孫程は後漢の安帝・少帝・順帝の三代に仕えた宦官。
125年の宮中クーデターを主導し、
悪宦官・江京らを誅殺して、皇太子劉保(順帝)を復位させた人物。
後漢史の中では珍しく、「宦官が宦官を討つ」正義のクーデターを成功させたことで知られる。
孫程とは
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安帝期に中黄門となる
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功績により浮陽侯に封じられる
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その後、失脚と復権を繰り返し、132年に死去
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死後、車騎将軍の印綬を追贈され「剛侯」と諡される
安帝期:鄧太后死後の混乱と孫程の立場
鄧太后の死で外戚政治が崩壊
121年、安帝の後見人であった鄧太后(鄧綏)が死去。
これを機に、宮中では
江京、李閏、樊豊、劉安、陳達 らの宦官グループと、
王聖(安帝の乳母)、耿宝、閻顕 といった外戚勢力が専横し始める。
皇太子劉保(のちの順帝)が廃位
この専横の中で、皇太子劉保は冤罪で廃位され、済陰王に降格されてしまう。
孫程はこの時点では中黄門として宮中にいたが、劉保に同情的だったとされる。
125年:宮中クーデターの勃発
安帝の死と少帝(劉懿)の即位
125年、安帝が死去。
江京らは安帝の死を隠し、 少帝(劉懿)を即位させる。
しかし少帝は即位後すぐに重病となる。
孫程、劉保復位の密議を開始
少帝の病状が悪化すると、
孫程は、長興渠(済陰王の謁者)、王康(中黄門)王国(長楽太官丞) らとともに、
廃太子・劉保を復位させる計画を立てる。
西鐘の下で18名が誓いを立てる
11月2日、孫程ら18名は西鐘の下に集まり、 単衣を頭にかぶって誓いを立てた。
これは「死を覚悟した決起」の象徴的儀式で、 後漢書にも強調されている。
江京誅殺と劉保(順帝)の復位
11月4日夜、クーデター決行
孫程らは崇徳殿に集合し、章台門から宮中へ突入。
孫程と王康は、江京、劉安、陳達 を斬殺し、
李閏を脅して劉保擁立に同意させた。
劉保、順帝として即位
孫程らは劉保を西鐘の下に迎え、 順帝として即位させる。
専横していた閻顕は捕らえられ、獄に送られた。
このクーデターは、「悪宦官を討ち、正統な皇太子を復位させた」 という
後漢史でも珍しい成功例となった。
功績とその後の栄達・失脚
浮陽侯に封じられ、騎都尉となる
クーデターの功績により、孫程は、浮陽侯、騎都尉 に任じられた。
司隷校尉・虞詡に告発され失脚
126年、司隷校尉・虞詡に罪を告発され、 免官されて封国へ送られる。
※後漢書にも具体的な罪状は書かれていない
しかし孫程は憤り、印綬を返して洛陽へ逃亡。
順帝により捕らえられ、封国へ戻された。
再び復権
128年、順帝は孫程を再び召還し、 騎都尉に復職させた。
晩年と死
132年、孫程の病が重くなり、奉車都尉、特進の位を受けた。
死後は 車騎将軍の印綬を追贈され、「剛侯」と諡された。
歴史的評価
宦官としては珍しい“正義のクーデター”
孫程は
・皇太子の冤罪を晴らし
・悪宦官を討ち
・正統な皇位継承を回復した
という点で、後漢史では例外的に評価が高い。
しかし、孫程の活躍は、江京の専横(安帝期) と五侯(桓帝期) の間に位置し、
宦官が皇位継承に直接介入する前例を作った人物でもある。
それでも、125年のクーデターだけは後漢史の重要な転換点であり、その功績は大きい。

