宋元

01.皇后

【北宋】劉娥|真宗の皇后から仁宗の摂政となった章献明粛皇后の生涯

劉娥(りゅうが)は北宋真宗の皇后・章献明粛皇后で、真宗死後は幼い仁宗の皇太后として垂簾聴政を行った。貧しい出自から皇后へ上った生涯、寇準らとの政争、仁宗の生母・李宸妃をめぐる「狸猫換太子」伝説、皇帝に準じた権威を持ちながら帝位を奪わなかった最期まで、『宋史』をもとに実像を詳しく解説する。
01.皇后

【南宋】李鳳娘|「黒い鳳凰」と恐れられた美しき皇后の狂気と実像

李鳳娘(りほうじょう)は南宋第3代皇帝・光宗の皇后。嫉妬深い性格を伝える史書には、宮女の手を切り落とした事件や黄貴妃殺害の記録が残る。孝宗と光宗の父子関係の悪化、嘉王趙拡の皇太子冊立をめぐる対立、孝宗の葬儀にも参列しなかった光宗の退位、寧宗即位後の晩年まで、宮廷を揺るがした行動とその政治的影響をたどる。
06.女傑

【南宋】梁紅玉|韓世忠とともに金軍に抗した南宋の女傑・黄天蕩の戦いと生涯

梁紅玉(りょうこうぎょく)は、南宋の名将・韓世忠の妻として金軍との戦いに関わった女性。高宗が皇位を奪われた苗劉の兵変では復位に貢献し、黄天蕩の戦いでは太鼓を打って宋軍を鼓舞したと伝わる。金軍の脱出を許した夫を弾劾した記録、安国夫人・護国夫人の封号、出自や戦死をめぐる伝承まで、その生涯と後世の女将軍像をたどる。
034.文人・学者

【北宋】欧陽脩|北宋を動かした文人官僚と古文復興の実像

欧陽脩(おうようしゅう)は北宋を代表する文人・政治家で、唐宋八大家の一人である。范仲淹らの慶暦の新政を支持して左遷され、滁州で『酔翁亭記』を執筆。古文運動を主導し、科挙では蘇軾・蘇轍・曾鞏らを見出した。『新唐書』『新五代史』の編纂、朋党論、王安石との関係まで、その生涯と功績を詳しく解説する。
034.文人・学者

【北宋】王安石|新法を断行した改革者と新法・旧法の争い

王安石(おうあんせき)は北宋神宗に登用され、熙寧の新法を主導した政治家・思想家である。青苗法・均輸法・募役法・市易法・保甲法など財政・軍事改革を断行し、司馬光や欧陽脩らと対立。二度の宰相辞任、新法の成果と弊害、神宗死後の元祐更化、唐宋八大家に数えられる文学者としての側面まで詳しく解説する。
034.文人・学者

【北宋】司馬光|王安石と対立した旧法派の指導者で『資治通鑑』の編者

司馬光(しばこう)は北宋を代表する政治家・歴史家で、『資治通鑑』を編纂した旧法派の中心人物である。王安石の青苗法・募役法など新法に反対して洛陽へ退き、19年をかけて大著を完成。神宗死後は哲宗朝で宰相となり元祐更化を進めた。幼少期の「破甕救友」、新法廃止をめぐる評価、死後の党争への影響まで詳しく解説する。
034.文人・学者

【北宋】蘇軾(東坡居士)|詩・詞・書・絵画に通じ逆境すら楽しんだ天才の実像

蘇軾(そしょく/蘇東坡)は、北宋の政治家・文学者で、唐宋八大家の一人。王安石の新法を批判し、烏台詩案で投獄された後、黄州へ左遷された。黄州では「赤壁賦」「念奴嬌・赤壁懐古」を著し、杭州では西湖の浚渫と蘇堤の築造に携わった。朝廷内の政争によって恵州、さらに海南島の儋州へ流され、赦免後の1101年に常州で66歳で死去。詩・詞・書画に才能を発揮した生涯をたどる。
034.政治家・文官

【南宋】秦檜|岳飛を処刑に追い込んだ宰相と紹興の和議、権力独占の生涯

南宋の政治家・秦檜(しんかい)は「奸臣」の代名詞とも言われる存在である。しかし史実や政策を見直すと評価は単純ではない。彼の実像と影響をわかりやすく解説する。
034.政治家・文官

【北宋】蔡京|六賊筆頭の実像と北宋滅亡の原因

蔡京(さいけい)は北宋徽宗期に長く宰相を務め、後世「六賊の筆頭」とされた政治家である。王安石の新法を継承して元祐党人を排斥し、元祐党籍碑を建立。童貫らと権力を握り、花石綱などで民衆の負担を増大させた。方臘の乱、度重なる失脚と復帰、靖康前夜の流刑と死まで、北宋末の政治と滅亡との関係を史料から詳しく解説する。
034.政治家・文官

【南宋】虞允文|采石磯の戦いで金軍を破り、宰相となった文官の生涯

虞允文(ぐいんぶん)は、金の海陵王・完顔亮による南侵を1161年の采石磯の戦いで阻止した南宋の文官。45歳で科挙に合格し、敗走した宋軍を立て直して水軍を指揮した。戦後は湯思退と領土割譲をめぐって対立し、四川の軍備改革や人材登用を進めて宰相に昇進。北伐を準備しながら1174年に病死するまでの生涯をたどる。