司馬道福(しばどうふく)は、東晋の皇帝・簡文帝の娘である。
最初は桓温の子に嫁いだが、夫の失脚で離婚し、その後に王羲之の子・王献之と再婚した。
だが、この再婚は穏やかなものではなかった。
王献之にはもともと深く愛し合う妻・郗道茂がいたため、
彼はこの縁談を避けようとして自ら足を焼いたという有名な逸話が残る。
それでも縁談は止まらず、王献之は前妻と離別して司馬道福と結婚した。
この出来事は、東晋皇族の権威と名門士族の私生活が正面からぶつかった事件
として語られている。
簡文帝の娘として生まれる
司馬道福は、東晋の皇帝 簡文帝(司馬昱)の娘として生まれた。母は徐貴人とされる。
史料では、彼女は初め余姚公主に封じられ、のちに新安公主と呼ばれる。
東晋の公主は皇帝の娘として高い身分を持っていたが、
その婚姻はしばしば個人の希望より家格や権威を優先して決められた。
司馬道福もまた、そうした立場に置かれた皇族女性だった。
最初の結婚
司馬道福は最初、桓温の次男である桓済に降嫁した。
桓温は東晋後期の最大の実力者であり、
その一族との婚姻はきわめて政治的な意味が強かった。
しかし桓済は後に罪を得て流罪となる。
その結果、司馬道福は桓済と離婚した。
この離婚によって、彼女は再び皇族女性として新たな婚姻の対象となった。
そしてここから、司馬道福の名を最も有名にした王献之との結婚事件が始まる。
王献之との縁談
相手は王羲之の子だった
司馬道福が再婚相手として望んだのが王献之である。
王献之は書聖・王羲之の第七子であり、東晋を代表する名門王氏の人物だった。
書道史上でも父と並んで名高く、家柄・名声・才能も申し分ない相手だった。
郗道茂という前妻の存在
だが、王献之にはすでに妻がいた。それが郗道茂(ち・どうも)である。
郗道茂は名門郗氏の女性で、王献之とは仲の良い夫婦として知られていた。
つまりこの縁談は、すでに愛妻家として知られる男に求婚したことになる。
史料上の流れでは、司馬道福側が王献之を望み、
簡文帝もこれを認めて婚姻を進めたとされる。
つまり、ここで嫌がっていたのは主に王献之側であり、
司馬道福を「嫌々嫁がされた公主」として書くのは合わない。
足を焼いた逸話
王献之は結婚を拒もうとした
王献之は司馬道福との縁談を望まず、これを避けるために自ら足を火で焼いたと伝えられる。
体に障害が残れば公主との婚姻は立ち消えになる、と考えたのだろう。
しかし結果として、この抵抗でも婚姻は止まらなかった。
前妻との離別を強いられる
最終的に王献之は、妻・郗道茂と離別し、司馬道福と結婚することになった。
ここにあるのは、単なる恋愛のもつれではない。
この事件では、
・司馬道福は王献之を望んだ
・王献之は妻を愛していて拒んだ
・それでも公主との婚姻は押し切られた
という構図がはっきりしている。
つまりこれは
・皇帝の娘が望む結婚
・名門士族でも拒めない現実
・個人の夫婦関係が権力に押し切られる構図
を示す事件だった。
司馬道福と王献之の結婚生活
一人娘・王神愛が生まれる
司馬道福と王献之の間には王神愛という娘が生まれた。
王神愛はのちに晋安帝の皇后となる。
この点から見ると、司馬道福と王献之の結婚は東晋皇室と王氏を結ぶ血縁として
一定の結果を果たしたといえる。
王献之は前妻を忘れられなかったとされる
とはいえ、後世に強く残ったのは「公主と王献之の間に娘が生まれた」という事実より、
王献之が前妻を忘れられず、足を焼いてまで再婚を拒んだという印象の方だった。
後世の物語では、王献之は郗道茂を忘れられず、
失意のうちに生涯を終えたと語られることが多い。
少なくとも、司馬道福との結婚が「望んだ婚姻」ではなかったというイメージは、
古くから強く伝えられてきた。
そのため司馬道福は、中国史では「王献之を前妻から引き離した公主」
として記憶されやすくなった。
まとめ
王献之はこの結婚を望まず、前妻との離別を強いられたことから、
後世には司馬道福に対して否定的な人物像が語られることも多い。
少なくとも史料の流れでは、王献之との婚姻は司馬道福側が望んだ形で進んでいる。
彼女は東晋皇族の娘として、自分の望みが通るだけの権威の中にいたからだ。
司馬道福の人生が面白いのは、彼女が「どんな女性だったか」以上に、
一人の公主の結婚が、東晋の皇族権威の強さを露わにしたことにある。
史書・参考文献
・『晋書』列伝(簡文帝・王献之関連記述)
・『資治通鑑』晋紀
・東晋皇族・王氏関連史料

