンタイジを支え、ドルゴンと交渉して順治帝を皇帝にし、幼い順治帝を守り、
さらに康熙帝を教育して名君へ育て、オボイ排除や三藩の乱でも助言したという人物像である。
しかし、これらをすべて史実として扱うことはできない。
特にホンタイジ死後の皇位継承工作、ドルゴンとの政治的密約、
オボイ排除への具体的関与などについては、後世の物語ほど明確な史料が残っているわけではない。
一方で、孝荘文皇后が単に「皇帝の母・祖母だっただけの女性」だったわけでもない。
『清史稿』には、三藩の乱で戦う将兵へ自らの財物を与えたこと、
災害時に救済のため宮中の財物を出したこと、出征軍による略奪を戒めるよう康熙帝に求めたこと、
宮廷の旧習を廃止したことなどが記録されている。
順治帝からは誕生日に三十首の詩を贈られ、康熙帝からは険しい山道で自ら輿を支えられ、
病床では昼夜を問わず看病された。
二人の皇帝から厚い敬意を受けたことは、後世の創作ではない。
孝荘文皇后の生涯で特に注目されるのは、清朝そのものの変化と人生が重なっていることである。
彼女がホンタイジに嫁いだ1625年、清はまだ成立しておらず、ヌルハチが後金を率いていた。
その後、ホンタイジによる清の建国、明の滅亡、北京への遷都、順治帝による中国支配、
康熙帝の親政、三藩の乱の平定までを経験した。
モンゴル草原の有力部族から後金へ嫁いだ少女は、
やがて中国を支配する清朝皇室の最高長老となったのである。
彼女を「清朝を陰から操った女性政治家」とだけ評価すると、
史料の乏しい部分まで政治活動として説明することになる。
むしろ、皇帝の生母・祖母という立場を通じて皇室内で長期にわたる権威を持ち、
順治帝と康熙帝という二人の幼帝の時代を経験しながら、
清朝草創期から安定期への移行を見届けた女性として捉えるほうが、その実像に近い。
まとめ
孝荘文皇后は1613年、モンゴル・ホルチン部のボルジギト氏に生まれ、
1625年にホンタイジへ嫁いだ。
ホンタイジの後宮では永福宮荘妃となり、三人の皇女と一人の皇子を生んだ。
その皇子・福臨が1643年に順治帝として即位したことで皇太后となり、
さらに孫の玄燁が康熙帝として即位すると太皇太后となった。
その生涯には、順治帝の皇位継承、ドルゴンの摂政政治、清の北京入城、順治帝の親政、康熙帝即位、
オボイの時代、三藩の乱など、清朝初期を代表する出来事が次々と重なっている。
一方、「ドルゴンと協力して順治帝を擁立した」「ドルゴンへ再嫁した」
「康熙帝を政治的に教育した」「オボイ排除を裏から指揮した」といった有名な孝荘太后像には、
史料から確認できない部分も多い。
それでも、三藩の乱に従軍する将兵へ宮中の財物を与え、災害時には救済を行い、
康熙帝から深い孝敬を受けたことなど、彼女自身の具体的な言動は史料にも残されている。
1687年、孝荘文皇后は75歳で死去した。康熙帝は祖母の遺言を尊重し、ホンタイジの昭陵ではなく、
順治帝の孝陵に近い清東陵へ棺を移した。
のちに雍正帝によって昭西陵が造営され、現在までその陵墓が残されている。
後世の伝説を取り除いても、孝荘文皇后がホンタイジ・順治帝・康熙帝の三代にまたがり、
清朝が満洲の政権から中国王朝へ変貌していく時代を生き抜いた重要な皇室女性であったことに
変わりはない。
史書・参考文献
・『清史稿』巻214「后妃伝」孝荘文皇后
・『清太宗実録』
・『清世祖実録』
・『清聖祖実録』
・孟森「太后下嫁考実」
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