周瑜|赤壁の戦いを勝利に導いた呉の名将

三国(呉)の将軍・周瑜 022.武将

周瑜後漢から三国時代初期活躍した名将あり、
曹操赤壁戦い司令官としてられる人物ある。

単なる軍人ではなく、政治・外交・文化通じ人物た。
また容姿端麗れ、当時人々から「郎」呼ばれるほど男子た。

名門・廬江周氏に生まれる

周瑜揚州廬江名門士族「廬江氏」出身ある。
一族からは高官が多く出ており、祖先には太尉を務めた人物もいたという。
父は 周異。洛陽で官職に就いていた人物であり、周家は地方の有力士族だった。

そのため周瑜は若い頃から高い教育を受け、文武両道の人物として成長した。

孫策との出会い

若き日の友情

周瑜人生決定けた孫策 出会いある。
孫策父・孫堅死後、江東勢力拡大しようとして頃に出会た。

二人はほぼ同年代であり、若いから非常親しい関係あった。
ともにお互いの母親へ挨拶するなど良好な関係を築き、
家族同然の付き合いをしたという。

江東攻略への参加

孫策江東平定開始すると、周瑜その軍事行動参加した。

周瑜は、「軍事」「行政」「人材登用」すべて才能せ、
孫策重要側近た。

二喬との結婚

周瑜と孫策の関係は単なる主従ではなく、
「断金の交わり」と呼ばれるほど固い友情で結ばれていた。

江東
平定した孫策は、名門美女姉妹迎えた。
孫策が姉の 大喬 を妻にし、周瑜が妹の 小喬 を妻にしたことで、
二人は義理の兄弟の関係にもなった。

この「江東喬」後世文学でも有名美女姉妹としてられる。

孫策の死と周瑜

200年、孫策刺客われ死亡すると、若い 後継た。

このとき孫策に対して

内政に、周瑜相談


遺言した伝えいる。

この言葉は、周瑜どれほど信頼ていたか示しいる。

周瑜の政治的役割

政権周瑜は、軍、将軍など役職務めた。
単なる軍人ではなく、外交政治関わる重要人物た。

また人材推薦することに積極で、
 ・

 ・

など人物推挙したれる。
周瑜の人材登用の能力は、呉政権の基盤を作ることに大きく貢献した。

優れた統率力

史実周瑜
 ・
人心掌握
 ・
組織統率
 ・
作戦立案
指導評価いる。

特に政権成立したばかり頃、
周瑜若い主君支えながら軍事体制え、基盤た。

黄祖討伐

孫策死後、江東勢力安定ていなかた。
周瑜 討伐参加し、江東安全確保貢献した。

この戦いによって勢力長江流域安定した。

周瑜の人物像

美男子としての周瑜

周瑜容姿端麗れ、「郎」ていた。

正史『三国志』でも

「長壮有姿貌」(にし姿あり)

おり、背が高く、体格も堂々した男子あっことわかる。

後世は「郎」という呼び名まった。

音楽の達人

周瑜音楽も精通していた。

酒宴演奏ていも、
演奏者間違えるすぐ振り向いという逸話ある。

ここから誤り顧みる」という言葉生まれた。

これ音楽才能示す逸話として有名ある。

度量の広い人物

小説『三国志演義』では、周瑜諸葛亮嫉妬する人物としてかれる。

しかし正史ではそのよう記録なく、
むしろ諸葛亮才能認めていれる。

実際周瑜
 ・
人材推薦する
 ・
部下われる
など、度量広い人物評価いる。

寛大で人心掌握に優れた人物

周瑜非常寛大性格で、つかむことにてい伝えられる。

度量示す有名逸話が、宿 関係ある。

古参武将あり、若くして要職周瑜て、
しばしば侮辱するよう態度ってた。
しかし周瑜これ怒ることなく、常に尽くした。

その姿勢次第にたれ、やがて周瑜尊敬するようという。
周瑜交友について

周公交わるは、極上飲むようもの

れる。

この言葉は、周瑜人柄良さ象徴する逸話としている。

曹操・劉備が恐れた人物

周瑜才能から評価ていた。
曹操周瑜自分陣営引きこうし、
使者 って説得ようしたという。

また劉備は、周瑜離間ようする策略が、これ失敗いる。

このよう逸話からも、周瑜当時いかに重要人物たかがわかる。

赤壁の戦い

曹操の南征

208年、北方統一した 曹操 大軍進軍し、
劉備勢力そうした。

このとき曹操軍は20万以上とも言われる大軍であり、
孫権の呉は存亡の危機に立たされる。

孫劉同盟

政権降伏する戦う重大決断た。

周瑜
 ・
曹操不慣れ
 ・
北方疫病弱い

分析し、戦うきだ主張した。
孫権はこの意見を採用し、曹操軍と戦うことを決断する。

こうして成立したのが有名な 孫劉同盟(孫権と劉備の同盟)である。

黄蓋の火計

赤壁戦いでは、曹操艦隊火攻め壊滅させる作戦採用た。

老将 黄蓋 が偽装投降を行い、曹操軍の船団に火を放った。
曹操軍の船は鎖でつながれていたため火は一気に広がり、艦隊は壊滅した。

この作戦
 ・
周瑜
 ・

 ・

によって実行れ、中国史上もっとも有名戦い一つた。

江陵の戦い

赤壁の戦いの後、周瑜はさらに曹操軍を追撃した。

周瑜曹操 戦い、江陵って激戦げた。
この戦いは長期戦となった。周瑜受けとも伝えいる。

しかし最終江陵奪取し、長江流域支配確立した。

劉備との緊張関係

赤壁後、劉備荊州支配すると、劉備関係次第に緊張する。

周瑜荊州問題劉備警戒ていた。

益州攻略計画

周瑜赤壁後、益州(現在四川)攻略する計画立てた。
当時益州 支配ていた。

周瑜
 ・益州奪取
 ・
劉備勢力抑える

という戦略立てていた。

周瑜の最期

赤壁戦い後、周瑜さらに西進軍し、益州(現在四川)攻略する計画立てていた。
当時の益州は劉璋が支配しており、周瑜はそこを攻め取ることで呉の勢力拡大を狙っていた。

しかし遠征準備れ、死亡した。
当時まだ30半ばあり、非常早いた。

その悲しみ、

周瑜よう助ける人物もうない」

伝えられる。

三国志演義の周瑜

小説『三国志演義』では、周瑜諸葛亮ライバルとしてかれる。
では
 ・
草船
 ・
東南
 ・
周瑜憤死
など物語登場する。

また特に有名

亮 (瑜が生まれたのに、なぜ亮まで生まれたのか)


という
言葉演義創作あり、正史存在しない。

周瑜の評価

周瑜
 ・
軍略
 ・
政治家
 ・
文化
という三つ側面持つ人物であり、呉政権の基礎を築いた功臣の一人である。

赤壁戦い勝利は、三国鼎立基礎ともわれいる。

まとめ

周瑜三国志中でも屈指名将あり、
 ・
孫策親友
 ・
軍師
 ・
赤壁戦い英雄
として活躍した人物ある。

男子として有名あり、
さらに音楽文化通じ文武両道人物た。
寛大で人心掌握に優れた人格者としても知られている。

36というが、
その軍略カリスマ三国志大きな足跡いる。

史書・参考文献

 ・陳寿『三国志』書・周瑜
 ・
注『三国志注』
 ・
司馬光『資治通鑑』
 ・
羅貫中『三国志演義』