常遇春|「常十万」と恐れられた明朝建国を支えた猛将の生涯

常遇春(明・武将) 033.武将

常遇春(じょうぐうしゅん、1330年-1369年)は、
元末の戦乱で朱元璋に従い、明建国を支えた武将である。字は伯仁。
安徽省懐遠の出身で、徐達とともに朱元璋軍を代表する将軍として「徐常」と並び称された。

もとは劉聚のもとで盗賊集団に加わっていたが、その将来に見切りをつけて朱元璋へ帰順した。
1355年の長江渡河では、元軍が守る采石で真っ先に岸へ飛び移って突破口を開き、
その後も集慶・鎮江・常州・寧国・衢州など各地を転戦した。

陳友諒との戦いでは龍湾で勝利し、
鄱陽湖の戦いでは朱元璋の船へ迫った敵将・張定辺を射て危機から救った。
張士誠との戦いでも湖州・平江攻略に加わり、江南統一後は徐達の副将として北伐へ参加する。
洛水では元軍五万を破り、大都攻略、太原攻略、陝西平定を経て、
明建国直後の北方戦線でも主力を担った。

常遇春は「十万の兵を率いれば天下を横行できる」と自負したことから「常十万」と呼ばれた。
『明史』は戦場で「未だかつて敗北しなかった」と評する一方、
降伏兵を大量に殺した記録も残している。勇猛さと苛烈さを併せ持った武将だった。

洪武2年(1369年)、北元を追って開平を攻略した帰途、柳河川で急死した。わずか40歳だった。

朱元璋軍の先鋒として戦い続け、
明建国からわずか一年余りで世を去った常遇春の戦歴と「常十万」の実像を史実からたどる。

常遇春の出自|盗賊から朱元璋のもとへ

常遇春は元の至順元年(1330年)、濠州懐遠に生まれた。

『明史』はその容貌を「貌奇偉、勇力絶人、猿臂善射」と記しており、
堂々とした体格で人並み外れた腕力を持ち、長い腕で弓を巧みに扱った人物として描いている。

しかし、若い頃から軍人として正規の経歴を歩んだわけではない。

元末には政治の混乱に加えて災害や飢饉が相次ぎ、各地で反乱や武装集団が蜂起していた。
常遇春も当初は劉聚という人物のもとで盗賊集団に加わった。
やがて劉聚には大事を成し遂げる力がないと判断し、新たな主君を探すようになる。
その時に目をつけたのが、郭子興の勢力から台頭しつつあった朱元璋だった。

至正15年(1355年)4月、常遇春は和陽にいた朱元璋のもとへ向かった。

『明史』には、その途中で田野に寝ていた常遇春の夢に甲冑を着け盾を持った神人が現れ、
「起きろ、主君が来る」と告げ、目覚めるとちょうど朱元璋が現れたという逸話が記されている。

後世的な英雄誕生譚としての性格が強い話だが、
常遇春が朱元璋へ帰順した時期そのものは確認できる。

「腹を満たすために来ただけだろう」

朱元璋のもとへ入った常遇春は、すぐに自分を先鋒として使ってほしいと願い出た。

しかし朱元璋は、常遇春が劉聚のもとを離れてきたばかりだったことから、
「お前は腹を空かせて食事を求めて来ただけではないのか」と簡単には信用しなかった。
それでも常遇春が強く願い続けると、朱元璋は長江を渡る際にその働きを見てから判断すると答えた。

その機会はすぐに訪れた。
朱元璋は江南へ勢力を広げるため長江を渡り、元軍が守る采石の攻略へ向かっていた。
ここで常遇春は自ら敵陣へ飛び込み、
朱元璋から先鋒を任せるに足る武勇を実戦で証明することになる。

采石の戦い|敵前へ飛び移って突破口を開く

朱元璋軍が牛渚磯へ迫ると、元軍は岸に陣を構えて待ち受けていた。
船と岸の間には三丈余りの距離があり、兵士たちは容易に上陸できなかった。

常遇春は小舟で前へ出ると、朱元璋の合図を受けて戈を構えた。
岸の元兵がその戈をつかむと、常遇春は逆にその力を利用して岸へ飛び移り、
大声を上げながら敵陣へ突入した。

元軍が崩れると後続の兵士も次々に上陸し、朱元璋軍は采石を攻略した。
その勢いで太平も奪い、常遇春は総管府先鋒に任じられる。

朱元璋への帰順から間もない時期に、文字通り先鋒として軍功を立てたのである。

その後、元の中丞・蛮子海牙が水軍で采石を奪い返して長江の交通を遮断すると、
常遇春は再び前線へ出た。軽舟で敵船へ突入してこれを破り、朱元璋軍は水路を回復する。

常遇春は溧陽を守った後、集慶攻略でも大きな功績を挙げ、徐達に従って鎮江を攻略した。

張士誠軍が牛塘で徐達を包囲した際には救援に駆けつけ、敵軍を破ってその将を捕らえる。
この功績で統軍大元帥となり、常州攻略後には中翼大元帥へ昇進した。

寧国攻略では矢を受けて負傷したものの、傷を包んだまま戦い続けて城を落とした。

さらに馬駝沙、池州、婺州と転戦し、
衢州では奇兵を使って南門の甕城へ突入して敵の防御設備を破壊し、甲士一万人を獲得している。

一方、杭州攻略では敗北して応天へ召還されており、
常遇春の戦歴を「すべての作戦が成功した」とすることはできない。

↓↓明朝建国を軍事面から支えた名将・徐達についての個別記事は、こちら

徐達|明朝建国を支えた名将と“粛清を免れた理由”
徐達(じょたつ)は、朱元璋の挙兵初期から従い、陳友諒・張士誠との戦いを経て江南統一を支え、25万の北伐軍を率いて元の大都を攻略した明朝屈指の名将。常遇春と「徐常」と並び称され、魏国公に封じられた開国第一功臣である。北元の名将ココ・テムルとの攻防、厳格な軍紀と朱元璋からの信頼、洪武年間の功臣粛清を免れた背景、死因をめぐる「焼鵞」の逸話が史実なのかまで、その生涯と実像を詳しく解説する。

陳友諒との戦い|龍湾から鄱陽湖へ

朱元璋が江南で勢力を拡大する一方、西方では陳友諒が強大な勢力を築いていた。

至正20年(1360年)、陳友諒が大軍を率いて龍湾へ迫ると、
常遇春は五翼の兵を率いて伏兵を置き、陳友諒軍を大破した。
そのまま太平を奪回し、この戦いでは第一の功績を挙げたと『明史』に記されている。

朱元璋が陳友諒を追って江州へ向かうと、常遇春は留守を任された。
軍紀を厳しく保ったため、軍民は規律に従って混乱を起こさなかったという。

その後も安慶・江州方面を転戦し、
長興を救援した際には張士誠軍五千余りを俘虜・殺害して包囲を解いた。

九華山で降伏兵を大量に殺害

常遇春の軍歴には、勇猛さだけでなく苛烈な一面も記録されている。

池州で徐達とともに陳友諒軍を九華山の麓で破った際、
朱元璋軍は一万人を斬り、さらに三千人を捕虜とした。

常遇春は捕虜について「精鋭であり、生かしておけば後患になる」と主張した。
徐達はこれに反対し、朱元璋の判断を仰ごうとしたが、
常遇春は命令を待たず、その夜のうちに捕虜の半数以上を穴埋めにして殺害した。

朱元璋はこれを喜ばず、残った捕虜をすべて釈放させた。
その後、徐達に諸将を統率させるようになったことも『明史』に記されている。

常遇春の殺戮については後世にさまざまな逸話が加えられているが、
少なくとも九華山で降伏兵を大量に殺したことは正史にも明記されている。

安豊救援|敗れた味方を横から救う

至正23年(1363年)、張士誠配下の呂珍が安豊を攻撃し、紅巾軍の劉福通を殺害した。

朱元璋が救援へ向かったが、到着した時には呂珍軍がすでに防備を固めていた。
朱元璋軍の左右両軍は攻撃を受けて敗れたものの、常遇春が横から敵陣へ突入し、
三度戦って三度ともこれを破った。

その後、徐達とともに廬州を包囲するが、陳友諒が洪都を攻撃したため主力軍は西へ転じる。

ここから常遇春は、朱元璋と陳友諒の決戦となる鄱陽湖の戦いへ向かう。

鄱陽湖の戦い|張定辺を射て朱元璋を救う

1363年、朱元璋軍と陳友諒軍は鄱陽湖で激突した。

陳友諒軍は巨大な楼船を連ね、上流から攻め下ってきた。
常遇春は諸将とともに激戦を繰り広げ、
『明史』は朱元璋軍の兵士が「一人で百人に当たる」ほど奮戦したと記している。

戦闘中、陳友諒軍の猛将・張定辺が朱元璋の乗る船へ直接攻撃を仕掛けた。
朱元璋の船は浅瀬に乗り上げて動けなくなり、危機に陥る。

常遇春は張定辺を矢で射て負傷させ、朱元璋の船を救った。

ところが今度は常遇春自身の船が浅瀬に乗り上げる。
そこへ流れてきた破船がぶつかったことで船が再び動き、常遇春も危機を脱した。

戦闘は三日間続き、朱元璋軍は火攻めによって陳友諒の艦隊を焼いた。
陳友諒が百隻ほどの船で突破を図ると朱元璋軍がこれを迎撃し、陳友諒は戦死する。

常遇春はこの戦いでも最高位の軍功を認められ、金帛や田地を厚く与えられた。

武昌攻略と赣州包囲|朱元璋から「殺すな」と命じられる

陳友諒の死後、常遇春は武昌包囲を任された。
陳友諒の後を継いだ陳理を救うため丞相・張必先が援軍を率いてくると、
その軍が集結する前に攻撃して張必先を捕らえた。
援軍を失った武昌は戦意を失い、陳理は降伏する。

これによって朱元璋は陳友諒の旧領である荊湖一帯を掌握した。

その後、常遇春は吉安を攻略し、赣州を包囲した。
守将の熊天瑞が頑強に抵抗すると、朱元璋は常遇春へ
「城を落としても多くを殺すな。土地を得ても民がいなければ何の意味があるのか」と命じた。

常遇春は堀を掘り柵を築いて包囲を続け、六か月後に熊天瑞が降伏すると約束通り殺さなかった。
朱元璋はこれを喜び、常遇春を褒める書状を送っている。
九華山で捕虜を独断で殺した時とは対照的であり、
常遇春が朱元璋の統制下で軍を率いる将へ変化していったことを示す出来事でもある。

張士誠を滅ぼす|湖州・平江攻略

陳友諒勢力を滅ぼした朱元璋にとって、次の大敵は江東の張士誠だった。

常遇春は副将軍として徐達とともに討伐軍へ加わり、
太湖・毘山・三里橋で張士誠軍を破って湖州へ迫った。

張士誠が援軍を旧館へ送り、朱元璋軍の背後を脅かすと、
常遇春は奇兵を率いて迂回し、逆に敵軍の背後へ回った。
精鋭部隊を撃破した後、平望では敵将・徐義を襲って赤龍船を焼き、烏鎮でも勝利する。

さらに升山の水陸両寨を破って旧館の兵をすべて捕らえたことで、湖州は陥落した。

その後、徐達とともに張士誠の本拠・平江を包囲する。
常遇春は虎丘方面に布陣し、張士誠が密かに兵を出して攻撃すると北濠で迎撃して大破し、
張士誠本人を捕らえる寸前まで追い詰めた。

長期包囲の末、常遇春は閶門から城内へ突入し、平江は陥落する。

張士誠勢力の滅亡によって朱元璋は江南最大の競争相手を排除し、
常遇春は中書平章軍国重事となって鄂国公に封じられた。
徐達と並んで朱元璋軍最高位の武将となったのである。

徐達と北伐へ|元朝を大都から追い出す

江南統一をほぼ終えた朱元璋は、元朝を北へ追い払うため大規模な北伐を開始した。
徐達が征虜大将軍、常遇春が副将軍となり、二十五万の歩騎を率いて中原へ向かった。

朱元璋は出陣前、常遇春の戦闘能力を高く評価する一方、その性格について釘を刺している。
百万の軍勢を前にして敵陣を破る能力では常遇春に並ぶ者はいない。
しかし心配なのは「戦えないこと」ではなく「軽々しく戦うこと」であり、
大将の身でありながら小部隊の兵士のように自ら敵と争うべきではない、と戒めたのである。

常遇春の勇猛さは朱元璋にとって最大の武器であると同時に、
総大将級の人物としては危険な性質でもあった。

洛水の戦い|単騎で元軍五万へ突入

北伐軍は山東を平定し、汴梁を攻略した後、河南へ進んだ。
洛水の北には五万の元軍が布陣していた。

常遇春は単騎で敵陣へ突入し、二十騎余りの敵兵に槍を向けられたが、
先頭の兵を一矢で射殺すると、そのまま大声を上げて敵陣へ駆け込んだ。
配下の精鋭もこれに続き、元軍は崩壊する。

常遇春は五十里余りにわたって追撃し、梁王アルグイを降伏させた。
河南各地も次々に明軍へ降った。

朱元璋から軽戦を戒められながらも、自ら先頭へ立って敵陣を破る戦い方は変わっていなかった。

大都攻略|元の順帝を北へ追う

河南平定後、徐達と常遇春は河北へ進んだ。

常遇春は先鋒として徳州を攻略し、水軍を率いて運河沿いを北上する。
河西務で元軍を破り、通州を攻略すると、元の順帝トゴン・テムルは大都を放棄し、
后妃や皇太子とともに北へ逃れた。

洪武元年(1368年)8月、明軍は大都へ入城する。
元朝による中国本土の支配は事実上終わり、大都は北平と改称された。

常遇春はさらに保定・河間・真定を攻略し、徐達とともに山西へ進んだ。

太原攻略|猛将だけではなかった戦術判断

太原攻略では、北元の名将・ココ・テムル(拡廓帖木児)が救援に向かった。

このとき明軍は騎兵こそ集まっていたものの、歩兵がまだ到着しておらず、
常遇春は徐達に対して、この状態で正面から戦えば損害が大きくなるとして夜襲を提案した。
徐達がこれを採用すると、ちょうどココ・テムル配下の豁鼻馬が内応を申し出たため、
明軍は精鋭騎兵を選び、馬に枚を噛ませて音を立てず敵陣へ接近した。

突然の奇襲を受けたココ・テムル軍は混乱し、
ココ・テムル自身も靴を片方履く暇さえなく痩せ馬に乗り、わずか十八騎とともに大同へ逃れた。
明軍は甲士四万人を降伏させて太原を攻略し、常遇春はさらにココ・テムルを忻州まで追撃している。

常遇春は自ら敵陣へ突入する勇猛さで知られるが、
太原では歩兵が到着していない自軍の状況を見て正面決戦を避け、
夜襲によって敵軍を崩す方法を選んだ。

敵を前にすればひたすら突撃した武将ではなく、
兵力や戦況に応じて攻撃方法を変える判断力も備えていたのである。

明建国後も続いた北方遠征|開平攻略と最後の戦い

洪武2年(1369年)、常遇春は徐達とともに陝西方面へ進軍した。
大同を攻略した後は河東から奉元へ進み、馮勝軍と合流して鳳翔を攻略するなど、
明軍は元の勢力を中国本土からさらに北西へ押し出していった。

その頃、元将・也速が通州を攻撃したため、朱元璋は常遇春に北平へ戻るよう命じた。
常遇春は李文忠を副将とし、九万の歩騎を率いて北平から出撃すると、
会州へ直進して錦州で江文清を破り、全寧では也速軍を撃破した。

大興州の攻略では千騎を八つの伏兵に分け、
夜間に城から逃れようとした守備軍を待ち伏せして捕らえ、そのまま城を攻略している。

さらに常遇春は開平へ進軍し、元の順帝が北へ逃亡すると数百里にわたって追撃した。
この追撃によって宗王・慶生や平章・鼎住らをはじめ将兵一万人を捕らえ、
車一万両、馬三千匹、牛五万頭など大量の物資と家畜を獲得している。

北元皇帝本人を捕らえることはできなかったものの、
明軍は元の旧都・上都にあたる開平を攻略し、北元の勢力をさらにモンゴル高原方面へ後退させた。

↓↓常遇春の死後その軍を引き継いだ李文忠についての個別記事は、こちら

李文忠|朱元璋の外甥にして明建国を支えた将軍の生涯
李文忠(りぶんちゅう)は朱元璋の外甥として若くから軍を率い、張士誠との江南統一戦や北元遠征で活躍した明建国の功臣。応昌を急襲して北元皇子らを捕らえ、曹国公に封じられた。徐達・常遇春と並ぶ軍功、辺境統治や水利整備、朱元璋への諫言、46歳で迎えた最期まで史実から解説する。

柳河川で急死|40歳で終わった軍歴

開平攻略を終えた常遇春は、軍を率いて帰還した。

しかし柳河川まで戻ったところで突然重い病に倒れ、そのまま死去した。
洪武2年(1369年)7月、享年40。

『明史』は「暴疾卒」と記すのみで、具体的な病名は伝えていない。

朱元璋は常遇春の死を知ると大きな衝撃を受けた。
遺体が龍江へ到着すると自ら出迎えて祭り、礼官に皇帝が大臣の死を悼む際の儀礼を検討させた。

宋の太宗が趙普を悼んだ故事にならった儀礼が採用され、常遇春は鍾山の原に葬られた。
死後には翊運推誠宣徳靖遠功臣・開府儀同三司・上柱国・太保・中書右丞相を贈られ、
開平王に追封されて「忠武」と諡された。
さらに太廟へ配享され、功臣廟では徐達に次ぐ第二位に肖像が置かれた。

明建国からわずか一年余りで亡くなったにもかかわらず、
建国功臣の中でも最上位に位置づけられたのである。

「常十万」の由来|本当に十万の兵を率いたのか

常遇春を象徴する異名が「常十万」である。

これは「常遇春一人で十万人に匹敵した」という意味ではない。
『明史』には、常遇春自身が「十万の兵を率いれば天下を横行できる」と語ったことから、
軍中で「常十万」と呼ばれたと記されている。

『明太祖実録』にも同様の由来が記録されている。

実際の常遇春は、常に十万人を単独で率いていたわけではない。
北伐では徐達の副将として二十五万の大軍の一翼を担い、
最後の開平遠征では李文忠とともに九万の軍を率いている。

「常十万」は兵力の実数を示す呼称ではなく、
自ら大軍を率いて天下を横行できると豪語した常遇春の自信と武名を表す異名だった。

徐達との違い|「徐常」と並び称された二人

明建国期の名将として、徐達と常遇春は「徐常」と並び称された。
両者はともに朱元璋が最も信頼した武将だったが、史書では戦い方の違いも描かれている。

『明史』は常遇春について、動きが速く、危険を恐れず敵陣深くへ入り込む性格だったとする。
一方、徐達はより謀略と統率に優れ、占領地では住民を乱さず、
捕らえた敵兵や間者まで恩義によって味方に取り込んだ。

朱元璋も徐達の慎重な用兵を高く評価していた。

しかし常遇春が単に徐達の指示に従うだけの副将だったわけではない。
太原攻略では常遇春自身が夜襲を提案し、徐達が採用している。
戦場では先頭に立ちながら、大軍同士の戦況を見て戦術を判断する能力も持っていた。

『明太祖実録』も、常遇春は徐達に従軍した時には節度を守って謙虚に振る舞い、
自ら軍を率いる時には少ない兵を多く見せることに巧みだったと評している。

常遇春の苛烈さ|「猛将」像の裏側

常遇春は後世、勇猛果敢な英雄として語られる一方、殺戮の多い武将としても知られている。
この点では、後世の誇張と正史に残る記録を分ける必要がある。

九華山で捕らえた陳友諒軍の兵について、常遇春が「生かしておけば後患になる」と主張し、
朱元璋の命令を待たずに半数以上を殺したことは『明史』に明記されている。
朱元璋はこの行動を喜ばず、残った捕虜を釈放した。

また『明史』の徐達伝では、常遇春は城を落とした際に殺戮を行うことがあったのに対し、
徐達は占領地の住民を乱さなかったと両者を比較している。

一方、常遇春が常に無差別殺戮を行ったわけでもない。

赣州では朱元璋から多くを殺さないよう命じられると、
半年にわたって包囲を続け、熊天瑞の降伏後には殺害しなかった。
龍湾を守った際には厳格な軍紀によって軍民の秩序を維持したとも記録されている。

常遇春の苛烈さは否定できないが、
戦場では極めて攻撃的で、敵兵を後患とみれば大量殺害も辞さなかった一方、
朱元璋の命令と軍の規律には従う将でもあった。

家族と子孫|皇太子朱標との姻戚関係

常遇春には常茂と常升という二人の息子がいた。

長男の常茂は父の功績によって鄭国公に封じられ、禄二千石と世券を与えられた。
しかし若く経験に乏しく、洪武20年(1387年)に馮勝に従ってナガチュ討伐へ参加した際、
軍令をめぐって馮勝と対立する。
降伏したナガチュが逃亡しようとしていると聞くと、常茂は刀でその腕を傷つけた。
これによって降伏したモンゴル軍の一部が動揺し、朱元璋は常茂を龍州へ移した。

常茂に子がなかったため、弟の常升が後を継いで開国公となった。
常升の最期については史料が一致せず、
靖難の変で徐輝祖とともに戦った後に永楽初年に死んだとする説と、
洪武年間に藍玉の党として処刑されたとする説がある。『明史』も確定できないとしている。

また、常遇春の娘は朱元璋の皇太子・朱標の正妃となった常氏である。
常氏は皇太子妃となり、朱標との間に朱雄英らを産んだ。
そのため常遇春は、明の皇太子家と姻戚関係を結ぶことになった。
ただし常遇春自身は洪武2年に亡くなっており、後世の外戚として政治権力を振るった人物ではない。

常氏一族はその後浮沈を経験したものの、弘治年間には常遇春の子孫が再び取り立てられ、
嘉靖年間には玄孫の常玄振が懐遠侯に封じられている。

常遇春の実像|「猛将」だけでは説明できない

常遇春の戦歴で最も目立つのは、敵を前にした時の異常なまでの積極性である。

采石では船から敵の待つ岸へ飛び移り、寧国では矢傷を負っても戦い続け、
鄱陽湖では張定辺を射て朱元璋を救った。
洛水では単騎で五万の元軍へ突入し、開平遠征までほぼ休むことなく最前線に立ち続けている。

朱元璋が「戦えないことではなく、軽々しく戦うことを心配する」と直接戒めたことは、
常遇春の長所と危うさを端的に示している。

しかし、その勇猛さだけで明初最高位の将軍まで上り詰めたわけではない。

龍湾では伏兵を用い、湖州では敵の背後へ奇兵を回し、太原では正面決戦を避けて夜襲を提案した。
最後の開平遠征でも、大興州で騎兵を八つの伏兵に分けて逃走する敵軍を捕らえている。

一方で、九華山の降伏兵殺害に代表される苛烈さも常遇春の一部だった。

朱元璋軍の中でも徐達が慎重な統率と占領地の安定で評価されたのに対し、
常遇春は敵軍を短期間で崩壊させる突破力に優れていた。
二人の性格と戦い方は異なったが、
その違いがあったからこそ「徐常」と並び称される組み合わせになったともいえる。

常遇春自身は「十万の兵を率いれば天下を横行できる」と豪語した。
その言葉は単なる虚勢ではなく、盗賊集団から朱元璋の軍へ入り、
わずか十四年ほどの間に采石から大都、さらに開平まで戦い続けた実績を背景としていた。

まとめ

常遇春が朱元璋に従ったのは1355年であり、死去したのは1369年である。
その軍歴はわずか十四年ほどしかない。

それでも、その間に采石で朱元璋軍の長江渡河を成功させ、
陳友諒との決戦では朱元璋の危機を救い、張士誠を滅ぼし、徐達とともに元の大都を攻略した。
明が成立した後も戦争は終わらず、北元を追って開平まで進撃した直後に40歳で急死している。

常遇春が後世まで「猛将」として記憶された理由は、単に腕力が強かったからではない。

敵陣を前にすると自ら先頭へ立ち、その突破を軍全体の勝利へつなげる能力が突出していた。
一方で、太原の夜襲に見られるように、戦況を読んで正面決戦を避ける判断もできた。

そして、その武勇の裏側には降伏兵を大量に殺した苛烈さも存在した。

朱元璋にとって常遇春は、扱いやすい将軍ではなかった。
軽率な戦闘を戒め、殺戮を止めなければならないこともあった。
それでも戦場で敵の主力を打ち破る役割では絶大な信頼を置かれ、
死後には開平王に追封され、功臣廟で徐達に次ぐ第二位に置かれた。

「常十万」という異名は、十万人を実際に常時率いたことを意味するものではない。
十万の兵さえあれば天下を横行できると豪語し、
それを荒唐無稽と切り捨てられないだけの戦歴を残したことこそ、
常遇春という武将を最もよく表している。

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史書・参考文献

・張廷玉等『明史』巻125「列伝第十三・常遇春」
・『明太祖実録』
・谷応泰『明史紀事本末』
・談遷『国榷』
・檀上寛『明の太祖 朱元璋』白帝社
・山根幸夫編『中国史 明-清』山川出版社

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