【南朝宋】劉彧(明帝)|前廃帝討伐と反乱鎮圧、孝武帝の男子28人粛清の実態

明帝・劉彧(南朝宋・皇帝) 031.皇帝

明帝・劉彧は、南朝宋第6代皇帝である。
文帝劉義隆の第十一子で、孝武帝劉駿の異母弟にあたる。

甥の前廃帝劉子業の治世では「猪王」と呼ばれて辱められ、何度も殺害されかけたが、
465年に宮廷内部の反前廃帝勢力と結んで劉子業を殺害し、自ら皇帝となった。

しかし即位しただけで皇位が確定したわけではない。
孝武帝の三男・晋安王劉子勛も尋陽で皇帝を称し、南朝宋の広い地域が劉子勛側についたため、
王朝は事実上二つに割れた。

劉彧はこの大内戦を制して明帝としての地位を固めたものの、
その過程で北魏の介入を招き、南朝宋は淮北の広大な領土を失った。

明帝には相反する二つの顔がある。
即位直後の内戦では、親族が敵方についた将軍まで疑わずに用い、
降伏者や反乱参加者にも寛容に接して政権再建を進めた。

一方、皇位を脅かす可能性のある皇族には極端に猜疑的で、孝武帝の男子を次々と殺害し、
さらに自らの弟である建安王劉休仁・山陽王劉休祐・巴陵王劉休若らまで排除していった。

晩年には奢侈と寺院建設、迷信や言葉への異常な禁忌が目立つようになり、
臣下は不用意な一言さえ命取りになりかねない状況に置かれた。

前廃帝の暴政を終わらせた人物でありながら、
自らもまた恐怖と粛清によって皇族を弱体化させた皇帝である。

文帝の十一男として生まれ、前廃帝から「猪王」と呼ばれる

劉彧は439年、文帝劉義隆の第十一子として生まれた。字は休炳、小字は栄期という。
幼くして実母を失い、宮中で養育された。
淮陽王に封じられたのち湘東王へ改封され、
孝武帝の治世には侍中、領軍将軍、徐州刺史などを歴任している。

兄の孝武帝からは比較的信頼されていた。
『宋書』は、孝武帝が兄弟を警戒する中でも劉彧だけは親しく遇され、
母の路太后の病気の際には薬の世話をさせていたと記す。

劉彧自身も読書を好み、文章や学問に関心を持ち、
『江左以来文章志』を撰し、『論語』の注釈を補ったと伝えられる。

状況が一変したのは、464年に孝武帝が死去し、その長男劉子業前廃帝として即位してからだった。

前廃帝は叔父たちを潜在的な皇位簒奪者として恐れ、建康に集めて監視下に置いた。
体格の太った劉彧は「猪王」と呼ばれ、建安王劉休仁は「殺王」、
山陽王劉休祐は「賊王」と呼ばれるなど、皇帝の叔父という地位を無視した屈辱的な扱いを受けた。

『宋書』系統の記録では、劉彧は裸にされ、手足を縛られ、
竹籠に入れられるなどの虐待を受けたとされる。
泥水の中へ入れられ、豚を扱うように食事を与えられたという逸話も残る。

前廃帝が劉彧を殺そうとした際には、劉休仁が「今殺すより、さらに太らせてから殺した方がよい」
という趣旨の言葉で皇帝をなだめ、命を救ったとも伝えられている。

劉彧は廷尉へ送られたこともあり、最後には翌日に殺されることまで決まっていた。
もはや皇帝に従っているだけでは生き残れない状況に追い込まれていたのである。

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前廃帝殺害と明帝即位

劉彧は腹心の阮佃夫・李道児らと密かに前廃帝排除を計画した。
前廃帝の側近たちも皇帝の気まぐれな殺害を恐れており、宮廷内部では反皇帝の空気が広がっていた。

465年11月29日、前廃帝の側近で強力な護衛だった宗越らが宮中を離れていた隙を突き、
阮佃夫らは寿寂之を計画へ引き込んだ。
寿寂之らは後堂にいた前廃帝を襲撃し、劉子業を殺害した

これは軍隊を率いて前廃帝を「討伐」した戦争ではなく、宮廷内部で実行されたクーデターだった。

事件直後の劉彧自身も、必ずしも皇帝即位の準備を完全に整えていたわけではない。
『宋書』には、事変後に建安王劉休仁が劉彧を西堂へ導いて皇帝の座へ着かせた際、
突然の出来事のため履物を失い、裸足で烏帽をかぶったままだったという記録が残る。

正式な即位以前から劉彧は「令書」の形式で政務を処理し、
前廃帝の弟である豫章王劉子尚と姉の山陰公主劉楚玉に死を命じた。
その後、正式に皇帝として即位し、泰始と改元する。

しかし、劉彧が前廃帝を倒したからといって、
南朝宋の人々が一斉に彼を正統な皇帝として認めたわけではなかった。
むしろここから、南朝宋後半最大級の内戦が始まる。

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劉子勛との皇位争いと北魏への領土喪失

明帝の最大の危機となったのが、孝武帝の三男・晋安王劉子勛との戦いである。

劉子勛は当時、江州の尋陽にいた。
前廃帝の時代から皇帝との関係が悪化しており、すでに中央政府への反抗姿勢を強めていた。
前廃帝が殺害され劉彧が即位すると、尋陽の勢力はこれを認めず、
466年正月に劉子勛を皇帝として擁立した。年号は「義嘉」とされた。

これによって南朝宋には、建康の明帝政権と尋陽の劉子勛政権という二つの皇帝政府が並立した。

しかも当初の勢力では、明帝側が圧倒的に不利だった。
徐州・青州・冀州・豫州・湘州・荊州・益州・梁州・広州など各地の刺史や将軍が劉子勛側へ動き、
明帝の命令が実際に届く地域は建康周辺を中心とする限られた範囲にまで縮小した。

それでも明帝側には建安王劉休仁をはじめ、呉喜、沈攸之、張興世ら有力な軍人が残った。
明帝軍は東方を制圧したのち長江沿岸で尋陽軍を破り、最終的に尋陽を攻略する。
劉子勛は捕らえられて殺害され、皇帝を称してから一年にも満たないうちに政権は崩壊した。

反乱側の人間まで赦した明帝

内戦期の明帝には、後年の皇族粛清とは大きく異なる一面があった。

『宋書』は、明帝が即位直後には「寛仁」をもって人に接したと評している。
明帝軍の将軍の父兄や子弟が劉子勛側についていても、
将軍本人を疑って兵権を取り上げることはせず、禁軍を預けたまま戦わせた。
そのため将軍たちも明帝を信頼し、力を尽くしたという。

内戦終結後も反乱参加者を一律に殺害せず、多くを赦免した。
才能のある者については再び官職へ登用し、以前からの臣下と変わらない扱いをしたとされる。

これは単なる温情だけではない。
国土の大半が反対側についた状況で、
関係者をすべて処罰すれば国家機構そのものが成り立たなくなる。

敵方に属していた人材を再利用し、短期間で朝廷を立て直すという現実的な政治判断でもあった。

薛安都が北魏を引き入れ、淮北を失う

しかし内戦勝利の代償は大きかった。

徐州刺史薛安都は劉子勛側についていたが、尋陽政権が崩壊すると明帝への降伏を申し出た。
ところが明帝は薛安都の帰順を完全には信用せず、張永・沈攸之らの軍を徐州方面へ派遣する。

自らの身を危険に感じた薛安都は北魏へ援助を求め、彭城を北魏へ明け渡した。
これによって南朝宋の内戦は北魏の介入を招くことになる。

467年、張永・沈攸之らの宋軍は北魏軍に大敗した。
『資治通鑑』は、この敗北によって南朝宋が「淮北四州及び豫州淮西の地」を失ったと記している。

その後も明帝は淮北奪回を試みたが成功せず、青州・冀州方面にも北魏軍が進出した。
孝武帝まで維持されていた北方領土の多くがこの時期に失われ、南朝宋の国境は大きく南へ後退した。

明帝は内戦には勝利したが、
王朝全体で見ればその勝利と引き換えに北方の重要な領土を失った
のである。

政権再建から皇族への猜疑へ

内戦を乗り切った明帝は、学問や文人を好む一面も見せた。
才能ある文人を側近へ登用し、自ら華林園の芳堂で『周易』の講義を聞くこともあった。
即位初期の寛容な姿勢もあり、前廃帝の恐怖政治から一時的に朝廷を立て直した点は評価できる。

しかし、臣下に対する寛容さとは対照的に、皇族に対する警戒は急速に強まっていった

明帝自身、甥の前廃帝に殺されかけ、その前廃帝をクーデターで殺して皇帝となっている。
即位直後には甥の劉子勛が別の皇帝として擁立され、王朝の大半がそちらについた。

明帝にとって皇族とは単なる親族ではなく、
いつ自分に代わって皇帝に擁立されてもおかしくない存在だった。

その恐怖が、やがて南朝宋皇室そのものを破壊する規模の粛清へ発展していく。

孝武帝の男子28人――明帝が殺したのは16人

孝武帝には男子が28人いた。
ここは人数を正確に区別する必要がある。
28人は「夭折を除いた人数」ではなく、夭折者を含めた孝武帝の男子総数である。

『宋書』巻80「孝武十四王伝」などをもとに整理すると、
孝武帝の男子28人のうち10人は幼くして死亡し、
2人――新安王劉子鸞と南海王劉子師――は前廃帝に殺された。
そして残るうち16人が明帝の時代に殺害された。

明帝による粛清は即位直後から始まっている。
前廃帝が殺された直後には、孝武帝の次男で前廃帝の同母弟だった豫章王劉子尚が賜死となった。

最大の敵となった晋安王劉子勛も内戦敗北後に殺害される。
その後、安陸王劉子綏、松滋侯劉子房、臨海王劉子頊、永嘉王劉子仁、始安王劉子真、邵陵王劉子元、淮南王劉子孟、南平王劉子産、廬陵王劉子輿、東平王劉子嗣らが次々と排除され、
まだ正式な王号を持たなかった劉子趨・劉子期・劉子悦も殺害された。

この中には皇位を争った劉子勛のような明確な敵対者もいる。
しかしすべてが大規模な反乱を起こした人物だったわけではない。
孝武帝の子であること自体が、明帝にとって皇位継承上の危険となった。

最終的には孝武帝自身の男子によってその血統を維持できなくなり、
明帝は自分の子である劉智随、のちの武陵王劉賛を孝武帝の後継として養子に立てている。

孝武帝の系統を大量に殺害した明帝自身が、
皇室祭祀を存続させるため自分の子をその後継者にするという状況になったのである。

自分の弟たちも次々と排除

明帝の粛清は、孝武帝の子供だけでは終わらなかった。

前廃帝殺害と劉子勛との内戦で明帝を支えた建安王劉休仁は、政権成立の最大の功労者の一人だった。前廃帝によって虐待されていた明帝を助け、
クーデター直後には劉彧を西堂へ導き、皇帝としての立場を整えた人物でもある。

しかし明帝が病に倒れ、皇太子劉昱が幼かったことから、朝廷では次第に劉休仁へ期待が集まった。
これを明帝は自分の死後に皇位や実権を奪われる危険とみなした。

471年、明帝は劉休仁に毒薬を与えて自殺させた。

同じ年には山陽王劉休祐も排除されている。
明帝は狩猟に同行した劉休祐を意図的に孤立させ、
配下に殺害させたうえで「落馬して死亡した」と発表した。

さらに巴陵王劉休若も明帝から警戒された。
明帝が病に伏すなか、地方で兵力を持つ弟たちが皇太子の脅威になると考えられ、
劉休若も建康へ呼び戻されて死を賜った。

つまり明帝は、甥である孝武帝の子供たちだけでなく、
自らとともに前廃帝時代を生き延び、自身の即位を支えた兄弟まで排除した
のである。

臣下の親族が敵方にいても信頼して軍を預けた即位初期の明帝と、
肉親を次々と殺した晩年の明帝は、同一人物とは思えないほど対照的である。

奢侈・財政悪化と迷信に傾いた晩年

劉子勛との内戦、北魏との戦争、淮北方面への軍事行動は南朝宋の財政を大きく消耗させた。
『宋書』は、淮水・泗水方面で軍事行動が絶えず、
長年の疲弊によって府庫が空になったと記している。

百官の俸禄も通常どおり支給することが困難となり、日ごとに細かく支給する状態になった。
それにもかかわらず、明帝自身の奢侈は止まらなかった。

特に知られるのが湘宮寺の建立である。
明帝はかつての邸宅を寺院とし、大規模な仏塔を建設しようとした。
虞願は、寺院建立の費用は民衆が子を売り妻を質に入れて負担したようなものだとして諫め、
「仏に知覚があるなら、むしろ悲しむだろう」という趣旨の批判を行ったと伝えられる。
明帝はこれに激怒した。

前廃帝によって破壊された寺院を復旧したこと自体は宗教政策の再建という側面もあるが、
晩年の大規模な建築は、戦争で疲弊した財政にさらに負担を加えた。

朝廷では近臣や恩倖を通じた請託や贈賄も問題となり、政治の公正さも損なわれていった。

不吉な言葉を恐れ、違反者を処罰

晩年の明帝は鬼神や不吉な兆候を強く恐れるようになった

『宋書』明帝紀によれば、
災禍・敗北・死・喪などを連想させる言葉について非常に細かな禁忌を設け、
その数は数百から千にも及んだとされる。
言葉や公文書の中に禁忌に触れる表現があれば、処罰や殺害にまで及ぶことがあった。

たとえば馬の毛色を表す「騧」という字が「禍」に似ているとして字形を改めさせ、
「白門」という通称も不吉だとして嫌った。
尚書右丞江謐が誤って「白門」と口にした際には、明帝が激怒し、
江謐は長時間謝罪してようやく許されたという。

宮中で寝台を移動したり壁を修理したりする際にも土地の神を祭り、
文人に大規模な祭祀のような祝文を作らせた。

晩年になると猜疑と残虐性も強まり、
側近が意に沿わなければ身体を切断するような刑罰まで行われたと『宋書』は記す。
前廃帝を倒した直後に見せた寛仁な姿勢は、治世後半になるほど失われていった。

「実子ではなかった」という逸話

明帝の子供たちについては、もう一つ有名な逸話が残されている。

明帝は非常に肥満しており、性的不能であったため、
諸王や側近の妾で妊娠した女性を密かに後宮へ入れ、
生まれた男子を自らの子として育てたという話である。

後廃帝劉昱順帝劉準についても、
実際には明帝の実子ではなかったという説が後世の史書や史論に伝えられた

特に後廃帝の母・陳妙登がいったん明帝の側近李道児に与えられ、
その後妊娠して宮中へ戻されたため、後廃帝自身が「李統」と名乗ったという逸話も知られている。

ただし、この話は明帝の子供たちの父子関係をDNAのように確認できる史料ではない。
南朝皇室をめぐる性的な醜聞は、敵対する王朝や後世の史家によって強調される場合も多い。

したがって「明帝の子供はすべて他人の子だった」と断定することはできず、
『宋書』『南史』などにそうした伝承が残るという扱いにとどめるべきである。

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崩御と明帝の評価

472年4月、明帝は景福殿で崩御した。『宋書』では数え34歳とされる。陵墓は高寧陵である。

後を継いだのは皇太子劉昱、すなわち後廃帝だった。
しかし劉昱も幼い皇帝であり、
明帝が死去した時点で皇室を支える有力な成人皇族は大幅に減少していた。
これは明帝自身の政策によるところが大きい。

明帝には、前廃帝政権を倒し、
ほぼ全国が劉子勛へ傾いた状況から政権を立て直した政治的・軍事的能力があった。
敵方に属した者を一律に粛清せず、人材を再登用した姿勢も、
『宋書』が明帝を評価している重要な部分である。

一方で、北魏への対応では淮北の広大な領土を失った。
さらに自らの皇位を守るため孝武帝の子供たちをほぼ完全に排除し、
晩年には自分を皇帝へ導いた劉休仁をはじめ、劉休祐や劉休若まで殺害した。

明帝が恐れたのは、まさに自分自身が行ったことだった。
彼は皇族の一人として前廃帝を殺し皇帝となったため、
別の皇族も同じ方法で自分や幼い皇太子を倒すのではないかという恐怖から逃れられなかった。

その結果、皇位を守るための粛清が皇室の支柱となる成人男性を消し去り、
幼い後廃帝を守る力まで弱めることになった。

明帝の死からわずか数年後、桂陽王劉休範や建平王劉景素ら残された皇族が反乱を起こし、
その鎮圧を通じて将軍蕭道成が台頭する。
最終的に蕭道成順帝から帝位を奪い、479年に南朝宋を滅ぼして南朝斉を建国した。

明帝は前廃帝の暴政によって崩壊しかけた王朝を一度は再建した。
しかし、その再建を支えたのは皇帝個人への権力集中であり、
皇族を潜在的な敵として排除する政治だった。

臣下には寛容でありながら血縁には容赦しないという矛盾した統治は、
短期的には皇位を守ったものの、長期的には劉宋皇室そのものの生存力を削った。

前廃帝によって殺されかけた劉彧が皇帝となり、
自らもまた皇族を殺し続ける側へ回ったことこそ、
劉宋後半の皇位継承が抱えていた最大の悲劇だった。

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史書・参考文献

・沈約『宋書』巻八「明帝紀」
・沈約『宋書』巻七十二「文九王伝」
・沈約『宋書』巻八十「孝武十四王伝」
・李延寿『南史』巻三「宋本紀下」
・司馬光『資治通鑑』巻131~133「宋紀」
・趙翼『廿二史劄記』「南史誤処」ほか

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