蘭京|蘭陵王の父 高澄を暗殺

蘭京が高澄を暗殺する瞬間を描いた中国風イラスト。刀を振り下ろす蘭京と倒れ込む高澄、ひっくり返った牀と血しぶきが緊張感を演出する場面 020.人物

蘭京(らん けい、生年不詳 – 549年)は、
南北朝時代、東魏の権臣・高澄を暗殺した人物である。
またの名を固成ともいう。

彼はもともと南朝梁の武将・蘭欽の子として生まれたが、
戦乱の中で東魏に捕らえられ、奴隷に身を落とした。
その後、高澄の邸宅の厨房で働くという屈辱的な立場に置かれる。

出自と奴隷転落の経緯

蘭京の父・蘭欽は史書の評価では、陳慶之と並ぶ梁の代表的名将とされ、
梁武帝期の軍事を支えた重要人物である。

南北朝時代は戦争が頻発し、捕虜はしばしば奴隷として扱われた。
蘭京もその一人である。

 ・名門出身
 ・東魏軍に捕縛される
 ・奴隷として売られる
 ・高澄の邸宅で厨房労働に従事

さらに、父の蘭欽は息子を取り戻すために金銭での身請けを試みたが、高澄はこれを拒否した。

高澄への恨みと決定的事件

蘭京自身もまた、解放を高澄に願い出たが、これも拒絶される。
それどころか、高澄は配下の薛豊洛に命じて蘭京に杖罰を加えさせた。
この出来事が、蘭京の復讐心を決定的なものにした。

 ・自由を奪われた屈辱
 ・父の努力が無視された絶望
 ・さらに加えられた肉体的屈辱

これらが重なり、蘭京はついに反乱を決意する。

暗殺計画:仲間とともに決起

蘭京は、仲間とともに計画を練った。

 ・弟・阿改を含む6人
 ・内部にいる「厨房の人間」という立場を利用
 ・武器を隠して接近する計画

極めて実践的であり、計画性の高さがうかがえる。

高澄暗殺事件の全貌(549年)

武定7年(549年)8月辛卯。
高澄は、東魏の孝静帝からの禅譲を受けるべく、
晋陽北城の東柏堂で側近と密談していた。

このとき:
 ・護衛は遠ざけられていた
 ・限られた人物のみが同席
 ・警備は極めて手薄

ここが蘭京にとって最大の好機となる。

襲撃の瞬間:現場の混乱と側近たちの最期

蘭京は食事を進上する機会に、刀を盤に隠して高澄に近づいた。

そして――
 ・高澄に斬りかかる
 ・高澄は牀の下に逃げる
 ・蘭京は牀を引き剥がして殺害
  ※牀(しょう):意味は「ベッド」「寝台」「腰掛け」など、昔の“寝るための台”を指す

暗殺現場は一瞬で混乱に陥った。

 ・陳元康:高澄を庇って刺され死亡
 ・楊愔:狼狽して逃走(片方の靴を残す)
 ・崔季舒:厠に逃げ込む
 ・紇奚舎楽:応戦して戦死
 ・王紘:負傷

また、薛豊洛(かつて蘭京を打った人物)は現場に駆けつけたが、逆に捕らえられた。

最後:高洋による鎮圧と凄惨な処刑

事件を知った高澄の弟・高洋(後の北斉文宣帝)は、
即座に兵を率いて現場へ向かった。

蘭京らは高洋率いる兵に掃討されて全滅した。

さらに――
 ・遺体は高洋自らによって斬り刻まれる
 ・頭蓋骨は漆塗りにされる

補足:この事件の歴史的影響

この暗殺事件は、単なる個人的復讐にとどまらない影響を持った。

 ・高澄の急死により政権が動揺
 ・弟・高洋が権力を掌握
 ・やがて北斉建国へ(550年)

つまり蘭京の行動は、結果的に王朝交代の引き金の一つとなった可能性がある。

まとめ

蘭京は、
 ・名門の子として生まれ
 ・奴隷に転落し
 ・屈辱の末に権力者を殺害し
 ・即座に惨殺された人物

である。
その人生は短く、そして激烈であった。
彼は単なる暗殺者ではなく、
「南北朝という動乱の時代が生んだ極端な存在」と言えるだろう。

史書・参考文献

・『北斉書』
・『魏書』
・『資治通鑑』

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