【東晋】司馬道福|王献之との再婚で知られる簡文帝の公主

東晋の皇女・司馬道福 03.公主

司馬道福(しばどうふく)は、東晋の皇帝・簡文帝(司馬昱)の娘で、
新安公主に封じられた女性である。

彼女自身の言動を伝える史料はほとんど残されていない。
それにもかかわらず司馬道福の名が後世まで知られているのは、
二度の結婚がいずれも東晋を代表する名門士族と結びついていたためである。

最初の夫は、東晋最大の実力者となった桓温の子・桓済だった。
しかし桓温の死をめぐって桓氏内部で争いが起こり、桓済は失脚する。
その後、司馬道福が再婚したのが「書聖」王羲之の末子として知られる王献之だった。

ところが王献之には、すでに郗道茂(ちどうも)という妻がいた。
『晋書』によれば、王献之は晩年になっても郗氏との離婚を忘れることができなかったという。

後世には、王献之が公主との婚姻を避けるため自ら足を灸した
という有名な逸話まで語られるようになった。
ただし、司馬道福が王献之を見初めて強引に奪ったという物語と、
史料から確実に確認できる事実とは分けて考える必要がある。

簡文帝の娘として生まれる

司馬道福の父は、東晋第八代皇帝の簡文帝・司馬昱である。

『太平御覧』に引用された『晋中興書』では、
「新安愍公主道福、簡文第三女、徐淑媛所生」と記されている。
これによれば司馬道福は簡文帝の第三女で、母は徐淑媛だった。

一方、『晋書』では母を徐貴人としている。
位号には史料による違いがあるものの、徐氏を母とする簡文帝の娘だったことは確認できる。

簡文帝は東晋初代皇帝・元帝の末子で、もともとは会稽王として長く政界にいた人物である。
東晋では皇帝以上に琅邪王氏、陳郡謝氏、譙国桓氏などの有力士族が大きな政治力を持ち、
皇室は彼らとの協調なしには政権を維持できなかった。
皇族女性の婚姻も、こうした政治秩序と無関係ではない。

司馬道福自身について、幼少期の逸話や性格、容貌、教育などを伝える記録は残されていない。
史料上で彼女の姿が具体的に現れるのは、東晋でも屈指の勢力を誇った桓氏との婚姻からである。

桓温の子・桓済に嫁ぐ

司馬道福の最初の夫は桓済だった。
桓済の父・桓温は東晋を代表する軍人・政治家で、成漢を滅ぼし、
たびたび北伐を行ったことで知られる。
さらに皇帝・司馬奕を廃して簡文帝を即位させるなど、
晩年には皇帝の廃立にまで介入するほどの権力を握った。

その桓温自身も皇室と婚姻関係を結んでいた。
妻の南康公主は明帝の娘であり、桓温は皇帝の女婿だった。

さらに桓温の子・桓済が簡文帝の娘である司馬道福を妻としたことで、
桓氏と司馬氏皇族の関係は次世代にも続いた。

桓済は桓温の次男とされ、臨賀県公に封じられ、給事中を務めた。
父の権勢を背景とした貴公子であり、公主の夫となる相手として家格に不足はなかった。

しかし、この婚姻は桓温の死を境に大きく揺らぐことになる。

桓温の死と桓済の失脚

寧康元年(373年)、桓温が死去した。
桓温は生前、長男の桓熙を後継者として十分ではないと考え、
自らの弟である桓沖に軍事的な権限を託していた。

これに不満を持ったのが桓熙と桓済だった。
二人は叔父の桓秘とともに桓沖を排除しようとしたが、
計画は失敗する。桓沖は桓熙・桓済を捕らえ、二人を長沙へ移した。
父の巨大な権力を継承するどころか、桓済は中央政界から排除されることになったのである。

『晋中興書』は司馬道福について「桓済に嫁ぎ、重ねて王献之に嫁いだ」と簡潔に記している。
桓済との婚姻がどのような手続きによって解消されたのか、
離婚の時期がいつだったのかまでは詳しく記録されていない。

そのため、「桓済が流罪になったので司馬道福が直ちに離婚した」「司馬道福自身が夫を捨てた」
といったところまで断定することはできない。

確実なのは、桓済との婚姻が終わり、司馬道福がのちに王献之と再婚したということである。

王献之との再婚

司馬道福の二人目の夫となった王献之は、琅邪王氏の出身だった。
父は「書聖」と称される王羲之である。
王献之自身も優れた書家として名声を得て、後世には父とともに「二王」と並称された。

『晋書』は若い王献之について「少有盛名,而高邁不羈」と記し、
早くから名声があり、気位が高く世俗に縛られない人物だったとする。
さらに一日中家にいても立ち居振る舞いが崩れることはなく、
その風流は当時随一だったと高く評価している。
家柄だけでなく、名声、教養、人物ともに当代を代表する青年貴族だった。

『晋書』王献之伝には、州主簿、秘書郎などを経た王献之について、「以選尚新安公主」とある。
「尚公主」は男性が公主を妻とすることをいい、
王献之が選ばれて新安公主と結婚したことが正史から確認できる。

ただし、『晋書』はここで司馬道福が王献之を見初めたとも、
彼女が父帝や皇族に結婚を願い出たとも記していない。

後世には「司馬道福が王献之に恋をし、どうしても彼と結婚したいと望んだ」
という物語が広く語られるようになったが、
少なくとも現存する主要史料から彼女自身の意思をそこまで具体的に復元することは難しい。

王献之には郗道茂という妻がいた

この再婚を複雑なものにしたのが、
王献之には司馬道福以前に郗道茂(ち・どうも)という妻がいたことである。

王献之の母方の親族にあたる名門郗氏の女性で、父は郗曇だった。
郗氏もまた東晋を代表する士族である。
王献之の父・王羲之の妻は郗璿であり、王氏と郗氏には以前から深い婚姻関係があった。

後世には王献之と郗道茂を
「幼いころから愛し合った夫婦」「仲睦まじい理想の夫婦」と描く話が数多く作られた。
そうした細部には後世の脚色を含む可能性があるが、
王献之が郗氏との離婚に強い感情を残していたこと自体には史料的な裏付けがある。

王献之の書簡として伝えられる文章にも、郗氏との別離を嘆いたとみられるものが残る。

長く一緒に過ごし、このまま老いるまで連れ添うつもりだったのに、思いがけず別れることになった。これからどうすれば朝夕に会うことができるのか――という趣旨の内容で、
後世の研究者も郗氏との離別に関係する書簡とみている。
したがって、王献之にとって郗氏との離婚が単なる形式上の妻の交代ではなかったことはうかがえる。

一方、なぜ二人が離婚しなければならなかったのかについて、『晋書』は理由を明記していない。
王献之が新安公主と結婚したことと、前妻郗氏との離婚を生涯悔いていたことは確認できる。
しかし、「司馬道福が王献之を奪うために郗道茂を離婚させた」とまで書けば、
史料の記述を越えることになる。

「王献之が足を焼いた」という逸話

王献之と司馬道福の婚姻でもっとも有名なのが、
王献之が結婚を避けるため自分の足を焼いたという話である。

一般には、王献之は郗道茂と離婚したくなかったため、
新安公主との婚姻を命じられると、艾(もぐさ)を使って自ら足を灸し、
身体に障害があるように見せて婚姻を免れようとしたと語られている。

このため王献之は「足を焼いてまで新安公主との結婚を拒んだ人物」として紹介されることが多い。
ただし、この逸話の扱いには注意が必要である。

唐代に編纂された『晋書』王献之伝は、
王献之が新安公主と結婚した事実を記しているものの、拒婚のため足を焼いたとは記していない。
また、『晋中興書』の司馬道福に関する記録も、
桓済に嫁いだのち王献之に再嫁したとするだけである。

したがって、王献之の「灸足」は有名な伝承ではあるものの、
司馬道福との婚姻について正史から直接確認できる事実として扱うべきではない。

同様に、
「司馬道福が王献之に一目惚れした」「王献之が障害者になっても構わないと言って結婚を迫った」
といった細部も、後世に形成された恋愛物語の要素が強い。
史料上確実なのは、王献之が郗氏と離婚し、新安公主を妻としたというところまでである。

王献之は死の間際まで離婚を悔いていた

王献之が前妻との離婚をどう考えていたのかについては、『晋書』に印象的な記録がある。

晩年、王献之が重い病にかかった際、家族は道教の儀式を行った。
当時の道教には、病人が自らの過失を告白して神に赦しを求める「首過」という行為があった。

そこで道士が王献之に、これまでの人生で何か過失や後悔することがあるかと尋ねた。
王献之は、「不覚余事、惟憶与郗家離婚」と答えたという。
ほかのことは思い当たらない。ただ郗家との離婚だけを思い出す、という意味である。

『世説新語』にもほぼ同じ話が収録されており、
王献之と郗氏との離婚が後世まで知られていたことがわかる。

ここで重要なのは、王献之が「新安公主が嫌だった」と語ったわけではないことである。
記録されているのは、あくまで郗氏との離婚に対する悔恨だった。

司馬道福との夫婦仲が悪かったのか、結婚後に二人がどのような生活を送ったのかについて、
史料はほとんど何も語っていない。
そのため、王献之の郗道茂への思いと、司馬道福との夫婦関係をそのまま同一視することはできない。

王献之との間に王神愛をもうける

司馬道福と王献之の間には娘が生まれた。王神愛である。
『晋書』后妃伝は王神愛を王献之の娘とし、母を新安愍公主と明記している。
別の史料では「神受」とするものもある。

王献之には男子がいなかったため、王氏の家そのものは兄の子を養子として継がせているが、
司馬道福との間に生まれた王神愛はのちに皇室へ嫁ぐことになる。

太元二十一年(396年)、王神愛は皇太子・司馬徳宗の妃となった。
司馬徳宗は翌年、孝武帝の死を受けて即位する。東晋第十代皇帝・安帝である。
これによって王神愛は皇后となり、安僖皇后と呼ばれた。

司馬道福から見れば、自分は簡文帝の娘であり、
その娘である王神愛が再び司馬氏皇室へ嫁いだことになる。

王神愛と安帝は血縁上も無関係ではない。
簡文帝を共通の祖とする皇族の近親婚であり、
東晋皇室と琅邪王氏の結びつきをさらに重ねる婚姻だった。

王神愛は義熙八年(412年)、二十九歳で死去し、休平陵に葬られた。子はなかった。

娘が皇后となり王献之も追贈される

王献之は娘が皇后になるより前に死去している。
『晋書』では王献之は病によって官職にあるまま死去したとされる。
一般には太元十一年(386年)の死とされ、四十代前半だった。

その後、王神愛が安帝の皇后になると、皇后の父となった王献之にも死後の栄典が与えられた。
王献之は侍中・特進・光禄大夫・太宰を追贈され、「憲」と諡された。

司馬道福自身が娘の立后まで存命だったのか、
いつ死去したのかについては明確な記録が残されていない。

彼女に「愍」という諡が付され、新安愍公主と呼ばれたことは確認できるが、
その死因や没年、墓所についても詳しいことはわからない。

二度の婚姻について比較的はっきりした記録が残る一方、
それ以外の生涯についてはほとんど史料から姿を消している。

司馬道福は王献之を強引に奪った公主だったのか

司馬道福はしばしば、王献之と郗道茂を権力で離婚させ、自ら王献之を夫にした公主として語られる。
しかし、現存史料に司馬道福が王献之との結婚を望み、二人の離婚を働きかけたとする記録はない。

一方、王献之が郗道茂との離婚を望んでいなかったことをうかがわせる記事は残る。
王献之が足を焼いて新安公主との婚姻を避けようとしたという逸話や、
後年になって郗氏との離婚を悔やんだという記録である。

したがって、王献之にとってこの再婚が不本意だった可能性は高いが、
その責任を司馬道福個人に帰すことはできない。

史料が伝えるのは皇女である司馬道福と王献之が再婚したという事実であり、
「恋敵を権力で排除して王献之を奪った公主」という人物像は、後世に形成された解釈の域を出ない。

まとめ

司馬道福は東晋の簡文帝・司馬昱の娘で、母は徐氏だった。
新安公主に封じられ、最初に桓温の子・桓済へ嫁ぎ、その後、王羲之の子・王献之と再婚している。

二人目の結婚が後世まで語られた最大の理由は、王献之に郗道茂という前妻がいたためだった。
王献之は晩年、人生で悔いることを問われた際に郗氏との離婚を挙げたと
『晋書』や『世説新語』は伝えている。

一方、「司馬道福が王献之に恋をして結婚を強要した」「王献之が足を焼いて拒んだ」
といった有名な物語には、史料上確認しにくい部分も少なくない。

司馬道福本人の言葉は残されておらず、性格や王献之への感情、結婚後の夫婦関係もわからない。
後世に形成された「王献之と郗道茂を引き裂いた公主」という人物像と、
史料から確認できる司馬道福の生涯は区別して見る必要がある。

確実に言えるのは、彼女が桓氏と王氏という東晋屈指の名門に相次いで嫁ぎ、
王献之との娘・王神愛がさらに安帝の皇后となったことである。

司馬道福の二度の婚姻は、皇帝の娘である公主と有力士族との結びつきが、
東晋の政治社会においてどれほど重要だったかを示す一例でもある。

史書・参考文献

・『晋書』巻八十「王羲之伝附王献之伝」
・『晋書』后妃伝「安僖王皇后」
・『世説新語』徳行篇
・『晋中興書』逸文
・『太平御覧』巻一五二「皇親部・公主」

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